
さて暇人の独り言てなわけで旧帝国陸軍の戦車「九五式軽戦車」の成り立ちと経歴をご紹介。
第一次世界大戦で塹壕戦突破の為に投入された戦車、無論日本軍もこれに着目して各国から輸入等で調達(其の中には実戦に使われ弾痕の跡が残った車両もあたそうな) 各種運用実験等を実施、その後1929年(昭和4年)に国産初の量産型戦車の八九式中戦車が正式採用された。
国産初の量産戦車八九式中戦車 ガソリンエンジンの甲 ディーゼルエンジンの乙 があり戦車砲は短砲身58m砲を採用している。
1931年9月18日、中国北部奉天付近の満鉄(南満州鉄道)の線路が爆破、これを機に鉄道警備を主任務とする関東軍が出動、軍事衝突が発生「柳条湖事件」といわれ、いわゆる「満州事変」が勃発する。
ここからのべ14年に及ぶ中国大陸での戦火の始まりであり国産戦車の躍進の始まりだった。
1932年3月に満州国成立、そして翌年1933年1月、関東軍は満州国領土と宣言する「熱河省」に侵攻これを攻略する。 其の時各種装甲部隊(八九式中戦車や九二式重装甲車等)が投入されるもトラック部隊(平均時速40キロ)に対して八九式中戦車の最高速度25キロでは追従できなかった。
この戦訓を経て諸兵科連合(機械化部隊)を創設するにあたりトラック等の車両部隊に追従できる機動性能を持つ「機動戦車」の必要性を痛感し「機動戦車」の開発が行なわれた。此れが後の「九五式軽戦車」となる。
同年6月に開発が開始され翌年3月に試作車が完成、各種試験を経て1936年に九五式軽戦車として採用される(因に九五式の場合は1935年なのだが)
九五式軽戦車

37m砲を装備し最大重量7.4トン最大速度は40キロを発揮 エンジンは八九式中戦車のディーゼルエンジンを採用(最大120ps) 装甲厚は最大で12m 乗員3名
性能的にみれば当時世界各国の軽戦車としては遜色無いもので他国がガソリンエンジンを採用してるのに対しディーゼルエンジンを採用し10トン前後ある他国の軽戦車よりも軽量だった。
しかしながら、やはり採用前の運用実験時に既に致命的な問題が浮き彫りのなっていた。
特に問題とされたのが装甲厚で12mの装甲は小銃弾を防ぐギリギリのラインであってしかも、中国軍の採用する7.92mモーゼル弾の場合、距離や角度によっては貫通される可能性があった(実際にあったらしい)。
しかし騎兵側は確かに12mの装甲は不足気味だが機動戦車としての機動は力は十分であり装甲の不足分は総合的な機動防御で補えば良しという意見 歩兵寄りの戦車側は機動と攻撃力は問題ないが、防御ははなただ不足しており、戦車として運用するのは厳しい、せめて30mは欲しいという意見があったが、機動戦車としての名目上装甲は12mで問題無しとされた。 これが此の戦車の致命的な欠点となった。
更に攻撃力だが他国と遜色無い37m砲装備だったが同じ「九四式三七ミリ速射砲」より搭載上短砲身化され威力は劣り更に日本側の技術力不足により撤甲弾の質が低く同世代の37m砲にくらべ大幅に威力に劣っていた。
先進的だと思われるディーゼルエンジンも出力比はガソリンエンジンに劣りエンジン自体も大きく重く車内空間に無理を強いた。 更に軽く仕上げる為に更に車内空間は犠牲になり戦闘上不利に働いた。 いうならば軽量故に発展性もほぼ皆無だった。
1937年(昭和12年)7月7日に発生した盧溝橋事件を発端として支那事変が勃発、政府の不拡大方針にも関わらず戦火は上海に飛び火して日支両国の全面衝突へ発展する。
九五式軽戦車も各種戦場に投入されその機動力を生かして数多くの活躍をする。 防御力不足も対戦車能力が低い支那軍相手には其処まで問題とならなかった。 だが此れが後々の後継車の登場を遅らせることとなる(というか登場しなかった)。
因に戦車の覆帯(キャタピラ)の幅が支那のトウモロコシ畑の畝とぴったりでハマって動かなくなったという逸話があります。
1939年(昭和14年)5月から始まったノモンハン事変にて本格的な大量投入がされ3両一組のフォーメンションを使いソ連のBT-5戦車 T26軽戦車等と砲火を交え撃破等を記録している。 しかし両戦車等は装甲が薄かったため致命打を与えられ戦車兵の猛訓練の以心伝心な運用からきているといわれる。
ノモンハン事変時のソ連の主力戦車BTー5快速戦車 最大速度52キロを誇り、武装も強力な45m砲を搭載していた。
その後1941年(昭和16年)12月8日から始まった「太平洋戦争」でも九五式戦車は各所投入され マレー半島 フィリピン スマトラで米英軍と戦火を交えた。
しかしここで思わぬ強敵と遭遇する。 アメリカ製のM3 スチュアート軽戦車、 軽戦車ながら正面装甲38m 砲塔に至っては51mの重装甲 装備する37m砲は当時のどの37m砲より強力だった。
M3スチュアート軽戦車 軽戦車ながら車重は12.9トンあった。

九五式軽戦車の37m砲は全て弾き返され逆にM3 スチュアートの37mは1000メートル以上離れていていも易々と九五式軽戦車の装甲を貫通した。
結局体当たりなどで止めるしか術が無いと言う状況に、因に主力の九七式中戦車も同じ様な状況だった。しかしながら2000キロ以上走行しても故障無しなど信頼性は高かった。
だがその後は次々と投入される敵の新型戦車に対して貧弱な武装や防御力では全く太刀打ち出来ず各種防衛戦にて虚しく数多く撃破された。
テニアン島で放棄された九五式軽戦車
終戦後はその殆どは解体されたが 中国大陸では国共内戦にて両陣営が使ったり 仏印インドシナではフランス軍が使用したりと戦後も戦火に身を投じたり砲塔を取り外されブルドザーとして戦後復興の一躍を担ったりした。
最終的に日本戦車としては最多の2378両が生産され日本戦車部隊の基礎及び中核を成した。
確かに開発当時は世界基準の性能を備え開発目的の「機動戦車」としては十分な性能を有していたが先に述べた装甲や攻撃力不足、そして発展性の無さは本車の限界を早め更に後継車に恵まれず終戦まで使われ続けたのが一番の悲劇だろう。
先ずは中国大陸での運用上問題なく運用できたのと後々の欧州戦線での恐竜的な戦車の進化を予想しえなかった事。 それと一番の問題は国力であり太平洋戦争では航空機 艦船 の生産が優先され戦車等の陸上兵器は後回しだったという事だろう。
此の戦車の悲劇は其れに搭乗する戦車兵の悲劇でもあった。万に一つも勝ち目の無い戦いに向わなければならない戦車兵の苦悩は如何なものだったのかは想像に難く無いだろう。
ある意味其の当時の日本の限界を思わせてくれる戦車ではないだろうかと思う。 此の戦車の悲劇は他の日本戦車にも共通する所だしある意味日本的な考えの戦車ではないのだろうかと・・・・・・
さてなんでこういうことを書いているんだろう(え
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2012/11/15 20:40:13