2011年07月17日
時々 距離について 考える
「距離」 って、私にとって、とてもわかりにくいものだ。
悲しくもなり、切なくもなり、バランスをとってくれているものでもある。
今日、「ラブストーリーを君に」という古い映画を見ている。実は、初めて見る。まだ見終わっていない。その中の、つまらない5秒にも満たない映画に関係の無い背景シーンを見るために、私は映画をとめてしまった。
死んだと聞いている高校の時の友人にそっくりの人物が、そっくりの走り方で画面右奥からこちらへ走ってきたのに気がついたからだ。忘れもしない、とても特徴的な走り方なのだ。何度もそのシーンを撒き戻しては、再生した。しかし、もちろん、彼ではない。ただの行きすがりの人だ。よく見れば、似ているが、そっくりではない。
特に仲の良かった友人ではなかったが、いっしょに部活をした。私を一気に高校時代に戻した。
何年に一度か、強く日本を見たくなる。土地に帰って、足を土に付けたくなる。でも、例えば一ヵ月後には、AUの土地が、景色が、恋しくなる。
これが、私にとっての「距離」だ。一生、同時には得られない。
コーヒーと紅茶とお酒とりんごジュース、のようには、一度に目の前に並べられない。会いたい友人に簡単に会うことも出来ない。飲みたい時に飲める手軽さはどこにもない。
「確かに日本に住んでいても、会う時間などない」かもしれないが、「会いたいと思えば、いつても会えるはず」の環境とは、やはり違う。
”理不尽に”、”永遠的な”、「時間的な感覚」で、”距離” を感じる。 「遠い」というそれとは、違う。
映画は、白血病の少女の話だ。私の幼馴染の女の子も20歳で、同じ病気で亡くなった。家2件向うに住んでいた。綺麗な子だった。その子のお墓まいりに行ったのも、もうずっと昔だ。でも、時々必ず思い出す。
学校を卒業して以来、同窓会というものに出たことが無い。いつでも会えるとどこかで勘違いしていたからだ、と思う。しかし、若くして多くの知り合いが死んでいったことを聞くと、何か焦燥感がある。「焦燥」という現し方を不思議に思う人もいると思う。でも、実際、「焦燥」なのだ。
「時間的」、「焦燥」、しかし「永遠」。私の中では、「これが距離」だ。
ブログ一覧 |
日記 その他 | 日記
Posted at
2011/07/17 11:29:54
今、あなたにおすすめ