香住駅の標高は 7.0 m 、浜坂駅の標高は 7.3 m とほぼ同じ高さにあるが、その間で山を越えなければならない。長大トンネルを避けるためには、できるだけ山に登って標高の高いところに短いトンネルを掘って抜ける必要がある。この付近では河川の多くが南側から北の日本海へ向かって流れているので、これらの川筋に沿って山に登ることはできなかった。しかし桃観峠(とうかんとうげ)では、東側に西川が流れ出して余部で海に注ぎ、西側に久斗川が流れ出して浜坂で海に注いでいた。そこで、これらの川筋を利用して桃観峠のできるだけ高い位置に登って、峠の下の標高約 80 m の地点に桃観トンネル(全長1,992 m)を建設することが考えられた。
香住からは最急 12.5 ‰ の勾配で登っていき、標高 39.5 m の位置に鎧駅がある。そこからは短いトンネルを連続して通り、余部橋梁を通って餘部駅が標高 43.9 m の位置にある。そこからは 15.2 ‰ のきつい勾配を登っていって、標高約 80 m の地点で桃観トンネルに入る。桃観トンネル内から久谷駅までは 15.2 ‰ で下り、標高 51.9 m の久谷駅を過ぎると 13 ‰ の下り勾配になり、浜坂が近づいてくるところで平坦となる。このように香住と浜坂の両方から桃観峠を頂点として登っていく線形を採用したため、その途中の余部に長谷川が形成する 300 m あまりの長く深い谷間があったとしても回避するわけにはいかず、この谷間を越えてどうしても線路を通す必要性が生じた。方法として橋梁を建設する案と築堤を建設する案が検討され、橋梁の建設費が約32万円と見積もられたのに対して、築堤の建設費は約70万円と見積もられた上に築堤を建設すると余部の集落全体が埋没してしまうことになることから、最終的に橋梁建設案が選定された。
旧橋の設計 [編集]橋梁の設計を指名されたのは皮肉にも、長大橋梁を回避するために内陸案を主張した古川晴一であった。古川は当初支間40フィート (12.192 m) で16基の橋脚を建設する設計案を作成した。1907年(明治40年)7月から1年間にわたり古川は欧米に出張し、橋梁建設が技術的に可能なことを確認し、アメリカ合衆国のフィラデルフィアで橋梁設計技師のポール・ウォルフェル (Paul L.Walfel) と設計案を相談した結果、橋脚の数は16基から11基に削減、橋脚の上に30フィート (9.144 m) の桁を、橋脚間に60フィート (18.288 m) の桁を架ける形態に変更された。設計上の活荷重はクーパーE33(軸重 15 t の車軸配置1D形テンダー機関車重連を想定)であった。古川が日本に帰国後、最終的に鋼製トレッスル橋梁案の採用を決定した。
合計11基ある橋脚は、起点の京都側(東側)から順に第1号 - 第11号と番号が振られている。ただし、この区間は山陰西線の一部として建設されたことから、建設中は山陰西線の起点米子側から数えられており、逆順の番号を振られていた。この記事では混乱を避けるために、一貫して現在の橋脚番号で説明する。橋脚のうち両端の第1号と第11号は山の斜面に掛かって短くなっており、残りの第2号から第10号までの9基の橋脚が余部の平地から建てられている。基礎から橋脚の上端までは 36.66 m あり、この上に 1.587 m の高さのある橋桁が載せられて、枕木やレールなどがさらに 0.37 m 入っている。余部を流れている長谷川の川底からレール面までは 41.45 m あり、一般に余部橋梁の高さとしてはこの値が知られている。第3号橋脚と第4号橋脚の間を長谷川が流れており、第4号橋脚と第5号橋脚の間を国道178号が通っていた。橋脚の主柱は幅15インチの溝形鋼を背中合わせに2本配置して、その間をカバープレートと綾材(レーシングバー)で結んだ構造になっている。線路直角方向の水平材は、幅10インチ(下3本)と8インチ(上3本)の溝形鋼を背中合わせに2本配置して綾材で結んでいる。線路平行方向の水平材は、3.5インチ×3インチの山形鋼4本を綾材で連結したもので、また斜材は同じ山形鋼2本を綾材で連結したものとなっている。全部で23連の橋桁が架けられ、全長は 310.59 m 、橋台面間長は 309.42 m となった。鋼材は合計 1,010 t 使われ、総建設費は331,536円であった。
1912年1月28日、初めての試運転列車橋梁建設に当たって、まず1909年(明治42年)3月から現地での地質調査が行われた。その後鉄道工業により同年12月16日から基礎工事が行われた。基礎工事には箱枠工法が用いられ、複雑な地層と埋没していた木や石により箱枠沈下には大きな困難が伴った。海岸に近いこともあり掘削すると水が噴出し、現場監督を務めた岡村信三郎は潜水服を着て基礎の状況を調べなければならない状況であった。5号と6号の橋脚間からは真水が吹き出したため、井戸にして集落に供用された。最下層にはコンクリートを打ち、その上に近くの村から切り出した石を積み上げて橋脚の基礎構造を造った。この石積みの基礎はその後の補強工事でコンクリートによる巻き立てが行われた。また、第9号・第10号橋脚については沼地であったため地盤が軟弱であり、長さ 5.5 m の松杭を主塔1つあたり25本、橋脚1つあたりで100本打ち込んで、その上にコンクリート基礎を築いている。基礎工事には1年7か月掛かり、1911年(明治44年)6月15日に完成した。基礎工事の費用は85,124円であった。
橋脚の鋼材 652.496 t およびアンカーボルト 12.72 t は、アメリカ合衆国のセイルブレーザ[注釈 3]が請け負ってアメリカン・ブリッジのペンコイド工場で製作された。九州の門司港に運ばれた橋脚は、汽船「弓張丸」に積み替えられて余部沖に運ばれ、1910年(明治43年)8月に陸揚げされた。1つでも部材を海に落としてしまうと再度アメリカからの取り寄せになってしまい、工期に大幅な遅れが生じてしまうことから、陸揚げ作業は慎重に行われ、無事に完了した。到着後、航海中に生じた錆を落とすなどの整備作業が実施された。リベットを打つための空気圧搾機の整備と合わせて実施されて、費用は834円であった。また事前に錆から鋼材を保護するためのペイント作業が行われ、橋脚4,375坪(約 14,463 m²)、橋桁1367坪(約 4,519 m²)の塗装面積に対して下塗り2回、組み立て後の上塗り1回の塗装を行った。塗装の費用は13,440円であった。
橋脚の組立作業は鉄道院の直轄工事として行われ、下請けとして大阪の上州屋が鳶作業を請け負った。1911年(明治44年)5月から橋脚の組立作業が始まり、東側の第1号から順に、10月上旬までの約5か月間で組立作業が行われた。橋脚1基につき約2,300本の丸太を使った足場を高さ 45 m まで組み上げて、その上でトレッスルのリベット打ち作業が行われた。橋脚には約49,800本のリベットが使われている。足場の建設から解体まで、橋脚1基につき約40日かかり、同時に3基から5基程度の橋脚を並行して作業を行った。橋脚の材料費を含め、リベット打ち作業は含めずに総工費は132,828円であった。
橋桁については、ドイツのグーテホフヌングスヒュッテ (Gutehoffnungshütte) 製の輸入鋼材から石川島造船所(現在のIHI)によって製作され、1911年(明治44年)9月に神戸より工事列車により陸送された。本体が 305.59 t 、付属の橋側歩道 33.84 t 、高欄用ガス管 5.31 t であった。鎧駅の構内で約17,200本のリベットを打って組み立てが行われた。リベット打ちの費用は、橋脚のものと合わせて12,922円であった。10月下旬、11月下旬、12月下旬の3回にわけて、カンチレバー工法で橋桁の架設が行われた。橋脚間にも仮設の足場を設けて、足場の間にレールを渡し、これが橋桁の重量を支える形で架設作業を行った。橋脚上の橋桁は、橋脚最上段に仮設足場を設けて架設作業を行った。架設を終えた後、脇の歩行者用通路および欄干の取り付けを行い、枕木や軌道の敷設を実施した。橋桁の材料費を含めて、総工費は80,121円であった。
1986年(昭和61年)12月28日13時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送中の客車列車(DD51形1187号機とお座敷列車「みやび」7両の計8両編成)が日本海からの最大風速約 33 m/s の突風にあおられ、客車の全車両が台車の一部を残して、橋梁中央部付近より転落した。転落した客車は橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃し、工場が全壊、民家が半壊した。回送列車であったため乗客はいなかったが、工場の従業員だった主婦5名と列車に乗務中の車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の車内販売員3名と工場の従業員3名の計6名が重傷を負った[97][98]。なお、重量のある機関車が転落を免れたことと、民家が留守だったことで、機関士と民家の住民は無事だった。
風速 25 m/s 以上を示す警報装置が事前に2回作動していたが、1回目の警報では指令室が香住駅に問い合わせたところ、風速 20 m/s 前後で異常なしと報告を受けたため、その時間帯に列車がなかったこともあり様子を見ることにした。2回目の警報が作動した際には、列車に停止を指示する特殊信号機を作動させてももう列車を止めるためには間に合わないという理由で、列車を停止させなかった。こうした理由により、突風の吹く鉄橋に列車が進入する結果となった。
事故後、のべ344人の作業員を投入して枕木220本とレール 175 m の取り替えを行い、事故の遺族からの運転再開容認を31日10時30分に取り付けて、15時9分に事故後の最初の列車が鉄橋を通過した。
一方、当時吹いていた風速 33 m/s では計算上客車が転覆することはなく、また橋の上のレールが風の向きとは逆に海側に曲がっていたことを指摘して、事故の本当の原因は客車に対する直接の風圧ではないとの主張もある。それによれば、昭和40年代の補強工事で縦横の剛性比の考慮を欠いたまま水平方向の部材のみを強化してバランスを崩し、また橋脚の基礎をコンクリートで巻き立てたために主塔の撓み量が減少して、風によるフラッター現象を起こしやすくなっていたとする。そして、当時の強風によりフラッター現象を起こしていた橋に列車が進入した結果、機関車が蛇行動を起こしてレールの歪みを生じ、両端の客車に比べて軽かった中央付近の客車が脱線して、両端の客車を引きずるように転落に至ったのが本当の事故原因であるとしている。この主張は他の書籍等でも紹介されることがある、指令員の責任を追及した刑事裁判でも、事故の調査報告書でも一切触れられていない。
1988年(昭和63年)5月から運行基準を見直し、風速 20 m/s 以上で香住駅 - 浜坂駅間の列車運行を停止し、バス代行とするよう規制を強化することになった。1988年(昭和63年)10月23日には事故現場に慰霊碑が建立された。また事故後毎年12月28日には法要が営まれてきたが、2010年(平成22年)12月28日、25回忌の節目となったことと、新橋への切り替えが行われたことから、遺族会による最終の合同法要が行われた。また列車を停止させなかった責任を問われた福知山指令室の指令長および指令員計3名が、事故の7年後に禁固2年から2年6か月の執行猶予付き有罪判決を受けて確定している。
コンクリート橋(2010年 - )現橋梁概要
現橋梁は2007年3月29日着工、2010年8月11日に切り替え工事が完成し、同年8月12日に開通した。架設位置は旧橋梁よりも約 7 m 南側(内陸側)で、総事業費は30億円。構造はプレストレスト・コンクリート製のエクストラドーズド形式を用いており、上部は桁上高さ 5 m の主塔から張られた斜材が桁を吊っており、下部は橋脚4基と橋台2基で構成。旧橋梁時代に問題視されていた部分において、定時性低下は防風壁(透明アクリル製、高さ 1.7 m)も整備して風速 30 m/s まで運行可能となったことで定時性確保・向上の見込みで、騒音面はコンクリート製となり橋梁上にバラストも敷かれたため大きく軽減され、落下物では20年確率での積雪量を想定した貯雪スペースを設けた構造にして橋下への落雪を防止、などの各種対策が施されている。また、餘部駅のホーム位置が現橋梁の架設に伴い、従来線路の南側にあったものが北側に変更された。
列車転落事故後は風速規制を強化したこと(25 m/s から 20 m/s に変更)で運休や遅延がたびたび発生し(1994年 - 2003年の年間平均値、列車抑止120回、運休84本、特に冬季に発生)、沿線地域の通勤・通学や経済活動に大きな影響が出ている[74][125][126]ことから、これらの不具合解消を目的として1991年(平成3年)3月に鳥取県や兵庫県をはじめとする地元自治体などで組織する「余部鉄橋対策協議会」(会長・井戸敏三兵庫県知事)が設立され、取り組みを開始した。対策案としてバイパス新線建設が検討されたが、既設駅移転や事業費が多額となる面から見送られた。別案として旧橋梁への防風壁設置が1994年(平成6年)3月から検討され、風洞実験などから補強した防風壁は強風に対応可能であることが確認されたが、旧橋梁の老朽化もあって長期的に安全性を確実に担保することが難しいことから見送られ、JR西日本側から地元に対して2001年(平成13年)11月22日に新橋梁の建設が提案されることになった。
新橋の設計
新橋梁の京都方はSカーブとなっている新橋梁は、PC5径間連続エクストラドーズド箱桁橋として設計された。新橋梁の架設位置は、レール中心面間隔で旧橋梁よりも約7 m南側(内陸側)となった。京都方(東側)にはトンネルがあり、一方幡生方(西側)には餘部駅が存在しており、これを考慮した平面線形が採用されている。東側ではS字にカーブする橋桁を挿入して既設のトンネルへと接続する。一方西側では山を削って線路を敷設するスペースを確保し、これにともない餘部駅ホームが従来線路の南側にあったものが北側に変更された。平面線形としては、京都方から半径 300 m のSカーブ(左カーブ-右カーブ)で既設橋より約 7 m 南側に出て、その後は直線で、最後に半径 2,500 m の右カーブがある。一方縦断線形は水平である[1]。設計上の活荷重はEA-17である。
下部構造は橋脚4基と橋台2基で構成され、旧橋梁と同様に起点の京都側から第1号 - 第4号の橋脚番号が付けられている。このうち第1号から第3号の橋脚の太さが4 m、第4号が3 mである。また支間は橋台から第1号の間が 50.1 m 、第1号 - 第2号と第2号 - 第3号が 82.5 m 、第3号 - 第4号が 55.0 m 、第4号と橋台の間が 34.1 m となっている。この支間の配置は、第1号と第2号の間を長谷川および国道178号が通ること、既設橋梁の橋脚を避けて新しい橋脚を建設する必要があること、上部工張り出し架設のバランスなどを考慮して決定された。橋脚の高さは第4号の 33.67 m から第1号の 36.0 m までばらつきがあり、また地下に最大 23.0 m におよぶ杭を打ち込んで基礎としている。橋脚の下部3分の1ほどについては、下から見上げたときの視覚的不安を解消するために末広がりの構造となっている。余部橋梁は橋脚の高さが比較的高く、地震で損傷したときの修復工事に難があることから、特に高い耐震性を確保するように設計されている。
上部構造は、高さ 3.5 m の一定高さの桁橋となっている。これはデザインコンセプトとして「旧橋梁のイメージを継承する橋」としたことから、スレンダーなデザインとするために採用されたものである。またこのコンセプトから、主塔の高さも 3.5 m と低く抑える設計を当初は検討していたが、地元からの「よりシンボリックにするため、主塔を高くしたい」という要望があり、主塔とケーブルの保守管理性も考慮のうえで 5.0 m の高さとなった。
橋の上に敷設する軌道は、長大スパンのPC橋でクリープや乾燥収縮による桁そりの変化量が大きいことから、保守性を考慮してバラスト軌道を採用している。これにより騒音も軽減された。またPC橋であり軌道の間が空いていないことから、軌道間から吹き上げる風の列車への影響がなくなると共に、列車からの落下物が地上に到達することもなくなった。風対策として高さ1.7 mの防風壁が整備されて風速 30 m/s まで運行可能とし、眺望を確保するため材質は透明アクリル板を用いた。余部地区は降雪が多く、橋梁にも積雪対策が必要とされたが、水による融雪方式では地上から高さ 40 m の橋上まで水をポンプアップする設備が必要となりその保守などに手がかかることから、経済性にすぐれる貯雪方式が採用された。20年確率での積雪量 116 cm を想定して軌道脇に貯雪スペースが設けられており、橋の下への落雪を防いでいる。また、将来的に電化される場合にも対応できる構造とされている。
新橋梁を建設するために必要な土地の買収に着手したところ、付近の土地が法務局の備付地図(公図)と現況が一致しなくなっている地図混乱地域であることが判明した。これは、1893年(明治26年)、1918年(大正7年)、1990年(平成2年)の3回に渡り地域で大きな水害があって地形が変動したことや、復旧作業に際して元と異なる形状にしてしまったこと、法定手続きによらず土地の売買や改良工事が行われてきたことなどが原因とされる。このため公共工事に際しても登記を行うことができず、現存する町道が公図に記載されていないといった事態を招いていた。そこでこの機会に集団和解による解決を図ることになり、JR西日本が中心となって地権者や抵当権者などとの交渉を1年7か月にわたって進め、114筆合計約 30,000 m² の土地について合意の上で作成しなおした公図への差し替えが実施された。特に遠隔地の抵当権者との交渉に際しては、余部橋梁の架け替え工事に伴うものであることを説明することで協力を得やすくなり、余部橋梁の知名度の高さに助けられたとされている。
2007年(平成19年)11月から橋脚の基礎工事に着手した。1号 - 3号の橋脚は場所打ち杭という形式で施工されたのに対して、4号の橋脚は斜面上にあり既設橋脚への影響が懸念されたことから、当初予定の場所打ち杭形式を取りやめて、竹割り土留め工法による大口径深礎杭形式に変更された[4]。橋脚の鉄筋の組み立ては、地上で組み立てたものを架設するノップキャリイ工法が採用された。海岸から近く鉄筋の腐食が懸念されることから、特に1号・2号橋脚では 200 mm のコンクリートのかぶりを確保する設計とされていたが、ひび割れの抑制が困難であることが分かり、PET繊維を混入してひび割れを抑制する対策を行っている。1号橋脚と起点側橋台については、切り替え工事までの間その上でS字の橋桁を構築し支えておく必要があることから、桁を本設置する位置より南側に仮設の橋脚と橋台を構築した。1号橋脚の仮設部分については、直径 1 m のプレストレスト高強度コンクリートパイル(PHC杭)の柱を4本立てて支えている。2008年(平成20年)後半になると橋脚が立ち上がり、タワークレーンによる作業が本格化した。
2009年(平成21年)春から桁の工事に入った。橋桁は、移動作業車を使って橋脚上部から両側にバランスをとりながら張り出していく工法で施工された。既設橋梁の桁と移動作業車の離隔は最小で30 cm程度しかなく、強風下でも接触することのないよう細心の注意が払われた。両側から施工されてきた橋桁の閉合が完了すると、移動作業車を吊り下げて解体する必要があるが、橋桁の施工中にエクストラドーズド橋の斜材の施工が進んでいたために橋脚の地点まで戻すことはできず、既設橋梁の橋脚の張り出しや下部の国道・町道などの位置を考慮して、反対側の桁まで移動してから降ろすなどの対処が必要となった。この際に、2号橋脚から1号橋脚へ向けて施工した移動作業車は、1号橋脚側のS字の橋桁との間のまだ閉合されていない隙間にレールを渡すなどして反対側に乗り移っている。主塔の高さは 5 m で、1.8 m の高さに打継目があり、その上にサドル架台が載せられている[4]。斜材ケーブルはPC鋼より線に防錆油を塗布してポリエチレン被覆したものが使われ、橋桁の張り出し作業と並行して架設・緊張作業が行われた。
2010年8月12日早朝、ディーゼル機関車による試運転列車が最初に新橋梁を渡り、定期列車の初運行は午前6時半過ぎの始発列車で、同列車には地元住民約120人が乗車して新橋梁を通過し開通を祝った。同日開かれた完成記念式典では兵庫・鳥取両県知事や地元選出国会議員、地元自治体の首長などが出席して、列車転落事故の犠牲者に対する黙祷を行い、また橋完成の祝辞を述べた。また地元の住民により、新橋の高さと同じ 41.5 m の長さの餅作りやくす玉割り、宝船行列などの行事が行われた。
新橋の供用開始により風速の規制値が 30 m/s に緩和されて後、2010年12月9日に初めて風速が 31.5 m/s に達して運行見合わせが発生した。しかし、供用開始してからこの日までに、従来の規制値である 20 m/s を超えたのは16日あったことから、運行の安定化に効果があったものとされている[。