相模・河村城

●2020年12月09日相模・石垣山城(一夜城)(228枚撮影・1時間45分)149箇所目~相模・小田原城再び(317枚撮影・2時間32分)33箇所目~相模・河村城(200枚撮影・1時間35分)150箇所目、武蔵・八王子城再び(141枚撮影・45分)34箇所目で行きました。
元々の目的は2018年当時集めていなかった日本100名城スタンプゲットのために小田原城と八王子城訪問のオマケでした。
しかしNHKの放送で石垣山城と河村新城の魅力が判り行く事を決定。
が実際行ったの河村城でした。
河村新城は麓までしか行けないようだ。
見学出来たとしても発掘調査担当者か工事責任者に遂行して見学のHPしか無い。
発掘調査は2020年10月~2021年3月頃まで発掘調査しては埋めて新東名高速道路造成してしまうからだ。
よって河村新城の見学は諦め、河村城の写真編集をします。
2022年9月中には編集が終わり11月頃アップ予定です。
関連リンクよりフォトギャラリー検索で写真が見られるようにします。
==============参考HPより==============
現在の山北町周辺を支配していた河村氏が、山頂付近に砦のようなものを築いたのが河村城の始まりと言われています。
南北朝時代の記録に「河村城」と書かれているので、このころには城があったと考えられます。
河村城は、郭の配置などが近世の絵図にも残っており、また発掘調査により障子堀(しょうじぼり)や橋脚遺構、空堀、段切腰郭等が発見されています。
河村城を築いたとされる河村氏は、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族、波多野遠義の子、秀高が現在の山北の地を領し、河村を名乗ったことに始まると考えられています。
源氏と平氏による石橋山の合戦の際、河村秀高の子、義秀は平氏に味方したため領地を没収されてしまいますが、鎌倉で源頼朝に流鏑馬の妙技を披露し、本領河村郷に復帰できたと言われています。(『吾妻鏡』)
また、義秀の弟秀清は頼朝の奥州征伐に従い、戦功により岩手県に領地を得て、奥州河村氏の祖になったと考えられています。
南北朝時代、1352年に南朝方の新田義興らが河村城に籠城し、畠山国清を主将とする北朝方の足利尊氏軍と戦火を交えますが、翌1353年には新田軍は河村城から退却します。(『太平記』)
その後は関東管領上杉氏、大森氏の持城となった時期を経て、最終的には小田原北条氏の武田氏に備えた出城として重要視されましたが、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めに際し、廃城になったと考えられています。
住所: 神奈川県山北町
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