2009年01月16日
公害問題と環境問題の違いを述べよといわれたことがある。
公害問題とは、水俣病や四日市ぜんそくのように、被害者と加害者がはっきりしている問題である。それに対して、環境問題とは、温暖化による異常気象のような被害者と加害者が区別できない問題だそうだ。区別できないというより、誰もが被害者であり、加害者でもあると言った方が納得できるかもしれない。
この映画を見て、環境問題と同じような環境悪が浸透しているように感じた。社会秩序の崩壊によって心理的外傷を負ってしまい、発作的に反社会的行動を起こす一般人が増えていないだろうか?
誰でも良かったと言った殺人犯、無差別に破壊を楽しむ放火魔などは、普通の人と同じような生活していた。現代社会では普通に暮らしている中で、心が蝕まれていくことがあるのだ。私は、そのような環境を「環境悪」と名付けた。
その環境悪を極めてわかりやすい状態にしたものが戦場である。戦場は、特殊な状態と言われそうだが、いつ不幸に襲われるかわからない心理的緊張に常にさらされている日本社会は戦場に似たものがあるのではないだろうか。
前置きが長くなったが、今回の映画は、
「告発のとき」
「クラッシュ」のポール・ハギス監督。
主演、トミー・リー・ジョーンス
共演、シャーリーズ・セロン、スーザン・サランドン
かつて軍警察に所属していた父親が、イラクから帰還した直後に失踪し、ばらばら死体となって発見された息子に何が起こったのかを突き止めるミステリー。
息子はなぜ殺されたのか?
金がらみではない。
恨みからでもない。
女も関係ない。
仕返しでもない。
ここからは、私の個人的な解釈。
テーマは、難しいな。
原題は、「In the Valley of Elah(エラの谷)」。
女刑事の息子に、名前の由来を教える場面で、語られる。
デイビッドという名前は、ダビデ王に由来しているそうだ。
ダビデ王が、子供のときに、戦士ゴリアテを倒した話は、有名なエピソードらしい。戦士ゴリアテは、無敵の巨人。エラの谷にやってきては、自分と戦う戦士を求めたが、誰も戦おうとしなかった。ただ一人ダビデは、「私が倒します。」とゴリアテに挑む。ダビデが放ったパチンコの石は頭部に命中し、ゴリアテはあっけなく倒れる。ダビデの勝因は、恐れに負けず狙いを外さなかったことだった。
エラの谷というのは、ダビデとゴリアテが戦った戦場。
この三つが何を象徴しているか?
エラの谷=イラク
ダビデ=アメリカ軍兵士
ゴリアテ=イラク国民
とは、考え難い。
この映画には、シンボリックな小道具が登場する。
それは、「アメリカ合衆国国旗」。
この映画で初めて知ったが、国旗を逆さまに掲揚すると特別な意味になると言う。
それは、緊急信号。「助けてくれ!」「もうだめだ。」と周囲に伝えるのだ。
オープニングで、移民にそのことを教え、正しく国旗を揚げさせた主人公は、エンディングで、揚げ方を変えてしまう。祖国を信頼し、大切な息子を祖国に捧げることをいとわなかった父親の意識を変えたものが重要である。
私は、
ゴリアテが「アメリカ合衆国社会」
ダビデが「アメリカ国民個人」
エラの谷が「アメリカ合衆国」
と考えた。
アメリカ合衆国の政策が、環境悪を生み育て、若者が心を蝕まれていく。この映画では、戦争が環境悪であったが、貧富の差や虐待・銃社会・薬物もその類である。強大な敵であるが、勇気を持って立ち向かうべきだと、ハギス監督は鼓舞しているように感じた。
環境悪の問題は、日本においても深刻である。
会社を維持するためには、弱いものを切り捨てる。法に触れても見ぬふりをする。誠実に生きるのがつらくなってくる。
自暴自棄になって、犯罪に走る者が増えてきた。
対策を立てられないどころか、自分自身を守ることすら厳しい。
シャーリーズ・セロンやスーザン・サランドンの役柄にも、ハギス監督はメッセージを込めていたと思う。このあたりを、考えるとまた大きな発見があるかもしれない。
Posted at 2009/01/16 22:23:49 | |
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