2010年06月09日
今日は珈琲についての話・・・ 珈琲はイスラーム教では「黒いザムザムの聖水」と呼ばれコレを飲めば無病息災そしてコレを飲めば灼熱地獄に堕ちないといわれたそうだ、 これを広めたのはイスラーム教の一衆派である「スーフィー」と呼ばれる集団で珈琲のカフェインによる不眠の効果等で夜間巡礼の助けとしたのである。
イスラーム社会で数々の困難を乗り越え正当性を確立した珈琲は紅海を渡りヨーロッパの地に降り立ったヨーロッパの人々は遥か彼方アラビアのオリエントな夢に酔いしれた、本格的に珈琲が広まったのはオスマントルコ帝国のウィーン包囲後に残された大量の珈琲からだともいわれる。 珈琲が最初に広まったのは「イギリス」1652年にロンドンに「コーヒー・ハウス」が初めて登場した、その後コーヒー・ハウスは貿易・郵便・株式・保険にたるまで当時無々尽くしだったものを生み出しまたコーヒー一杯で何時間も粘り討論し多くの知識を得られる事から「1ペニー大学」とも呼ばれた。
その後イギリスでは珈琲は急速に衰退し紅茶にその地位を譲り渡す事になるがドーバーを挟んだフランスでは「カフェ」として地位を築き上げ更にその後に起こったフランス革命において「パレ・ロワイヤル」や「カフェ・ド・フォア」等の革命思想家の集会場として重大な役割を果たす事と成る。
わすれては成らないのが珈琲を作る側である、ヨーロッパ各国は自分たちの植民地に多くのコーヒー・プランテーションを作った。当時で代表格はオランダのジャワ フランスの西インド等であり、そこで働くのは原住民とアフリカから連れてこられた黒人奴隷達であった。 ヨーロッパの多くのカフェで「討論」「只のお喋り」「過度の社交性」を刻んでる中植民地のプランテーションでは奴隷達が酷使されつづけていた・・・珈琲のことを「神々の食事」と呼んだが植民地ではそのため「人々の主食」は「神々の食事」の生産の犠牲となり食料危機が幾度となく訪れた・・・これをして珈琲のことを「ニグロの汗」と呼ぶ事もある。
フランス革命後フランスに現れた「英雄」ナポレオン・ボナパルトにより「大陸封鎖令」がしかれヨーロッパにおて珈琲が途絶する事態となった。これを受け当時ナポレオンの支配下にあったプロイセン(現ドイツ)ではそれに変わる数々の代用珈琲や代用砂糖などが開発されたが我慢はそう長く続くものではない・・・ カール・マルクスはこう言った「ナポレオンの大陸封鎖によって生じた砂糖と珈琲の欠乏はドイツ人を対ナポレオン蜂起に駆り立て、このようにして1813年の輝かしい解放戦争の現実的土台となったことで、砂糖と珈琲は19世紀において世界的意義を示したのである」このようにしてナポレオンはロシアでの敗北と珈琲と砂糖を求める人々の行動により歴史の舞台から姿を消すこととなった。
その後の20世紀に入っても珈琲は歴史の舞台に居座りつづける1914年に始まった第1次世界大戦でのドイツでは戦時原材料局が設置され「珈琲の確保」に獅子奮迅の努力を払う組織があったその組織を「戦時栄養課」といったその報告書の中でこのようなものがある「珈琲はドイツ国民にとって不可欠な飲み物となった、珈琲が人体に及ぼす刺激作用は、人体を最高の能力発揮へと鼓舞するからである.国防省及び戦時栄養課はこの事実を認識し、何よりもまず第一に戦場の兵士と後方の重労働者に珈琲を供給するために多大な備蓄をおこなった、アルコール飲料もたばこも、珈琲ほど持続的に刺激を与えることができないからである」 さらに珈琲欠乏が躊躇だった海軍から革命に発展したため「珈琲の欠乏により革命にいたった」という論さえでるほどでありそれほど「珈琲」は中央ヨーロッパにおいて切っても切れない関係があったのである。
その後当時世界の珈琲の80%以上を供給し更に経済の90%を供給していたブラジルが戦後の需要不足と豊作が重なり供給過剰となり国家が傾く状態までなったが数年の大不作とアメリカの禁酒法設定により事無き事を得たばかりか巨額の利益を出した・・・しかしそれは不作と禁酒法という奇跡が重なって起きた偶然の産物でありそれにも関わらずプランテーションの拡大を行ったのである・・・珈琲が植えてから実をつけるまで5年、1924年ドーズ案を受け天文学的インフレを収束させ安定期に入ったドイツやその他ヨーロッパ諸国の購買の促進により大規模な拡大を行った・・・その5年後の1929年実を付け出した若木共々記録的な大豊作となったのである、前回おこなった買い上げすら不可能になり追い打ちをかける様にウォール街の株式大暴落による世界恐慌の影響で買い取りの資金の借り入れが絶望的となり世界的な購買意欲の低下も重なりもはや手のつけ用の無い事態と成る・・・政府は輸出する珈琲に100%の税金をかけそれで国が買い取り破棄するという前代未聞の政策をとった、最初こそ大反対だった農民も止むなしとし採用され、それは在庫が全て処分され珈琲生産意欲の減退が生じ総生産量が減るまで続けられた・・・1931年より破棄された珈琲の総量は46992840トンに上ったコレは実に世界の珈琲消費量の2年半分にあたるという・・・この間ブラジル各地で珈琲が焼かれ船上では海に向かって投棄され極めつけは蒸気機関車の燃料として珈琲豆が使われ煙突から香しい珈琲アロマを出しつつ走ったのである。
最後に珈琲とはその他の嗜好品(茶や酒)とは異なった点が有ると言う事を書いておく、かつてドフトエフスキーが窮地のどん底の時に「俺に今Ⅰ杯の珈琲があったら世界はどうなってもかまわぬ」といった.しかしこの「俺に今Ⅰ杯の珈琲があったら世界はどうなってもかまわぬ」と一人静かに珈琲を飲み下すことが出来る為には中南米やアフリカの遠い何処かの世界が珈琲を生産するようになっており(自然にそなったのではない)さらにその珈琲豆を無事に送り届ける一切の産業構造(輸出業者 仲買人 船舶会社 倉庫会社 輸入業者 焙煎業者 小売店 喫茶店等々)がトラック一台、人間一人一人に至まで真っ当に機能してる事を前提としており、したがって珈琲を飲むという行為は酒や茶を飲むのとはかなり程度の異なった極めて「不自然」な、人工的、文明的な行為である。 それはヨーロパ列強の植民地支配という長大な過去と円滑な世界交易の存在を前提にして初めて可能な行為であり、珈琲を飲みたいという安穏な願いが時代の生産関係や政治事情に抵触するのことがるのは、上記の世界史上のいくつかの事例に見てきた通りである。
まぁ・・・いまだ語りたいことはあれど疲れたのでこの位で(汗) 皆さんも珈琲を飲むとき少しばかりこんな事もあると言う事を思ってみてはいかがでしょうか??
Posted at 2010/06/09 22:32:45 | |
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