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85.自由はどこまで可能か 4点
少し前から暇なときに田端さんのブログの記事をブックマークしているが、この本は医薬品のネット販売規制を例にパターナリズムの弊害を述べ、enter at your own riskのように個人の自由を最大限村長するリバタリアン精神を解説する中で入門書として紹介されていたものだ。
こう言う思想に私が初めて触れたのは池田信夫だった。彼のブログや記事は膨大だが、すぐ思い浮かぶのはサイバーリバタリアンという名称でASCIIに連載していた記事である。彼はこの連載の第1回で検索エンジンを例に「英米では「法律で禁止しないかぎり自由」と考えるが、日本では「役所が許可してないことは禁止」と考えがちだ。こういうパターナリズムが企業を萎縮させ、新しいベンチャーの挑戦を阻害して、日本経済を三流に転落させたのである。」と述べている。このような事例は、私のような現場のサラリーマンにも至る所で目に入る。それに対する論理的反論の支柱となる思想をこの本は分かりやすく提供している。
・例えば、最近データの所有権が問題になることがある。民法上の所有権という概念は物体にのみ適用されるのであり、無物体であるデータには適用できないという議論だ。この本によれば有物体は他人の利用と両立できないことから、所有権を認め得る(他人の利用を制限し得る)が、無物体は自分の利用と他人の利用とが両立する。このため、リバタリアンは無物体に対して著作権や特許権を認めにくい。
・自己奴隷化や臓器売買も「個人の自由の最大化」という観点からリバタリアンは肯定的な意見もあるようである。著者はその立場にはなく、将来の自分は、現在の自分からは十分他人と見なせるだけの違いが想定されるためだとする。本人の自由意志がどこまで担保されるのか(半グレに囲まれてサインしてもそれは本人の意思か)という問題も考えられるし、リバタリアンと言えども何でもかんでもではない。アナーキストではない。
・当然だがリバタリアンは、国家による市場への介入には基本的に反対する。灯台を例に、今日インフラと呼ばれるものについても大部分が民間で賄われるという研究があるらしい。バスティアは、割れた窓の修理代6フランはガラス屋の収入となってガラス産業を発展させる、という説明に対し、もし窓が割れなければ6フランを別の用途に使用することができたという機会費用の概念で反対する。公共事業は税金で賄われているため、税金がなかった場合の機会費用に目を向けなければならない。
・最近Facebookの暗号通貨リブラが各方面から叩かれている。ハイエクの貨幣発行自由論は、公共事業のために赤字国債を発行する裁量的な政府の財政政策に対抗する措置として発案されたもので、すでに当時こういう議論があり、テクノロジーが追いついてきたことを実感させられる。
疲れた。付箋も多い。3点から4点に変えた。
医薬品ネット販売規制で考える、自由とパターナリズムと、愚行権
http://blog.livedoor.jp/tabbata/archives/50686714.html
もはや一流ではない日本経済──諸悪の根源は「家父長主義」にあり
https://ascii.jp/elem/000/000/103/103336/index-2.html
Posted at 2019/08/04 18:50:34 | |
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