
そう言えば川越に住んで以来、意外とまともに観光したことがない
(地元はいつでも行けるとか冷めるとかイロイロ言われるけれど、ホントかも…)
ぢゃ、閃いた所でちょっと巡ってみようか。

先ずは
駄菓子屋横丁!
年末年始の休業に入ったお店もあって、意外に閑散(・・;)。
懐かしい駄菓子もあったけれど、値段が懐かしくないのもあるなぁ。
先ずは、芋の甘納豆を試食!

芋の甘納豆をかじりながら、鰻屋さんの周りを泳いでいる鯉を発見。
鰻が泳いでいれば面白いかも知れないゾ(
無理ですね)!

蔵作りの町並みメインストリートにて焼きたてのお煎餅をゲット!
お味は「古醤油」。
温かくてパリパリ、醤油の香ばしい香りが堪らない♪

川越市のシンボル的存在
「時の鐘」。
昔は定刻に人が登って鐘を叩き、街の人々に時を知らせていた。
今は機械仕掛けで1日4回(午前6時、正午、午後3時、午後6時)で知らせている(
流石にウチまでは聞こえない)。幾度かの火災等に遭い、現存する「時の鐘」は4代目らしい。

ショッパイモノの後には、やはり甘いもの!
紫芋ソフトクリーム♪
うぅ~~ん(^^)、しつこくない甘さが程よく美味しい!

蔵作りの町並みから少々離れて
喜多院へ向かう。
「川越大師」の別名を持ち、もしかしたら奈良時代からの歴史を持つかも知れない、歴史の産物。
川越は徳川幕府との深い関わりがあり、幾度の戦火の難を受けながらも江戸城紅葉山(皇居)の別殿の移築、慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社、が再建されて今に至るのだという。

その、喜多院の中にある「
仙波東照宮」。
東照宮の名を冠するものは全国に約500。その中でもこの小さな東照宮は三大東照宮の中に入るらしい。
徳川家康公が亡くなった時、久能山から日光へ改葬する途中、4日程遺骸を留めて大法要を行った経緯を持つ。
いやいや、川越市はなかなかの歴史を持つ街だ(^^)。
奈良・平安の頃は川越あたり一体を「みよしの里」とも言われていた。「伊勢物語」のこの地を詠んだ歌が残っている。
平安時代の中頃から後期にかけて、坂東武者が闊歩し始める頃、この一体は河越氏や仙波氏が支配するようになる。
常楽寺(上戸)周辺に館があったとされる河越氏は、鎌倉幕府の御家人として重用され、河越太郎重頼の娘は源義経の正妻となり、重頼の子の重員は武蔵国留守所総検校職になるほどの実力を持つに至る。
河越氏は坂東八平氏のひとつであり、その棟梁の流れを汲む秩父氏の出で、そして重頼が河越氏を称してこの地を支配し、武蔵武士の中心地としてこの一体に絶大な権力を掌握した。
河越氏はその後、代々「武蔵国留守所総検校」という武蔵国最高の役職を世襲していき、鎌倉幕府の御家人の中でも隠然たる力を示していく。
室町時代に入ると河越氏は鎌倉公方足利氏満に反旗を翻し、周辺武士を集めて「武蔵平一揆」を起こしますが、氏満の大軍に攻め立てられ、河越氏は滅亡し、歴史の舞台から消えていく。
大田道灌により、河越城が築城され、その後武蔵国の要衝として、上杉、北条が交互に支配し、その状態が江戸時代まで続く。
江戸時代では家康のお師匠であった天海僧正が喜多院の大僧正として就任し、また、歴代の多くの大老が川越藩主から生まれるなど、政治の舞台でも川越は暗躍していく事となる。
川越はいちはやく舟運や道路を整備し、江戸の北の守りとして産業や物資の流れの整備を強化、そのような理由から幕府は有力な大名を配置した。「蔵作りの町並み」はその頃の風情が街のいたるところに残している。
名産品は、川越甘藷、芋菓子、和菓子、ウナギ(
意外…)、醤油etc.
そして、家に戻る前に川越の銘菓を買ったが…。
店員さんに呼び止められる。
「1000円以上お買い上げの方へのお歳暮です。」

熨斗に包れた不規則な形の、イヤに重い物体。
開封。

やっぱり、川越は芋の街なんだなぁ~。
Posted at 2008/12/26 21:55:48 | |
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