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2020年12月31日

「北陸トンネル火災事故」

「北陸トンネル火災事故」 これも、あれも、それも…!  嗚呼、痛恨の最多エラー図案切手

「北陸トンネル開通」
【1962(昭和37)年6月10日発行】
 最も間違いの多い日本切手といえば、「北陸トンネル開通」記念。
 実物の写真と一緒に、エラー部分を徹底検証してみましょう。
 工事日程が遅れ、
 前年に撮った写真と完成予想図だけで原画を描いてしまったことが、エラー多発の大きな原因だったもよう。
 嗚呼、痛恨のケアレスミス!

[写真・画像] 「北陸トンネル開通」記念切手

徹底検証!
①ケーブルの数
 トンネル上部には、最新式のブラケット(腕木)に吊るされた架線が2本だけあるはずなのに、 描かれているのは普通の架線。しかも本来はトンネル横にあるはずの通信・信号ケーブルまで天井を走っています。
②作業用電灯の位置
 切手では天井の中央に点々と並ぶ電灯。でも、実際は通信・信号ケーブルなどと同じく、トンネル横 の壁についています。
③線路部分
 レールはコンクリート床道に固定され、線路の間は排水溝になっているはずなのに、切手では普通のまくら木になっています。
④ドアとはしご段
特急「白鳥」に、乗務員用ドアとはしご段がない! さらに、トンネル開通でせっかく電化されたのに、電気を使わないディーゼル車(白鳥)が図案になっている点もピンとこない…?

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北陸トンネル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 北陸トンネル(ほくりくトンネル)は、福井県の敦賀市と南条郡南越前町にまたがる複線鉄道トンネルである。北陸本線の敦賀 - 南今庄駅間、木ノ芽峠の直下に位置する。総延長は13,870 mあり、1962年6月10日に開通した。

4 開通後の状況
4.1 旧線の現況
 開通当時は折からの高度成長期と相まって、科学文明の発展のシンボルでもあり、相当な話題となった。時間のかかるスイッチバックの単線、12か所ものトンネルをくぐる度に煤煙に悩まされていた旧線と較べ、複線電化、スピードアップ、コンクリートの枕木、蛍光灯照明の明るいトンネルはインパクトが大きく、新線開通祝賀式典の際には報道用のヘリコプターまで出動した。
 都市間連絡のスピードアップ、輸送量増加の陰で今庄駅は急行通過駅となり、新保駅、杉津駅、大桐駅の沿線はモータリゼーションの進展及び過疎化に伴いバスも通勤時間に数本走るのみとなった。
 長大トンネルながら頸城トンネルの筒石駅のようにトンネル内に駅が設置される構想は当初よりなかった。
 トンネル完成後、北陸本線では交流電化や複線化が急激に進展した。北陸トンネルは2016年現在においても北陸以北の日本海沿岸・北海道地域と関西・中部地域を結ぶ大動脈となっている。
 1972年11月6日、北陸トンネルを通過中であった急行「きたぐに」の食堂車で火災が発生し、30名の犠牲者を出した。この事故をきっかけに長大トンネル区間及び列車の空調、電源設備の安全性改善が進んだと言われている(蒸気機関車時代は、蒸気そのものを機関車から客車に直接送ることができた)。この事故の前の1969年12月にも北陸トンネルを通過中の寝台特急「日本海」の電源車から出火する事故があったが、このときは運転士の判断で列車をトンネルから脱出させて消火したため死者は出なかった(詳細は北陸トンネル火災事故も参照)。
 2006年10月21日に長年交流電化であった北陸本線長浜 - 敦賀間と湖西線永原 - 近江塩津間が直流電化され、敦賀口付近にデッドセクションが設けられた。福井方面からやってきた列車は特急・普通を問わず、デッドセクションにおける交流→直流の電源切り替えに備えるため、トンネルを抜ける手前で若干減速し、ほぼ抜け切ったところで車掌が案内放送を行う。
最終更新 2020年12月25日 (金) 05:58 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


北陸トンネル火災事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 北陸トンネル火災事故(ほくりくトンネルかさいじこ)は、1972年(昭和47年)11月6日未明に福井県敦賀市の北陸本線敦賀駅 - 南今庄駅間にある北陸トンネル(総延長13,870m)で発生した列車火災事故のことである。火災対策の不備により、乗客乗員に多数の死傷者を出す大惨事となった。列車名で「急行きたぐに号火災事故」とも呼ばれる。

1 事故概要
 午前1時4分頃、北陸トンネル内を走行中の大阪発青森行き501列車 急行「きたぐに」(EF70 62牽引、10系客車15両編成)の11号車食堂車[1](オシ17 2018)喫煙室椅子下から火災が発生。
 それに気付いた食堂車従業員からの通報を受けた車掌の非常ブレーキ操作と機関士の非常停止措置により、列車は運転規定に基づいて直ちに停車した(敦賀側入口から4.6km地点[2]。なお、日本国有鉄道監査委員会の「北陸本線北陸トンネル列車火災事故に関する特別監査報告書」(1973年)によると、事故現場は敦賀側から約5.3km地点、今庄側から約8.6kmとしている[1])。
 乗務員は列車防護の手配(対向の上り線に軌道短絡器を設置し、信号を赤にする)を行った上で消火器等で消火作業を開始したが、火勢が強まり鎮火は不可能と判断したため、車両の切り離し作業に取り掛かった。火勢の激しさとトンネル内の暗闇で作業は難航。
 1時24分頃、火災車両より後部を切り離し移動した後、1時29分頃、トンネル両端駅である今庄、敦賀両駅に救援を要請するとともに、引き続き火災車両より前部を切り離す作業に取り掛かった。
 しかし1時52分頃、架線が溶断され停電したため、列車は身動きが取れない状態に陥った[1][2]。

1.1 経過
 深夜帯に発生した事故であり、列車編成前部に連結されていた寝台車では多くの乗客が就寝中であったこと、煙がひどく、視界が悪かったことなども影響し、避難救助は難航を極めた。列車の停止した箇所がトンネルのほぼ中央で乗客が徒歩で脱出するにはあまりにも遠かったこと、消火器以外の消火設備がまったくなく、管轄の消防組織には排煙車の配置もなく、またホースをトンネル内に延展することもできなかったことから、消火作業は何もできず、歩いて救助に行くことしかできなかったとされる。事故発生から数時間後に国鉄職員、警察、消防団員らを乗せた救援列車がトンネルに入り、多くの取り残された乗客を救助したものの、火元の列車には煙に阻まれるなど二次災害の恐れがあったことから、やむなく近づけないまま引き返すこととなった。救助に向かうにしても、消火に向かうにしても厳しい条件下での事故だった。
 国鉄から敦賀側の敦賀美方消防組合への通報は、国鉄が災害対策本部を設置した10分後の午前1時51分で、発生から約40分程度の時間が経過、今庄側の南越消防組合に通報があったのは午前2時7分と発生から1時間近くが経過していた。 また、消防隊がトンネルに到着した時点では国鉄職員が現場にいなかったことや、消防が救援のため敦賀駅構内のモーターカーの出動を要請したが、当初対策本部に「鉄道管理局の許可が必要」と拒否される[3]など、国鉄の対応は後手後手に回った。
 当時、国鉄は電化されたトンネル内で火災は発生し得ないとしていた立場から、排煙設備や消火設備を一切設置せず、別経路の避難口もなく、また、トンネル照明も労働組合から「運転の妨げになる」という反対があったため、消灯していた。
 事故の通報を受け、トンネル両側より救援列車が運転されるなどしたが、火災が深夜の食堂車で発生したため発見・通報が遅れたこと、火災車両から発生した猛烈な煙と有毒ガスが排煙装置のないトンネル内に充満したこと等の悪条件が重なり、結果として30人(うち1人は指導機関士)が死亡し、714人にものぼる負傷者を出す事態となった[1]。死者は30人中29人が一酸化炭素中毒死[1](残る1人は避難時に水の溜まっていた排水溝に転落して溺れたことによる溺死)と断定された。
 1時40分に上り線を506M列車 急行「立山3号」(475系電車)が走行していたが、軌道短絡器設置による「停止」(赤)信号により事故現場から約2 km手前の木ノ芽信号場で停止した[1]。その後、軌道短絡器が軌道から外れ(「きたぐに」から脱出した避難者が接触して外れたか蹴飛ばしたものと推定されているが、最終的に原因は不明)、21分後に信号が「進行」(青)になり、運転士は異常を感じつつも徐行で出発させた。300 mほど進んだところ[1]で「きたぐに」から逃げてきた乗客を発見したため、「立山3号」は急遽この地点で運転を打ち切り、ドアを開放し225人を救助した[1]。しかし、車内に煙と臭いが立ち込めてきたことから、乗務員は二次災害の危険があると判断、取り残された人間の助けを求める声は聞こえていたものの、その場から後退し、トンネルを今庄側に逆走して脱出した。「立山3号」にとって幸運だったのは、事故現場との間に交・交セクションが存在していたことである。このため、「きたぐに」の停車区間では停電していたにもかかわらず、今庄方にわずか2 kmほどの「立山3号」の位置では給電が継続されていた。
 なお、トンネル内の漏水を誘導する樋が熱で溶け、架線に触れて停電した点については、その後の熱で再度架線から外れてショートが解消されたため、死亡した指導機関士が連絡をした時、送電を再開すれば自力脱出が可能であったのではという意見がある。しかし、事故発生時の状況から停電の発生原因の把握は困難と思われ、再送電による二次被害が起きる可能性を考慮すると、送電再開を断念する判断はやむを得なかったと考えられている。
01:04 定刻より2分遅れで「きたぐに」が敦賀駅を発車
01:13頃 火災を確認し停車[2]
01:23 今庄駅を「立山3号」が通過
その後車両切り離し作業始まる
01:40 「立山3号」木ノ芽信号場で停車
01:41 国鉄災害対策本部設置
01:51 敦賀美方消防組合へ通報
01:52 敦賀変電所の高速度遮断機が作動し、該当区間の給電停止。列車走行が不能になる[1]
02:00 敦賀口に消防車到着。国鉄関係者不在
02:01 木ノ芽信号場進行現示。「立山3号」は徐行にて出発
02:03 「立山3号」運転士が避難客を発見して停止。急遽運転を前途打ち切って救助のためドア開放
02:07 南越消防組合へ通報(今庄側)
02:30 敦賀側から救援モーターカーの進入許可が出る
02:40過ぎ 「立山3号」今庄駅に戻る
06:39 第2次救援列車が進入
10:30 第3次救援列車敦賀駅へ帰着

1.2 原因
1.2.1 出火原因
 火災の原因は、オシ17形の喫煙室長椅子下にある電気暖房装置のショート(基準違反の配線と配線の緩みであったことが判明している)とされた[4]。初期の段階ではオシ17形調理室の石炭レンジからの出火、あるいは、喫煙室でのタバコの火からの出火の説もあったが、断定はされなかった。

1.2.2 副次的要因
 北陸トンネルは着工時、国鉄の技術の粋を結集した交流長大トンネルであり、その安全性は極めて高いとされていた。しかし開通から5年目の1967年(昭和42年)、敦賀消防署が国鉄に対し、北陸トンネルの火災時の対応について申し入れを行っていた。内容は北陸トンネルを通過する列車に救命補助具や呼吸器を備えることだった。消防の方ではこの段階から北陸トンネルで大規模火災事故が発生することを予期していたのである。
 しかし、「電化トンネルで火災事故はあり得ない」とする国鉄の建前を守るために、国鉄はこれら消防からの要望、申し入れは一切封殺した。また、トンネル内の照明は普段消灯していただけではなく、一斉点灯させる回路が備わっておらず、火災発生時にも個々の回路(照明具680個に対しスイッチ500個)ごとにスイッチを入れていた。
 これら設備面での不備が被害拡大の要因になったとされている。

2 事故後の対策
この事故を教訓に、地下鉄や長大トンネルを走る車両の難燃化・不燃化の基準が改訂され、車両の火事対策が進められた。

車両の構造上においての主な対策としては、
・内装材をアルミ化粧板に取り替え
・ガラスの破損による隣の車両への延焼防止のため、貫通扉の窓ガラスを網入りガラスに取り替え
・隣の車両への延焼防止のため、貫通幌の難燃材料化
・寝台車と寝台列車に連結する食堂車の難燃化
・車内放送設備の整備と車内の非常ブザーなどの使用制限を明示するためのステッカー貼付
・車両に消火器を備え付け、もしくは増備
・寝台車に煙感知器の取り付けと非常用携帯電灯およびメガホンを備え付け
・床下にディーゼルエンジンを積んだ寝台車への自動消火装置の取付け

などがある。

従来、長大トンネル内の列車火災時にどのような措置をするのかは明確でなかったが、この事故の教訓から延長5km以上のトンネル(在来線13、新幹線7の計20箇所:当時)を長大トンネルと指定し、次の緊急対策を実施している。

・乗務員用無線の難聴対策、沿線電話機の改良、照明設備の改良、消火器の整備など
・長大トンネル付近にディーゼル機関車またはモーターカーの配置
・救援体制、火災発生時のマニュアル見直し、特にトンネル内の火災の場合トンネル内で停車しないなど。

また、列車回数の多い準長大トンネルについても、情報連絡設備、避難誘導設備、照明設備等の整備を行うこととなり、ほかにも乗務員用無線の難聴対策、沿線電話機の改良等長大トンネルと同等の対策が実施された。

 本件事故を重く見た国鉄は、外部より学識経験者も招聘して「鉄道火災対策技術委員会」を設置、1972年12月の大船工場での定置車両燃焼実験や翌1973年8月の狩勝実験線における走行車両燃焼実験を経て、1974年(昭和49年)10月に宮古線(現・三陸鉄道リアス線)の猿峠トンネルにおいてトンネル内走行中の車両を使用した燃焼実験を世界で初めて実施し、その結果からこれまでの「いかなる場合でも直ちに停車する」よりも「トンネル内火災時には停止せず、火災車両の貫通扉・窓・通風器をすべて閉じた上でそのまま走行し、トンネルを脱出する」ほうが安全であることが証明されたため、運転規程を改めた。トンネル内のほか、橋梁上や高架橋上でも停止しないことになった[5]。あわせて北陸トンネルのような長大トンネルであっても、トンネルを脱出するまで延焼を食い止められるよう、上述のような難燃化工事が進められていった。
 教訓が活かされた例として、JR移行後のサロンエクスプレスアルカディア火災事故がある。1988年(昭和63年)3月30日、気動車(サロンエクスプレスアルカディア)が越後中里駅-岩原スキー場前駅間で火災を起こした際、トンネルの多い長い区間だったためトンネルを出て緊急停止した事例などがある。
 「きたぐに」事故の前の1969年(昭和44年)にも、北陸トンネル内を通過中の寝台特急「日本海」で列車火災が発生したが、この時は列車乗務員が機転を利かせて当時の規程を無視して列車をトンネルから脱出させ、速やかな消火作業を可能とした。このため死傷者を生じさせなかったが、国鉄上層部はこれを「規程違反」として乗務員を処分し、運転マニュアルの見直しを行っていなかった。そのため事故列車は、長大トンネルの中間で規程どおりに停止せざるを得ず、結果として大惨事を惹起した。また、2年後の1971年(昭和46年)10月には、山陽本線を走行していた急行「雲仙」の座席指定車として使用されていたナハ10形の洗面台から出火し、火元の車両を含む3両が焼失する事故が発生した。このときは屋外での火災だったが、逃げ遅れた乗客1人が煙に巻かれて窒息死したものの、この時点では車両に対して火事対策等は実施されなかった。
 多数の犠牲者を発生させた責任を問われ、機関士と専務車掌の2人が業務上過失致死傷罪で起訴された。トンネル内で列車を停止したのが被害を大きくしたなどといった理由により長期裁判となって争われたが、1980年11月25日に金沢地方裁判所で下された判決では、事故当時乗務員のとった行為は「規程を遵守し最善を尽くした」とされ、また車両の切り離し作業におけるブレーキ管のホースの切り離し等、機関士にとって不慣れな作業による遅れは「許される範囲」として2人とも無罪が確定した。その一方で、前述の寝台特急日本海火災事故後も運転マニュアルを改訂せず放置し、消防からの申し入れも無視し続けた国鉄幹部の責任が追及されることはなかった。なお、本事故後に先述の「日本海」の乗務員に対する処分は撤回されている。
 この当時、事故車と同形のオシ17形は他に6両が在籍していたが、本事故の翌日にはすべての列車(当時、「きたぐに」のほかには上野 - 青森間の急行「十和田」1往復のみで使用)の運用から外され、裁判の証拠物件として保全命令が出され、車籍が残された被災車両の2018号車を除いて全車が廃車あるいは教習車両への改造で1974年までに消滅した。なお、2018は裁判終結後の1981年に廃車。この他2051が裁判の実地検分用として1980年頃まで金沢運転所に保管されていた。この事故が発生する以前から、夜行急行列車の食堂車はすでに縮小が進められていたが、オシ17形の全廃によって夜行急行列車から食堂車が消滅することとなった。
 火災発生の原因となった電気暖房配線のショートは、電気暖房を使用する限り、どの車両でも起こりうる事態であり、オシ17形だけが特別な危険性を有しているというわけではなかったが、10系客車は軽量化のために新建材の合板やプラスチックの内装を多用しており、それが有毒ガスの発生を招いて人的被害を拡大することの一因になった。
 さらに長大トンネルでは、この事故までトンネル壁部に取り付けられていた照明は、国鉄労働組合(国労)・国鉄動力車労働組合(動労)などの「乗務員の視界を妨げる」といった主張で平常時は消灯されていたが、この事故を契機に非常時に問題ありということで、常時点灯させるようになった。
 新型寝台車両として1971年から製造が開始されていた分散電源方式の14系客車も、床下にディーゼルエンジンを設けていることが安全上問題だとして、一時製造を中止した上で集中電源方式の24系の製造に切り替えた。後に分割が容易というメリットにより、防火安全対策を施した14系(15形)の製造を1978年から開始し、既存の14系(14形)にも自動消火装置の取付等14系(15形)と同等の火事対策が施されている。
 「きたぐに」やその他の夜行急行列車に使用されていた旧型客車のうち、座席車については、10系やスハ43系等在来の客車が老朽化したこともあって1973年から難燃性を高めた12系への代替が進められたが、当時の国鉄の内部事情などのため、完了したのは1982年11月の上越新幹線開業に伴うダイヤ改正時であった。寝台車に関しては、代替できる車両がないことから継続使用されたが、大部分は20系1000番台・2000番台に順次取り替えられた。これらも急行は1983年(昭和58年)までに座席車や20系改造車共々14系客車へ置き換えられ、長距離普通列車での運用も1985年(昭和60年)に全廃された。なお「きたぐに」は同年から583系電車での運行に変更され、2013年(平成25年)の廃止まで運転された。

3 その他
 2004年6月15日、NHKの『プロジェクトX』にて「列車炎上 救出せよ北陸トンネル火災」が放送された。この番組の中では、火災元であるオシ17が戦前製の車両であるとされていたが、車籍上では戦前製車両の改造(台枠のみ流用)であったものの車体・台車は戦後新製されたものであった。
 また、本事故が発生した同日には日本航空351便ハイジャック事件が発生している。

4 脚注
[1]^ “あんけんVol.10 研究成果レポート (PDF)”. 西日本旅客鉄道安全研究所. 2019年5月5日閲覧。
[2]^ 檀上完爾 『ある指導機関士の死』鉄道ジャーナル通巻第74号、鉄道ジャーナル社、1973年、124~120頁。
[3]^ 「なぜ、人のために命を賭けるのか-消防士の決断-」中澤昭 近代消防社
[4]^ なお、山之内秀一郎の「なぜ起こる鉄道事故」では電気暖房の配線の老朽化による漏電と記載されている。
[5]^ ただし、青函トンネルのような超長大トンネルでは、例外的に火災などの非常時は避難が可能な定点(青函トンネルの場合は竜飛定点・吉岡定点)に停車するように決められている。

5 関連項目
・鉄道事故
・大邱地下鉄放火事件
・モンブラントンネル火災事故
・オーストリアケーブルカー火災事故

6 外部リンク
・北陸トンネルでの列車火災 - 失敗知識データベース
最終更新 2020年6月16日 (火) 14:17 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 世間では世界的な「エラー図案切手」とされるモノである。
しかし、防災上においてそれ程の指摘はされていないと思う。

 1960年(昭和35年)1960年(昭和35年)12月に日本初の気動車特急列車として量産先行車的要素で特急「はつかり」にキハ81系(ボンネット形)投入された。その後、初期故障が続出し、「事故ばっかりの特急『はつかり』」・「特急『がっかり』」などと揶揄された、と鉄道界と沿線の注目を浴びたのである。
 翌年、サンロクトオ(3・6・10)昭和36年(1961年)10月1日に実施した白紙ダイヤ改正の目玉として特急「白鳥」などに量産型キハ82系(貫通型先頭車・食堂車の動力車化)を開発し、特急「白鳥」が青森駅で「はつかり」と、秋田駅で「つばさ」と、それぞれ同時発車。直江津駅で「信越白鳥」と併結した多層建て列車だった。後に金沢行き「はくたか」に分離した列車だ。

 よって、81系が事実上、先行車・試験車となり、同時並行的にキハ82系を開発したバタバタさである。だからキハ82系初期型も初期故障が出てもおかしくない。そのキハ82系が北陸トンネルを走行する「図案切手」が出た時点で"車両火災"時の対応が指摘されてもおかしくない。事実、1967年(昭和42年)、敦賀消防署が国鉄に対し、北陸トンネルの火災時の対応について申し入れを行っていた。消防署がきちんと仕事したのである、対して国鉄は、1969年12月にも北陸トンネルを通過中の寝台特急「日本海」の電源車から出火する事故の後でも、キチンとした分析をならされていない、人災と言っても良いだろう。
 青函トンネルを無事に「北斗星」が無事に通過続けられたのが良かったヨカッタ。
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