
1945年8月15日、大日本帝国はポツダム宣言を受け入れ米英ソの連合国側に無条件降伏、1939年から始まった第二次世界大戦、そして1941年12月8日以来の太平洋戦争(日本名大東亜戦争)は終結した。
帝国陸海軍は解体され70年程の歴史に終止符をうち連合国による統治下に置かれ軍備撤廃の平和国家として歩はずだった。
しかし終戦後直ぐに始まった米英を中心とした資本主義陣営とソ連を中心とした社会主義陣営との対立はチャーチルの「鉄のカーテン」の演説や中国における共産党の内戦勝利による共産化、そして1950年6月25日、朝鮮戦争勃発をして日本占領下軍の部隊を朝鮮半島に投入、これにより日本の防衛戦力は低下、方針は転換され日本の再軍備が始まった。
同年8月10日に自衛隊の前身となる「警察予備隊」が発足、武装はアメリカからの供与品や旧軍からの品(九九式短小銃等)などで編成され重装備として戦車(当時は特車とよんだ)もアメリカからの供与された。
最初に供与されたM24チャーフィー軽戦車
M24は第二次大戦に完成した戦車ながら軽戦車ながら強力な武装(75m砲)を装備し良好な機動性と操縦性を持った傑作戦車ではあったが朝鮮戦争において北朝鮮軍のT34/85中戦車に一方的に撃破されその性能では既に役不足だった。(あくまでも軽戦車なため攻撃力防御力共に中戦車には劣る。元は偵察等の任務が主体)
同時期にM4シャーマンも供与される。
大戦期を通じ米軍の主力戦車として活躍したM4シャーマン、日本軍もその性能に苦戦を強いられた。 しかし体型のの問題等でM24より受けは良く無く更に性能も腐練化しつつあった。
軍の解体と軍備撤廃をして途絶えた日本の軍事組織、しかし大戦前は世界有数の軍備を誇り戦車も性能は低いとはいえ自前で開発 生産 配備し一時は世界第3位の戦車大国でもあった。
失われた栄光と名誉の奪還のため「国産戦車の開発」が始まることとなる。1955年に開発がスタートした。
開発は戦前から日本軍の戦車の開発生産を行なっていた三菱重工業が担当することとなり各種協議のすえ開発目標が提示される。
・戦闘重量30トン以下 全長6.0m 全幅2.8m以下 全高2.0m
・主砲は90ミリ戦車砲、最大俯角15° 携帯弾数50発
・エンジンは出力600ps 空冷ディーゼル 路上最大速度50km
等々の目標が掲げられたが90ミリ砲を搭載しそれに対応した防御や安定した射撃を実施するには30トン未満では技術的に無理なものがあった。
更に当時の道路事情や地形の関係で軽量で機動力の高い戦車の要望は大きく、それに加え鉄道輸送等の考慮もされていたため重量の増加への懸念は大きかった。
しかしこのままの要求で採用されれば装甲不足は致命的となり雑多なマトモな戦車戦は行なえず雑多な軽火器にすら撃破されてしまう可能性が大きく。試作車に乗った富士学校の機甲化の各面々は「これではマトモな戦いが出来ずにやられてしまう」という意見が続出、これでは前大戦の戦車と同じ末路になってしまう。ある者は「戦車乗りの良心にかけて、本案の戦車を装備化することには同意し難い」と言ったという。
トランスミッションおよびパワーパック方式が望まれたものの戦後の空白による技術不足により前大戦式の前輪駆動 マニュアル式前進5速後進2速が採用された。
武装は前記のとうり90ミリ砲を研究し日本製鉄所試作し52口径90ミリ砲を「61式52口径90ミリライフル砲」として正式採用した。
エンジンは同社(三菱重工)の船舶用をベースに改修した空冷4ストロークV型12気筒直噴式ターボチャージド・ディーゼルエンジン(570ps/2100rpm 排気量29600cc)が搭載された。
各種試作と運用テストを重ね1961年4月に61式戦車として採用された。

性能
・全長 8.19m
・車体長 6.03m
・全幅 2.95m
・重量 35t
・懸架方式トーションバー式
・速度 45km
・行動距離200km
・武装 主砲61式52口径90ミリライフル砲
副武装 7.62ミリ同軸機関銃 12.7ミリ重機関銃M2
・装甲 砲塔114mm 車体55mm
・エンジン 三菱12HM21WT(上記参考)
・乗員 4名
戦後10年を空白をして再び国産化され登場した61式戦車、10年の空白の中技術者と現場の努力が生んだ本車は第1世代目MBT(メインバトルタンク「主力戦車」)として恥じない性能(トランスミッション等で及ばない点はあるものの)を持ち日本の国土事情に適応した。
しかし世界の大勢は既に105ミリ砲装備の第2世代目に移りつつあり登場した時から既に時代遅れとなりつつもあった。
しかし本車は全国各所に配備され1974年の74式戦車登場まで陸上自衛隊の主力戦車として冷戦真っただ中の第一線に立ち国民の生命財産を守る任に着いた。
74式戦車採用後も順次更新されつつも老体ながらも一線に立ち地続けながら世紀が変わった2000年、39年という永い任務を終え全車退役した。
開発配備され一度も砲火を交える事無く退役した61式戦車、多くの戦車が戦いに投入され華々しい戦火を上げたり無惨な姿に屍を晒す事を横目に、国の繁栄の中その影で只只管もしもの有事に備え休む事無く任を果たし続けた。
そう彼(61式戦車)は「国民の生命財産を守る」という任を見事全うしたのだ、更に砲火による犠牲もなく・・・・・・・ これ以上の名誉が何処にあるのだろう。
「失われた栄光と名誉の奪還」とは10年の空白を押し切っての登場ではなく、旧陸軍戦車と戦車兵が初戦味わった栄光と名誉しかし、後半になり舐めた苦悩と辛酸をして失った。 だが上記のとうり61式戦車は犠牲を出す事無く任を全うした。 それをしてやっと半世紀以上失った「栄光と名誉」を本当の意味で取り返したと言えるのではないだろうか??
今61式戦車は少数が展示車両としてその存在を今も尚残している。 戦後日本の平和と安全を守りそして願った防人は今は静かな余生をおくっている。
願わくばこの防人が守り通した「平和」が続いてくれる事を切に願いながら前大戦にて命を落とした多くの英霊に哀悼の意を捧ぐ。
ブログ一覧 | 日記
Posted at
2013/02/24 20:52:59