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2021年07月30日 イイね!

競歩50kmは、東京五輪が「最後」。

競歩50kmは、東京五輪が「最後」。オリンピックへの道
競歩50kmは、東京五輪が「最後」。
ひしめく日本の有力選手たちは……。
posted2019/04/22 07:00

日本選手権1位の鈴木、2位の川野がともに従来の日本記録を更新するなど、ハイレベルな争いとなった。

text by 松原孝臣 Takaomi Matsubara
photograph by Kyodo News

 日本陸上が誇る種目の1つに、競歩がある。特に男子50kmは近年、結果とともにそれを示してきた。
 2015年の世界選手権では谷井孝行が銅メダル。2016年のリオデジャネイロ五輪で荒井広宙が銀メダル。そして2017年の世界選手権でも、小林快が銅メダルを獲得している。メダル獲得者がそれぞれの大会で異なるように、層の厚さも強みである。
 4月14日の日本選手権でも、層の厚さは改めて浮き彫りになった。
 今年9~10月に行われる世界選手権の代表選考を兼ねた大会だったが、3枠のうちすでに2枠は決定していた。昨年の全日本50km競歩高畠大会で優勝した野田明宏と、アジア大会で金メダルを獲得した勝木隼人である。つまり最後の1枠を、最近の世界大会でメダルを獲ってきた選手たちが争う形だったのだ。
 そして優勝を手にしたのは初めて50kmの試合に挑戦した20kmの第一人者、鈴木雄介だった。また50kmに新たな強豪が加わったことになる。

■人気のなさと、競技時間の長さ。
 ただ日本が培ってきた強さの系譜は、今後断絶することが決まっている。2022年以降、競歩50kmは種目自体が廃止されるからだ。オリンピックで言えば、2020年の東京五輪が最後となる。
 50kmの存続問題がクローズアップされたのは、一昨年の春だった。国際陸上競技連盟の理事会で、オリンピック、世界選手権から除外するかどうかが議論された。
 その背景には、国際オリンピック委員会(IOC)の意向があった。競歩50kmが問題視された点はいくつもあるが、最も大きかったのは人気や注目の度合い、そして競技時間の長さ(日本記録は3時間39分4秒)だっただろう。
 競歩に限らず、IOCはオリンピック競技について常に「査定」を続けてきた。オリンピック期間中の視聴者数や、会場の観客動員数といったデータを調査してきた。その上で、競技をランクづけすると言われている。
 競技団体も、当然それを意識する。だからこそ放送や視聴者への配慮で、度々ルール変更も行われてきた。'99年に、バレーボールがサイドアウト制からラリーポイント制に変更されたのは特に有名だ。

■この廃止は必然だったのか。
 結局2017年の時点で、競歩の50kmは廃止に至らなかった。だが昨年、存廃の問題が再浮上し、今年3月ついに国際陸上連盟は、オリンピック・世界選手権での実施を2021年までとすることを決定したのである。
 大枠で言えば、必然的な決定だったという考え方もある。競歩への一般的な関心は、決して高くない。これだけ多くの日本人選手が活躍していても、注目が高まっているとは言いがたい。無論それは、海外でも同じだ。
 IOCの姿勢を考えれば、オリンピックにおける競歩そのものの存続問題にもつながりうる。陸上200mさえも除外が検討されたことがあると聞くが、そのIOCのシビアな査定を考えれば、50kmを取りやめる改革は、オリンピックで生き残っていくために評価されるべきかもしれない。

■先人たちの努力を考えれば……。
 ただ、50kmを中心に活躍してきた選手やその周囲の人々、日本が強豪国になってきた過程を考えれば、受け止め方は異なる。
 もともと強化費をはじめ環境面で厳しい状況にあった競歩は、「個」の努力で道を切り開いてきた。オリンピック強化コーチを務める今村文男が海外研修で強化方法をつぶさに学んで持ち帰ったり、海外のナショナルチーム合宿に同行してどのような練習をしているかを学び、国内に還元したのは最たる例だ。
 世界選手権で銅メダルを得たあと、谷井は「土台作りをしてくれた先輩方は偉大です」と語った。鈴木の「作ってくれた土台に、うまく乗っかれています」という言葉も象徴的だ。
 そうした地道な土台作りがあり、さらに選手個々や指導者がそれぞれの場で練習を重ねて世界に挑んできた。世界有数の強豪という地位は、そうして生まれた。
 彼らが目指してきた50kmが失われることになる。そう考えたとき、廃止されることがよかった……とは言いがたい。
 多くの有力選手がひしめく50kmのオリンピックでの最後のレースは来年。“最後”の代表枠に向けて、しのぎを削る争いが続いていくことになる。
Sport Graphic Number Webより


50キロメートル競歩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 50km競歩(50キロメートルきょうほ、50 kilometres race walk)とは主に道路を使用して競技を行い、50kmの順位とタイムを競う競歩競技である。周回コースの設定や、コースの一部に陸上競技場を使用することもある[1]。男子50km競歩は夏季オリンピックや世界陸上競技選手権大会など主要国際大会の実施種目であるが、競技規則の改定により2021年の東京オリンピックが最後となる[2][3]。

[1]^ 第7部 競歩競技 日本陸上競技連盟. 2012年4月16日閲覧
[2]^ 競歩50kmは、東京五輪が「最後」。ひしめく日本の有力選手たちは……。 - Sports Graphic Number
[3]^ 競歩50キロ、東京五輪が最後に 国際陸連が22年から距離短縮 - 日本経済新聞 2019/3/12 13:23 (2020/4/4閲覧)
最終更新 2021年6月18日 (金) 18:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 野球・ソフトボールの様に開催国枠の"人気種目"としては復活もあるが・・。
Posted at 2021/07/30 13:41:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | 競歩 | ニュース
2021年07月30日 イイね!

直流急行形電車「165系・169系」

直流急行形電車「165系・169系」準急列車、急行、ジョイフルトレインとして大活躍
 直流急行形電車
153系・165系・169系

[写真・画像]
(左上)中央本線の急行「アルプス」「かいじ」「こまがね」「かわぐち」「みのぶ」などで活躍した165系
(左下)信越本線横川軽井沢間で補機のEF63形電気機関車と協調運転をするために開発された169系
(右上)165系6両を展望電車に改造して誕生したジョイフルトレイン「パノラマエクスプレス アルプス」
(右下)165系の普通車の座席をグリーン車のリクライニングシートに交換した「ムーンライト」用車両

●153系の出力を増強した
山岳路線対応の165系が登場
 昭和30年代から40年代にかけては幹線電化の延伸に力が注がれ、昭和37年6月10日の信越本線長岡新潟間の電化完成により、上越線経由の上野新潟間の電車運転が可能になりました。上越線には急勾配区間があることから153系ではパワー不足となるため、昭和38年3月に上越線用として登場したのが165系です。153系の主電動機の出力を20%増強し、勾配対応の抑速ブレーキを備えているほか、冬の厳しい気象条件に対応するため耐寒耐雪構造の車両となっています。
 勾配区間を走ることから153系よりも電動車比率を高めるため、クモハ165+モハ164+クハ165の3両ユニットと一等車のサロ165形やビュッフェ車のサハシ165形を組み合わせる編成となりましたが、基本を3両ユニットにしたことで分割・併結による地方線区への乗り入れなどがしやすくなっています。
 昭和38年3月26日から上野新潟間の下り急行「弥彦」、上り急行「佐渡」で運転を開始しましたが、同年6月には一等車2両を組み込んだ8・11両編成がビュッフェ車2両を組み込んだ13両編成となり、新たに夜行急行「越後」にも使用を開始しました。上越線では上野新潟間の急行「佐渡」として長年活躍しましたが、昭和60年3月14日の上越新幹線上野開業で役目を終えています。
 昭和40年代に入ると直流急行形電車の基本スタイルとなった165系は増備が続けられ、その活躍の場も東北本線・高崎線、信越本線、中央本線、山陽本線と広がっていきました。東北本線・高崎線では急行「なすの」「日光」「ゆけむり」「草津」「あかぎ」「わたらせ」、信越本線では急行「信州」「妙高」「志賀」「とがくし」、中央本線では急行「アルプス」「かいじ」「こまがね」「かわぐち」、山陽本線では急行「鷲羽」「山陽」など、名だたる急行列車に使用されていました。

●信越本線横軽に対応した
協調運転可能な169系が登場
 信越本線横川軽井沢間の碓氷(うすい)峠越えは66.7‰(パーミル)の急勾配のため、開業当時からアプト式を採用するなど輸送上のネックとなっていました。昭和38年にアプト式から粘着式の新線に切り替わりましたが、出力増強タイプの165系電車でも同区間では客車と同様になり、EF63形電気機関車の後押しのみで急勾配に挑む運転スタイルとなっていました。このため、165系電車の編成も8両以下に限定されており、信越本線の輸送量の増加に対応するには不十分でした。
 そこで、EF63形電気機関車と協調して運転できる電車の開発が急務となり、昭和42年には165系電車をベースに協調運転機能を備えた169系の試作車が登場。試験結果が良好であったことから、昭和43年から169系の量産車となるクモハ169形+モハ168形+クハ169形の3両ユニットと一等車のサロ169形、ビュッフェ車のサハシ169形が誕生しました。165系では最大8両編成でしたが、169系は基本編成9両+付属編成3両の12両編成で運転できるようになり、信越本線の輸送量の向上に貢献することになりました。
 昭和43年10月1日改正から165系急行「信州」「妙高」が169系となり、その後は169系の増備に合わせて長野方面行の急行列車が増発されました。特急「あさま」とともに信越本線の顔として活躍を続けていましたが、昭和60年3月14日改正で169系急行「信州」は全廃されました。夜行1往復が急行「妙高」として残りましたが、翌年11月には189系に置き換えられたため、信越本線の169系電車急行の運転が終了しました。

●急行時代の終焉から
ジョイフルトレインへの改造
 直流電化区間の幹線からローカル線まで幅広く活躍した直流急行形電車ですが、昭和50年代に入ると世の中が急行時代から特急時代に移行しており、かつては幹線の花形であった電車急行もビュッフェ車の廃止などもあってローカル急行となってしまいました。余剰となった急行形電車は快速・普通列車などに運用されていましたが、団体旅客需要の増加に伴ってジョイフルトレインへの改造が計画されました。
 昭和61年3月、165系6両をお座敷電車に改造した「なのはな」が誕生。外観スタイルは165系そのものですが、塗色は菜の花の黄色をベースに房総半島をイメージしたオリジナルカラーとなっており、一目でジョイフルトレインとわかるものでした。続いて、昭和62年3月には165系6両を改造した前面展望電車「パノラマエクスプレス アルプス」が誕生しましたが、先頭車は運転台を上部に設置した展望スタイル、側面は車窓の風景を楽しめるワイド固定窓となり、165系からの改造とはわからないスタイルとなりました。なお、この車両は富士急行に譲渡され、同社の看板列車「フジサン特急」として活躍しています。
 また、165系の車内のボックスシートを撤去し、グリーン車のリクライニングシートを装備したリニューアル車も誕生。新宿新潟・村上間の夜行快速「ムーンライト」およびその間合い運用となる新宿黒磯間の快速「フェアウェイ」に使用されていたほか、中央本線の臨時快速列車にも運用。ゆったりとした座席が好評を博していましたが、485系特急形電車への置き換えで廃車となりました。
 なお、153・165系は外観塗色を変更して関西地区の「新快速電車」、169系は長野色となって快速・普通列車などでも活躍していましたが、153・165・169系は全車両が廃車となって形式消滅しています。

トレたびトップページ > 鉄道情報 > 車両 > 直流急行形電車(2ページ)
写真協力:はーさんの鉄道・旅・よしなし草、「ボンネット特急の世界」クロ151
※掲載されているデータは平成22年6月現在のものです。


≪くだめぎ?≫
 主電動機(モーター)の出力が
100 kW → 120 kW
となりフルモデルチェンジ、山陽本線の勾配区間"瀬野八"での補機不要となり、スピードアップと利便性が高まった。
 ただ、昭和50年代に入ると世の中が急行時代から特急時代に移行し、ローカル急行と団体旅客需要の対応となった。格安がまだ受け入れなかったバブリーな時代か・・。
Posted at 2021/07/30 12:51:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 新系列旅客車 | ニュース
2021年07月23日 イイね!

"元祖"電車急行「せっつ」

"元祖"電車急行「せっつ」準急列車、急行、ジョイフルトレインとして大活躍
 直流急行形電車
153系・165系・169系

[写真]
(上)愛称の付いた大型ヘッドマークを取り付けて東海道本線東京〜大阪間の電車急行で活躍した153系
(下)東海道本線の電車急行用として誕生した153系高運転台の先頭車の顔部分はオレンジ色のみであった

●東海道本線 東京~大阪 間に
初の電車急行「せっつ」誕生

 東京〜名古屋間の準急「東海」や名古屋〜大阪間の準急「比叡」の運転実績を踏まえ、東京〜大阪間の急行列車にも153系を運用することになり、昭和35年6月1日改正では国鉄初の電車急行となる「せっつ」が誕生しました。当時の客車急行「なにわ」よりも約1時間早い7時間46分で走破した153系電車急行は好評を博し、客車急行「なにわ」の電車化が望まれるようになりました。そこで、急行列車にふさわしいリクライニングシートを備えた一等車のサロ152形およびビュッフェ車のサハシ153形を組み込むことになり、同車両が落成し一等車2両とビュッフェ車2両を組み込んだ12両編成が登場。昭和36年3月1日から客車急行「なにわ」の電車化、急行「せっつ」のグレードアップ、153系夜行急行「金星」の新設が実施されました。
 最初に登場した153系の先頭車は運転台の位置が低いタイプでしたが、昭和36年の増備車からは踏切事故対策として運転台の位置を高くした「高運転台」となり、このスタイルはその後に登場する急行形電車の基本となりました。
 昭和36年10月1日改正では、東京〜大阪間の153系電車急行が大増発され、従来からの「なにわ」「せっつ」に加え、「やましろ」「よど」「いこま」「六甲」の4列車を新設。東京〜大阪間を7時間30分で結ぶ昼行電車急行は6往復、夜行電車急行は3往復となり、153系電車急行は黄金期を迎えることになりました。
 しかし、昭和39年10月1日の東海道新幹線開業により元祖電車急行「せっつ」2往復は廃止となり、さらに昭和40年10月1日改正では「なにわ」2往復を残して廃止。そして昭和43年10月1日改正で急行「なにわ」2往復も廃止となり、東海道本線東京〜大阪間の153系電車急行の歴史に終止符が打たれました。

 トレたびトップページ > 鉄道情報 > 車両 > 直流急行形電車(1ページ)
写真協力:はーさんの鉄道・旅・よしなし草、「ボンネット特急の世界」クロ151
※掲載されているデータは平成22年6月現在のものです。
『トレたび』は、交通新聞社が企画・制作・運営する鉄道・旅行情報満載のウェブマガジンです。


≪くだめぎ?≫
 この"元祖"電車急行「せっつ」の昭和36年の増備車から「高運転台」になり、本格的に"急行型"へ変貌したと言えよう。
 もっとも、近郊形電車の嚆矢となった401系クハ401第一次車は準急型153系と同様に"低運転台構造車"、
クハ401二次型から「高運転台」に変わっている。近郊形も"急行型"も一般の方々には同じ顔にしか見えないだろう。
Posted at 2021/07/23 14:34:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2021年07月23日 イイね!

153系 準急「東海」"形"

153系 準急「東海」"形"準急列車、急行、ジョイフルトレインとして大活躍
 直流急行形電車
153系・165系・169系

[写真]
(上)昭和33年11月の登場当時の153系は東海道本線東京〜名古屋間の準急「東海」で運転を開始した
(下)先頭車のスタイルが異なる低運転台で登場した153系の初期車は房総エリアの電車急行で活躍

昭和33年11月、東海道本線に登場した153系急行形電車
ここからはじまる直流急行形電車の歴史にスポットを当てて紹介します。
文=結解喜幸 写真=結解 学

What's 準急行列車?
 JRや私鉄各社の列車種別には、特別急行列車(特急列車)から普通列車までいろいろとありますが、かつての国鉄には準急行列車(準急列車)が運転されていました。大正15年(1926)8月15日改正で東海道本線東京〜名古屋間および名古屋〜神戸間に設定されたのが、日本の鉄道における「準急行列車」のはじまりです。当時は急行券不要の快速サービスが行なわれ、主要都市間の移動や観光地を結ぶ中・短距離の列車で好評を博しました。
 戦後は昭和21年11月10日、上野〜金沢間および上野〜秋田間に「準急行列車」が再登場し、この時から「準急行料金」が設定されました。戦前は料金不要の快速タイプの列車種別でしたが、その後に復活する特別急行列車・急行列車とあわせて「特別急行券」「急行券」「準急行券」の3種類の料金券が設定されるようになりました。
 当時の準急行列車は急行列車を補完する役割でしたが、昭和30年代に入ると競合する私鉄線に対抗する俊足の列車も登場。中でも東武鉄道と競合していた上野(東武は浅草)〜日光間においては、昭和31年10月から最新鋭のキハ55形気動車を投入し、日光への旅客争奪合戦がはじまりました。昭和34年9月には特急列車と同等のサービス設備を備えた157系電車「日光形」が登場し、急行列車を凌ぐスピードと車内サービスで好評を博しました。
 また、昭和33年10月に落成した153系急行用電車は、同年11月1日から東海道本線東京〜名古屋間の準急「東海」で運転を開始。当時は長距離区間が急行列車、中・短距離区間は準急列車として運転されていました。しかし、昭和35年6月1日改正で東京〜大阪間に153系を使用した初の電車急行が登場して以来、当初は準急運用のみであった153系も急行運用が増加していきました。
 なお、昭和41年3月5日に実施された運賃改訂では、走行距離が100km以上の列車はすべて「急行」に格上げされました。そして、昭和43年10月1日改正では準急列車が全廃となり、国鉄から「準急行列車」の列車種別が消滅しました。

●昭和33年10月1日改正で
153系準急「東海」が登場
 国鉄の車両近代化計画に伴う新系列の車両開発が進められてきましたが、昭和32年に電車近代化の第一陣となる101系通勤形電車(登場当時はモハ90系)が登場しました。電動車を2両1ユニットとしたMM’方式やカルダン駆動の採用など、高速運転および乗り心地の向上に寄与する新機軸が盛り込まれた新系列の電車で、翌年9月から10月にかけて101系開発で培われた最新技術をベースとして151系特急形電車(登場当時はモハ20系)と153系急行形電車(登場当時はモハ91系)が相次いで誕生しました。
 昭和30年代に入るまで「優等列車=客車列車」が当たり前でしたが、昭和31年11月19日の東海道本線全線電化完成は中・長距離区間における「電車」運転を実現させる契機となり、東京〜大阪・神戸間の151系特急「こだま」の誕生が実現。この当時の特急・急行列車に使用された最新鋭の10系軽量客車と同等の車内設備を備えた153系でしたが、まずは昭和33年11月1日から東海道本線東京〜名古屋間の準急「東海」1往復で運転を開始しました。
 最初に登場した車両は三等制御車のクハ153形、三等電動車のモハ152+モハ153形、三等付随車のサハ153形、二等付随車のサロ153形で、当時の80系準急列車の仕様にあわせたモノクラス中心の編成となりました。先頭車両は80系非貫通の「湘南スタイル」とは異なる貫通タイプとなり、編成の中間に先頭車両が組み込まれても通り抜けができるようになりました。また、80系湘南電車と同じくオレンジとグリーンのツートンカラーが採用され、東海道本線の新系列の準急列車として好評を博すことになりました。なお、最初に運用された列車が準急「東海」であったことに因み、153系は「東海形」の愛称で呼ばれるようになっています。
写真協力:はーさんの鉄道・旅・よしなし草、「ボンネット特急の世界」クロ151
※掲載されているデータは平成22年6月現在のものです。
『トレたび』は、交通新聞社が企画・制作・運営する鉄道・旅行情報満載のウェブマガジンです。


≪くだめぎ?≫
 昭和36年3月に"一等車"と"ビュッフェ車"を組み込み、急行らしい列車編成になり、東京-大阪に本格運用された、たった3年の東海道本線での活躍であったが・・・。
Posted at 2021/07/23 14:01:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | 新系列旅客車 | ニュース
2021年07月23日 イイね!

急行"ビュッフェ車"

急行"ビュッフェ車"立食スタイルの軽食堂 ビュッフェ車

[写真]
(左上)2つの明かり窓と業務用ドアが設置されている直流急行形電車のサハシ165の調理室側
(左下)国鉄初のビュッフェ車となるモハシ150が連結された東海道本線の151系ビジネス特急「こだま」
(右上)立食スタイルに合わせた窓が設置されている交直流急行形電車のサハシ451のカウンター席側
(右下)交直流急行形電車455系の増備車のカウンターには、座って飲食が楽しめる椅子が設置された

 昭和33年11月、151系特急「こだま」に連結されたビュッフェ車
 今回は立食スタイルのビュッフェ車にスポットを当てて紹介します。
文=結解喜幸 写真=結解 学

What's ビュッフェ車?
 日本の食堂車の歴史は明治時代に始まりますが、軽食堂のビュッフェ車が登場したのは昭和33年11月のことです。食堂部分にテーブルを配置してゆっくりと食事を楽しめるスタイルの食堂車に対し、手軽に食事ができる立食スタイルを採用したのがビュッフェ車で、東海道本線東京〜大阪・神戸間の151系ビジネス特急「こだま」に連結されました。軽食と飲み物が楽しめる簡単なカウンター形式となり、食堂や厨房のスペースが食堂車の半分で済むことから、半室が三等座席車の合造車となっています。
 昭和36年3月、東海道本線の準急・急行列車で活躍していた153系に一等車とビュッフェ車を組み込み、東京〜大阪・神戸間の急行列車に本格的に運用することになり、二等座席とビュッフェの合造車となるサハシ153が登場しました。なお、特急「こだま」でデビューを飾った日本初のビュッフェ車となるモハシ150は食堂車の誕生で補助的な役割となり、以後は電車急行用としてビュッフェ車が増備されることになり、交直流急行形電車のサハシ451・455、直流急行形電車のサハシ165・169が登場しています。
 国鉄では電車特急・電車急行の供食サービス設備として誕生したビュッフェ車ですが、私鉄でも特急列車の車内サービスとしてビュッフェサービスが行なわれています。私鉄の場合は軽食・飲み物のシートサービスがメインで、小田急ロマンスカー「走る喫茶室」や東武特急1720系DRC「ビュッフェ」、近鉄特急スナックカーなどでサービスが行なわれてきました。しかし、乗車時間が短い私鉄線においては供食サービスもワゴン式の車内販売に移行し、現在は小田急ロマンスカー50000形VSE車で復活したシートサービスや、売店形式で残る東武特急スペーシアがビュッフェのスタイルを残しています。
 なお、JRでは鹿児島本線の787系特急「つばめ」で本格的なビュッフェサービスが行なわれていましたが、現在は九州新幹線の部分開業で廃止となり、定期列車では久大本線の特急「ゆふいんの森」が唯一のビュッフェ設備のある列車になっています。

●国鉄初となる軽食堂車を連結した
151系ビジネス特急「こだま」が登場
 昭和33年11月1日、東京〜大阪間を6時間50分で結ぶ151系ビジネス特急「こだま」が登場しました。当時の特急列車に食堂車は必要不可欠な存在でしたが、国鉄初となる電車特急では新しい試みが採用されることになり、軽食堂ビュッフェ車を連結することが決定しました。軽食と飲み物に限定することで本格的な厨房は必要なくなり、さらにテーブルと椅子を配置する食堂も立食カウンターになったため、従来の食堂車の半分のスペースでビュッフェ営業が可能となっています。
 これにより、残る半分のスペースは三等座席車(後の二等車)として活用でき、さらに編成中央に二等車(後の一等車)を組み込んで両側にビュッフェ車を連結することで、二等車の通り抜けがなくなり、編成両端からビュッフェまでの距離も短くなるという利点がありました。なお、車窓の風景とあわせて現在の列車速度がわかる速度計が設置され、利用者から好評を得ることになりました。
 昭和36年3月、東海道本線の153系急行「せっつ」のグレードアップおよび急行「なにわ」の電車化では、リクライニングシートを装備した一等車のサロ152と、半室二等車のビュッフェ車のサハシ153が登場。中間の一等車を挟んで2両のサハシ153が連結されました。調理室側のカウンターには「すしコーナー」が設置され、車内で本格的な寿司が食べられることで好評を博しました。

●電車急行の軽食サービスに活躍した
サハシ451・455・165・169形が登場
 元祖電車ビュッフェ車となる151系のモハシ150ですが、昭和35年6月に客車特急「つばめ」「はと」の電車化では本格的な食堂車が登場しました。これにより、ビュッフェ車は編成中の食堂車を補完する役割となり、「電車特急=食堂車」、「電車急行=ビュッフェ車」というスタイルが定着しました。東海道本線の電車急行用としてサハシ153が増備されましたが、昭和36年12月にはサハシ153-23に電子レンジを搭載して営業運転を開始。この結果は良好で以後に登場するビュッフェ車に採用され、これまで以上に温かい食事のメニューが充実することになりました。
 また、151系のビュッフェ車の設計思想を引き継いだサハシ153に引き続き、交直流急行形電車のサハシ451・455、直流急行形電車のサハシ165・169(サハシ153から改造)が登場しました。東北・北陸急行用のサハシ451では「すしコーナー」ではなく「そばコーナー」が設置され、車内で温かいそば・うどんが食べられるようになりました。急行列車に冷房が普及していない時代でしたが、ビュッフェ車は冷房完備でしたので、暑い夏の季節は軽食と涼をとる利用客で賑わっていました。なお、立食スタイルのビュッフェでしたが、最後に登場したサハシ455-21〜26の6両はビュッフェの窓側カウンターに椅子が設置され、座って食事を楽しめるようになっています。
写真協力:交通新聞サービス
※掲載されているデータは平成22年9月現在のものです。
『トレたび』は、交通新聞社が企画・制作・運営する鉄道・旅行情報満載のウェブマガジンです。*立食スタイルの軽食堂 ビュッフェ車 より抜粋


≪くだめぎ?≫
 東海道"シンカンセン"は1964年(昭和39年)10月1日に開業で、在来線の特急が建て替えられた。ただし、東京-名古屋の準急・急行列車は1年間存置、廃止された様である。
 1956年(昭和31年)11月 東海道本線の全線電化が完成、ようやく蒸気機関車の時代が終わったのだから、この時期は驚くべき変化である。
 そのことから、急行"ビュッフェ車"は瞬間タッチの状態である。
Posted at 2021/07/23 10:35:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 新系列旅客車 | ニュース

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何シテル?   04/02 16:02
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