20世紀初頭、まだ輸送の基本は鉄道だった。 鉄道から離れたら馬で運んでいた。 歩兵は一部を除いて基本的には徒歩行軍だったのは自明の理ではある。
しかし自動車が開発され馬のの一部を代替えし歩兵もそれに乗る様になった。 はじめての総力戦となった第一次世界大戦ではフランスは民間タクシー等も徴用して物資人員の迅速なピストン輸送を行い成果をあげた。
でもそれでも各国とも歩兵は徒歩は変わりなった。 しかしながら第一次大戦で生まれた新兵器「戦車」の性能が上がってきた。 最初こそ歩兵の駆け足程度だった速度も10〜20キロ以上となりとても歩兵の足ではついて行けなくなった。 でもまだその頃は戦車はあくまでも歩兵の支援であり歩調を合わせていたから其処まで問題とならなかったが。
だが第二次大戦で行った画期的な「電撃戦」では戦車は主役で突破口を開くため全力で突っ込まなければならない。その頃になると戦車も30〜40キロ位速度を出せる様になっていた。 せっかく戦車が開いた突破口も歩兵がノロノロ(無論歩兵側は必死に走るわけだが)していてはその穴は塞がれ先に突撃した戦車は敵中孤立してご破算である・・・・・・・・
そんなこんなで何かに歩兵を乗せようって事になる。 牡馬さんではやはり速度も足りないし兵士一人一人に用意もできないし訓練もできない。 なら自動車、特に沢山乗せれるトラックに白羽の矢がたった。
確かにそれである程度は対応できるが・・・・・・・ それはきちんとした道がある場所に限ってだった。 きちんと整備された道なら戦車以上に走れたが・・・・・・ 無論戦場はきちんと整備された道ばかりではない。どっちかというと「不整地」が多いくらいだ。
そうなるとキャタピラで駆動する戦車なら問題ないがタイヤで走るトラックは著しく速度を制限され・・・・・というか走れなくなる。 そこから降りて〜 なて本末転倒・・・・・・・
そういう経緯もあり各国戦車に追従できる乗り物を開発に乗り出した。 理想は完全キャタピラ式の装甲車だがコストと運転訓練の時間の問題があり数を揃えることが難しい。 そこである程度の悪路走破性能と自動車に近い運転感覚のある「ハーフトラック」が採用されることとなった。
ドイツのSd.kfz250
どいつはこのSd.kfzシリーズを多数の生産して 兵員輸送用 弾着観測用 偵察用 指揮者用 対空用 等多くの任務に就かせ活躍。 ドイツの序盤のい電撃戦の立役者となった。
自動車大国であったアメリカもこれに触発されてM3ハーフトラックを開発。
とりあえずこれ一台を基礎にもう膨大な量を量産、自国のみならず イギリスやカナダ等の友邦国 そんでもって本来は敵だが今は見方のソ連にも大量に供与した。 無論コレ以上に多くのドラックも供与。 自国は無論完全な自動車化を達成し友邦も自動車化・・・・・・・ 戦車や火砲や航空機等の正面装備で手一杯なソ連の後方戦力の一翼を助けた・・・・・・・ この国は本当に一頭も二頭も飛び抜けた実力をもっている(滝汗)
そんでもってわが「大日本帝国」であるが・・・・・・・・ 世界中でこれほど歩く軍隊はいないだろうと言う程歩く軍隊だった。 あの広大な中国大陸における大陸打通作戦では片道2000キロ以上を徒歩で走破した部隊がある程・・・・・・・・
というかまぁぶっちゃけ自動車化したいけど第二次大戦の2年前から支那(中国)と戦争(でも宣戦布告は行わず「事変」)をしていて膨大な兵力を大陸に送っていた。 更に満州防衛の為に関東軍への兵力増強も行ったりで国力がまったくついて行けないという事に・・・・・・・ とりあえず生産されたトラックや牽引車等は 弾薬や物資 牡馬さんでは運べない大型重砲の牽引等に優先して配備されて歩兵までは回ってこなかった。
しかし第二次大戦が始まり同盟国のドイツが電撃戦で華々しい成果を上げるもんだから慌てて装甲部隊の創設&運用に取り組む・・・・・・ 戦車は九五式軽戦車や九七式中戦車等、当時まだそれなりの性能の機動戦車(九五式で40キロ 九七式で38キロ)があったから大丈夫〜な筈・・・・・・ 歩兵の移動は少ないながらもトラックを集めて〜 でもドイツはSd.kfzシリーズを使って大きな戦果をあげてる・・・・・・ てことでハーフトラックの開発に乗り出し開発されたのが 「一式半装軌装甲兵車ホハ」だった。

性能
基礎データ
全長 6.10 m
全幅 2.10 m
全高 2.51 m
重量 7.00 t
乗員数 3 名+兵員12名
装甲・武装
装甲 6 mm
副武装 7.7 mm 重機関銃×3
機動力
速度 50 km/h
エンジン 日野重工DB52型 統制一〇〇型
空冷直列6気筒ディーゼル
134 hp / 2000 rpm
懸架・駆動 半装軌式
行動距離 300 km
歩兵を12名登場又は2トンの物資を乗せる事が出来る。 更に7.7ミリ機銃を3丁搭載出来る等世界的にみても優秀なハーフトラックが完成した。 しかもエンジンは日本得意のディーゼルエンジンで低オクタンな燃料でも動かす事ができるという。 これは先見の明がある。 しかし ハーフトラックの利点は「普通の自動車の感覚で運転できる」ということだが当時すでに自動車免許人口の多かった独・米・仏では便利だったけど、日本は当時そこまで自動車が普及していなかったため、結局一から搭乗員を養成するしかなく、それなら完全な装軌式のほうが超信地旋回(キャタピラを左右で逆回転させてその場で方向を変えること)もできて便利じゃねぇかという結論になってしまうためである・・・・・・・ なら完全無限機動でも・・・・・・・ と思うが又別に無限機動の「一式装甲兵車 ホキ」も開発生産してたりする。
「一式装甲兵車 ホキ」
しかし正式採用された1941年・・・・・・ まだ中国で泥沼の戦いを繰り広げていた日本は今度は更に広大な太平洋にて米英を中心とした連合国と先端を開きここに「大東亜戦争」後の「太平洋戦争」が勃発します。
そうなると主要戦場である太平洋戦線に生産は集中します。 特に重要な航空機や船舶への生産が集中・・・・・・ 結果その煽りをウケるのは陸上兵器。 特に太平洋等の島を巡る戦いでは「戦車」の重要度は低く優先順位は下げられる。 主役の戦車がそれだからその補助であるハーフトラックはある意味最も冷や飯を食わされたといって良いだろう。
当初優勢だった戦況も不利になりマリアナ陥落で絶対国防圏は崩壊、次はフィリピンということになり満州で待機中だった「戦車第二師団」がフィリピンに輸送されたが・・・・・・・ そこで一式半装軌装甲兵車 ホハがどれだけ活躍したか記す戦記は残っていない・・・・・・ というか結構な数が輸送時に沈められ海没しているのを考えると殆ど成果を上げる事は出来なかったと予想する・・・・・・・
結局の所 フィリピンや中国戦線にも投入されたらしいが数の少なさや輸送時の海没を含め主たる戦果はあげられず大半が本土決戦に備え温存されていた(特に戦車第一師団等の機甲部隊)。 といっても結局最期まで生産の優先順位は低いままで一番配備が優先されていたであろう戦車第一師団の機動歩兵第一連隊での終戦時の車両配備が、装甲兵車39両、装軌貨車3両、自動貨車21両、軽装甲車15両、乗用車8両、指揮車1両などでとても多いとは言えない(連隊で2000名近い兵士を考えると)状況。 これが最も潤沢な部隊なので後はおって知るべしだろう。
結局本土決戦は起きなかったので最期の活躍の場は無かった・・・・・・ というか無くて良かった・・・・・・ 終戦後多くの(といってもそこまで大量とはいえない)一式半装軌装甲兵車ホハは解体されたが一部は残されて東京都では本車を改造したものがゴミ収集車として使用され、また、本車を製造していた日野重工では、終戦後の民需転換のために本車のエンジン・シャーシを利用して大型のトレーラー式トラックやバスを製造して戦後復興へ役立っている。 ある意味コレが一番活躍したのかもしれない。
その後ハーフトラックは技術の進歩と共に速度と経済性において全装軌車より優れるというメリットが消失していったこともあって、戦後は殆どが全装軌式に置き換えられて世界から消えていった。
しかしながら1994年・・・・・・・ ホンダは何を血迷ったか後部2軸構造のアクティ クローラを発売したりしたのは何故だろうか・・・・・・・・
アクティクローラー
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2014/01/26 21:31:36