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ゆーさく@アリスタント⑨州支部のブログ一覧

2010年08月03日 イイね!

先の大戦を振り返って〜大戦までの経緯〜

 もう気がつけば8月ですね〜 日々猛暑ですが8月といえば15日の終戦記念日があります、1939年から足掛け6年に渡り続いた第二次世界大戦・・・ この人類史上最も大規模で悲惨を極めたこの戦いについて書いてみたいと思います。 流石に1回ではまとめきれないので何回かに分けて書いてみようと思います、先ずは大戦に突入するまでの経緯から・・・

 1918年11月11日午前11時1914年7月28日から始まった第一次世界大戦が終結した日である、この戦いは今での戦いを根本から変えた機関銃に等に守られた塹壕はナポレオン戦争時から続いた歩兵の銃剣突撃や騎兵突撃を只の自殺行為へと変え、膨大な武器弾薬や物資、大量の人員・・・もはや以前の軍隊と軍隊の単なる戦いではなく全て国民を巻き込んだ国家総力戦であった。 

 此の戦いで闘員の戦死者は900万人、非戦闘員の死者は1,000万人、負傷者は2,200万人と推定されている。国別の戦死者はドイツ177万人、オーストリア120万人、イギリス91万人、フランス136万人、ロシア170万人、イタリア65万人、アメリカ13万人に及んだ。またこの戦争によって、当時流行していたスペインかぜが船舶を伝い伝染して世界的に猛威をふるい、戦没者を上回る数の病没者を出しのである。

 終戦後戦勝国は今までの様に敗戦国に損害分の賠償金を払わせようとするが・・・ もはや此の戦いで被った被害を既に4年における戦いで疲弊しきった敗戦国が払えるわけがなかったが戦勝国はベルサイユ条約の元ドイツとその同盟国は戦争を引き起こした責任として、莫大な賠償金(後に1320億金マルクと決定、当時のドイツGNP20年分)を課せたのである、この過酷過ぎるベルサイユ条約は後の大戦の大きな原因の一つであるとかんがえらる。

 更に此の戦いの後世界は大きく変わった中世以来ヨーロッパを支配してきたヨーロッパの君主制の消滅をもたらし、旧世界秩序を決定的に破壊した。ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、そしてロシア帝国の4つの帝国が分解した。ホーエンツォレルン家、ハプスブルク家、オスマン家、そしてロマノフ家の4つの王家は中世以来の権力を持っていたが、この戦中あるいは戦後に没落した。そしてこの戦争は、ボリシェヴィキがロシア革命を起こす契機となり、20世紀に社会主義が世界を席巻する契機となった。 

 更に戦勝国であるイギリスやフランスも大きく疲弊しヨーロッパに変わりアメリカ合衆国が世界の中心となったのである。更にアジアでは日本の地位が大きく向上し国際連合の常任理事国とまでなった。

 ベルサイユ条約の下ドイツでは天文学的なまでのインフレーションが発生し混迷を極めた更に賠償金の支払いが滞るとフランスはドイツ工業の中心であるルール地方を占拠するなどの暴挙のも出てドイツ人は戦勝国に対して激しい憎悪を燃やすこととなった。

 しかしならがら24年に設定されたドーズ案によりドイツのインフレも落ち着き経済的に安定期に入り疲弊したヨーロッパ各国も徐々に回復世界は安定を取り戻したかに見えた・・・

 1929年10月24日繁栄を謳歌していたアメリア合衆国ウォール街において突如株価が大暴落した、それを発端とした恐慌は瞬く間に世界を駆け巡った。回復の見込みをみせていたヨーロッパは再び混迷へと突入した、更にアジアにも無論飛び火し日本経済にも大きな打撃を与えた。

 世界恐慌に対して植民地等を持つ国家郡はブロック経済に走ったが資源や植民地を持たない国々は苦境にたたされた、ドイツも一時的に経済の回復傾向が続いていたが、そこを襲った大恐慌によって深刻な状態へ陥った。アメリカ企業も次々と撤退、少しずつ復興しかけていた経済は一気にどん底に突き落とされた。結果、失業率は優に30パーセント以上に達し銀行や有力企業が次々倒産、大量の失業者が街に溢れ国内経済は破綻状態となる。 
 
 その中、共産主義とナチズムが台頭。失望した人々の期待を受けて国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が大躍進を遂げ1933年、ヒンデンブルク大統領の下で国家社会主義ドイツ労働者党党首のヒトラー内閣が成立。ドイツ国会議事堂放火事件でドイツ共産党を弾圧し全権委任法を成立させる。翌年、大統領の死去と共にヒトラーは総統に就任、第三帝国が成立した。

 更に日本は「満州は日本の生命線である」と言った言葉の通り、日本は大陸進出へと進んでいき。ドイツやイタリアのようにファシズムやナチズムを唱える政党の躍進はなかったものの軍部の発言力は強まり、満州事変を引き起こして政府の不拡大方針を無視し、さらに五・一五事件で政党政治の幕引きをし、ワシントン海軍軍縮条約、ロンドン海軍軍縮条約の破棄、二・二六事件、日独伊防共協定の締結等大戦へと向かっていった。

 ドイツにおいてヒトラーは公共事業の拡大等により雇用の回復を見もののそれは完全とは言えなかった、更にベルサイユ条約を破棄し再軍備を開始、領土拡大政策も進め1938年にはオーストリアを併合(アンシュルス)。9月にはチェコスロバキアに対し、ドイツ系住民が多く存在するズデーテン地方の割譲を要求。英仏は反発し、戦争突入の寸前にまで陥ったが、イタリアのベニート・ムッソリーニの提唱により英仏独伊の4ヶ国の首脳によるミュンヘン会談が開かれ、ヒトラーは英仏から妥協を引き出すことに成功した。

 この時ヒトラーが英国のネヴィル・チェンバレン首相に出した条件は「領土拡張はこれが最後」というものであった。しかしヒトラーはこの約束を遵守せず、翌1939年にはドイツ系住民保護を名目にチェコスロバキア全土に進軍、傀儡政権として独立させたスロバキアを除いて事実上併合した(チェコスロバキア併合)。オーストリア・チェコスロバキアを手に入れたヒトラーの次の目標は、ポーランド領となっているダンチヒ回廊であった。ヒトラーは軍事行動に先立って、犬猿の仲とされたヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦との間で独ソ不可侵条約を締結。世界中を驚愕させた。

 このように1918〜1939の約20年間の間は「平和」ではなく「休戦」と言う論者がいるほどで不完全な戦後処理と極端な平和への陶酔によりファシズムを押さえる事は出来なかった、憎悪は憎悪を呼ぶと言う様に負の連鎖が此の状況を生み出したのに間違いはない。これはヒトラーだけの問題ではない行ったのはヒトラーであるがそれを支持したのは他ならぬドイツ国民であった、ドイツ国民の心の中には自分達を苦境に追い込んだ第一次世界大戦の戦勝国に対する憎悪があったことは想像に難く無いでしょう。 憎悪は何処かで断ち切らねばいけながそれはとてつもなく難しいことであり当時それを止めれる術は無かった・・・いや術を探そうとはしなかったのではないだろうか・・・ それを怠たったツケは先の大戦より遥かに多くの血の代償を必要としたのである。

 とりあえず大戦までの経緯を個人的に書いてみました次は開戦篇を書いてみたいとおもいます。

Posted at 2010/08/03 22:13:19 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記

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