1941年の日米両国の戦いにおいて主役となったのは航空母艦いわゆる「空母」だった。 破竹の勢いで勢力を広げた日本の原動力はも「空母」を中心とした機動部隊であった事は周知の事実で、ハワイからインド洋まで世界の半分の海域を股にかけて活躍した。
世界初の空母艦隊同士の戦い「珊瑚海戦」から逝く日も立たず「ミッドウェー海戦」が勃発、ここで日本軍は初戦の快進撃を支えた 「赤城」 「加賀」 「蒼龍」 「飛竜」 の4空母を失い此処に進撃は止まった。 更に後のソロモン諸島ガダルカナルを巡る戦いと南太平洋海戦で多くの熟練搭乗員も失い日本空母機動部隊はここで大きく減退を余儀なくされた。
逆にアメリカ軍はその膨大な生産量を背景に大型の「エセックス級航空母艦」を就役させ、それに合わせ後方での多くのパイロットの育成も行い着々と反撃体勢を整えた。
ギルバート諸島 トラック諸島等を島伝いに占領又は壊滅させ北上し、遂に日本が絶対国防圏と定めたマリアナ諸島で日米両国の空母機動部隊は激突、ここに「マリアナ沖海戦」が勃発した。 結果は日本軍の惨敗で完膚なきまでに叩きのめされ此処に日本軍は組織的で有用な空母機動部隊を運用する事は出来なくなった。
その後の フィリピン 沖縄 本土空爆でも空母機動部隊は海軍の主力としてその威力を見せ付けた。 そんな終戦も近い1945年3月20日ある空母が進水した。
これこそがミッドウェー級航空母艦1番艦「ミッドウェー」だった。 無論艦名は本戦争の転換点であった「ミッドウェー島」からきている。
(USS Midway, CVB/CVA/CV-41)
基準排水量 建造時:45,000 t
満載排水量 建造時:60,000 t 退役時:64,000 t
全長 296 m (972 feet)
全幅 34.4 m (113 feet)
吃水 10.5 m (34.5 feet)
機関 ウェスティングハウス式蒸気タービン 4軸, 212,000hp
速力 最大33 ノット (60 km/h)
航続距離 11.520 海里(15ノット時)
乗員 士官、兵員 4,104名
兵装 5インチ砲18基
40mm機銃84基
20mm機銃68基
搭載機 137機(規定)
100機(第二次世界大戦 - 朝鮮戦争)
68機(ベトナム戦争 - 退役時)
この艦は主力大型空母であった「エセックス級航空母艦」を拡大拡張した当時としては最大級の空母だった(信濃を除く) 特に規定では130機にも及ぶ航空機を搭載可能でありこれは当時最大であり、更にエセックス級では見送られた飛行甲板への装甲化も実施、90㎜の装甲を施した(装甲空母といわれる大鳳が75㎜)。
しかし130機という艦載機数は一艦における運用限界を超えているといわれた。 結局本艦就役したのは同年9月10日、その次の日には東京湾の戦艦ミズーリ艦橋で降伏の調印式が行われそこに完全に第二次大戦は終結をして本艦は実戦に参加する事は無かった。
その後大西洋艦隊に所属して1950年に勃発した朝鮮戦争には参加せず1954年伊には機関のオーバーホールを兼ねた近代改修が行われ 艦首をエンクローズ化した「ハリケーン・バウ」、飛行甲板後端のエレベーター、アングルド・デッキおよび蒸気カタパルトが増設された。
改装後のミッドウェー
前記にて書いた130機という艦載機数は確かに1艦としての運用限界を超えていたものの、その大きな格納庫は後の大型化するジェット機に対してミッドウェーは対応した。 (前級のエセックス級が途中から大型化した艦上機の運用に困難をきたした)
そうして1960年代後半より始まったベトナム戦争にてミッドウェーは実戦に投入される。 因にここでミッドウェーの艦載機隊がベトナム戦争にて発の撃墜戦果を上げている。(Mig17を2機を撃墜)
更に作戦後には更なる近代改装(この近代化によりフライトデッキは11,300m2から16,200m2まで拡張され、エレベータは可搬重量が2倍に増強、再配置された。また、新型カタパルト、着艦制動装置、エアコンの集中化)が行われた。 しかし余りにも高価な改装だったため(予算は8,800万ドルから2億200万ドルまで超過)同級のフランクリン・D・ルーズベルトの改装はキャンセルされた。
1971〜1972年にかけてベトナム戦争にて従軍して戦果を上げて1972年8月31日には横須賀へ配備となり日本における初の空母戦闘部隊となった。
更に1975年にはフリークエント・ウィンド作戦に参加して邦人脱出に尽力している。 退役も間近と思われたがロナルド・レーガン政権下での600隻艦隊構想により退役を免れて艦齢延延命改装等を受け横須賀を母港として活動する。 空母の母港化への反対する市民団体などによりミッドウェーの名は全国的に広まることとなる。
1988年のソウルオリンピックでの警戒任務の後にベルリンの壁が崩壊し冷戦構造は終焉、しかし1991年には湾岸戦争に従軍、ペルシャ湾に入り、そこより航空攻撃を行った。戦争中は同地に留まり、母港の横須賀帰港は戦争終了後の3月11日だった。
そうして6月にフィリピン・ピナツボ火山が噴火し、同国クラーク空軍基地に在留する米国人救出のための作戦「オペレーション・ファイアリー・ヴィジル」に参加して邦人救出にあたり横須賀での任をインディペンデンスへ譲り横須賀を離れ真珠湾へ向かい翌年の1992年4月11日、カリフォルニア州ノースアイランド海軍航空基地にて退役した。
1991年時のミッドウェーの横須賀を離れる際。
太平洋戦争には間に合わなかったが、その後の米ソ対立の冷戦構造化の下その能力を遺憾なく発揮し、米国海軍の主力たる空母機動部隊の一角として、冷戦構造が終わるまでその勇姿を内外に固持し続けた。
現在はサンディエゴ港の海軍埠頭に係留して博物館としてその歴史と勇姿を未だに国民と世界の人々に魅せている。
Posted at 2014/04/02 21:42:54 | |
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