みんカラ内を見ていたら、
STAP細胞騒動という記事に出会った。
前回の記事の後に、同じ話題を別の角度から書かれている記事でした。
別の角度、と言っても、ワタクシがあえて書かなかった、科学の面から書いておられて、これは大変興味深かった。
そして、「ああ、そうか、世間の人は、大体『科学とは何ぞや』っちゅ~定義が曖昧なんだな」と気が付いた。
皆さんは、「科学」ってどう定義づけしています?
…こう聞かれると、逆に漠然としすぎていますよね。特に、科学技術分野におられる人は、狭義の「科学」の方をお答えになるでしょう。
つまり、「理学」ないし「自然科学」ってね。
これ、間違いじゃない。自然科学にのみ限定するのは、むしろあるべき姿かもしれません。
今回の質問は、比較対象に、
「哲学」
を置いたものです。
哲学からは、「科学」とは、全く正反対に位置する学問という先生が、大学時代にいました。神戸大学の教授でした。専門は法哲学だったそうで。
本来は、科学は、哲学の反省点から生まれたもので、哲学は、その上位にあったというのですが、現代の哲学者は、どちらかというとほぼ正反対の価値観に基づく、と説明していました。
おそらく、この先生は、ある観点から線引きしていたんでしょう。哲学上誰もが線引きに挑戦していて、あまり成功はしていないようで。これは難しいけれど、今回のような自然科学の世界、科学技術の世界と哲学上の分かりやすい線引きをしていた先生がいたので、今回はそれを基準にしてみましょう。
皆さんは、法律は明確だ~!…と思っておられるかもしれない。
しかし、哲学上は、
「法律学は、『科学』たりえない」
とされていました。
それは、その先生からは、科学の定義が、哲学とは正反対だからです。
つまり。
哲学は、結局のところ、
「主観的価値判断」
…である、とされていました。
例えば、相反する意見があって、しかも、どちらにも賛成反対が同数だったとします。
ここで、人は反論し合います。
「『客観的』に見るとだねぇ…」
…ありえません。
『客観的』というのは、ホンマ、全くありえないんです。
彼らが言っているのは、せいぜい「外側から当事者以外の視点から見るとね?」程度の意味しかありません。
ワタクシは、自分のことを「客観的」などと評価している人を見ると、信用度は1分ごとに低下します。
人間は、所詮、主観の生き物だから。つまり、「自分がどう『思う』か?」だけで判断しているからです。
え?!
そんな筈はない!!
…と思う方も多いでしょう。
でもね、よ~~~~~~~くお考えください。
ご自分が迷うのは、結局、納得させる「理由」がないから。
仮に「これが『正しい』!」などと言っている人も、突き詰めていえば、最終的には「こっちが『良さげ』」と判断しているに過ぎない。
だって、考えてみれば、判断の理由なんて、神様(つまり絶対的正解をきめるもの)が「これ」って言っている訳ではないでしょ?
じゃあ「正しい」って?正しいとは、他に答えはないって事ですよね。そう決める根拠は?それって一つだけですか?
考えてみると、そんなもの、人が「判断」する限り、「正しい」と決めつけてしまう根拠は、まったくの幻影です。
そんなもの、ありはしません。
究極的には「どちらがええ?」って段階には、答えらしい答えが全くなく、気持ちの面で、せいぜい「こちらがマシ」っていう、感覚での決めつけを行っているだけです。
つまり、人が「判断」してい.るのは、ホンマに主観的な価値観、もっと言えば、究極的には「好きか嫌いか」だけで判断しているんです。
このように、人間の物事の判断は、究極的には自分の好みで決めていることを「主観的価値判断」と規定していました。
なるほど。
これには反論できん。
皆さんも、「正しい!」を連発する人をよく観察してください。
それは、ただ単に自分の主観を正しいもの、そして最高のものと思いたいだけのことで、もっと言えば、「自分が最高!」と思いたがっている、人の心理が見えてきます。
それは、正反対に、自分が人に否定され、自分で無価値だと思うことに怯え、恐怖しているコンプレックスの現れなんですね。
だから、世の中での判断なんてものは、「正しい選択はない」のです。
でも、結果が出ているから「正しい」のでは?
いいえ、違います。
経営者や責任者などのリーダーの判断は、結果が「正しい」から正しいとされているだけ。
その判断を「正しくしていくこと」によって、結果から「正しい判断」とされているだけなんです。
考えてみれば、そりゃそうです。もし選択しても放ったらかしで結果が出ますか?違いますよね。結果がでるよう「判断を続け、選択し続けていく」んです。
人は、「正しい判断」をしているのではありません。その判断を正しいものにしていくだけです。
経営者は、この決断をしなければならないので、このことを心底知っています。
では、科学は?
これは、このような判断、主観的なとらえ方を、できるだけ外したところで物事を見る、というものです。
つまり。
「あるがまま」
…であること。
このように、人の主観から離れている姿をこそ、
「客観的」
という訳です。
つまり、学問としては、哲学も科学も存在しますが、その根拠はまったく正反対、すなわち、両者は、この世の根本を解き明かそうとするものですが、哲学は、究極的には主観的価値判断であり、科学は客観の姿にすることを目指す、という点で、ある意味ではまったく正反対であるということができるでしょう。
しかし、こう言うと、「客観と言ったって、それをどうやって認識する?どうやったら『客観となりました』って言えるんですか?」ってお思いになる筈。
ですから、広く科学は、以下のようにして、人の主観から離れた、と判断しています。
①「同一条件」
②「同一の行動(行為・現象・原因)」
③「同一の結果」
…です。
つまり、同一条件下で、誰がやっても、このことをすれば同じ結果が得られる現象の発見が、「科学的判断」とされる訳です。
同一の条件であれば、誰がやっても同じ結果に必ずなる-もはや、人の主観など差し挟む余地はありません。
これを再現可能性があること、ということができると思います。
このような状態であれば、人の主観など関係ないので、それは客観的-「あるがまま」の姿と言えるでしょう。
ここで勘違いしてはいけないのは、成功率がどうとかいうのはナンセンスだということです。成功率が低い段階では、まだ行動と結果との因果関係が判然としていないだけで、それをこそ明らかにするのが科学の研究です。
以上が、哲学者が規定していた哲学と科学の違いです。
ワタクシもそう「思います」。
以上の区別を考えると、小保方氏の行為の罰当たり度が、よ~~~~~~~~~~く分かる。
彼女は、科学者として「やってはいけないこと」をしてしまいました。
それは、「主観を優先させてしまったこと」です。
一つ目。
科学者も人間です。自分が発見した現象の発表までは、主観の塊です。逆に言うと、科学技術は、完全に広まるまでは「その研究者の中にしかない」のです。だからこそ、科学の研究も研究者も、続けていくことと継承がとても大切なのです。続けなければ失われてしまうからです。
しかし、発表の場ではどうか?
そこは、どこまで正確でなければなりません。少なくとも、データなどは、そのまま原本を提示し、自分の主観をできるだけ排除した姿で世に出さなければならないのです。
「見にくいから加工した」のであれば、原本を示したうえで、拡大したら加工したことを告げ、誰にも検証の機会を持たせ、客観に近づけなければならなかったのです。
二つ目。
酸につけただけ、と喧伝し、正確な①同じ条件②同一の行為=プロトコルをまったく提示しなかったこと。これでは「再現可能性」はないのです。
以上が分かれば、一般の方にも、彼女の論文の真実性はまず置いといて、何がとっっっっっっっっっっっっってもまずかったのか?がよくわかると思います。
真実性の前に、いったい何が本当のデータだったのか?成功条件は何だったのか?が、個人の主幹によって全く不明にされてしまったものを「真実です」と発表してしまったことなんですね。
これは、科学の目指すものからは、かけ離れたこと…というより、そもそもの存在意義を否定する行為な訳です。
科学者が問題解決と真実性をごっちゃごちゃにして語るのは、ここを目指しているからこそ、真実性のあるデータを望み、一足飛びで考えてしまうからです。これは、別のトレーニング、つまり問題解決という実に主観的な命題の訓練が必要です。
…とまあ、ワタクシの友人・博士への尊敬をもとに、今回は書いてみました。
科学者の方々よ、これからも、無名でもいい、真理に向かってただひたすら、前進してくださいませ。