基本的にブログ用の画像置き場ですが、みんカラユーザー以外の方は新規にスレッドを立ち上げてからご利用願いまする。
なお不適切な発言等を発見しましたら、ただちに削除させて頂きまする。
60も半に達する者です。年を経るほどに急に歴史に興味を持つようになりました。
上里陽雲寺のことも去年の夏に漸く知ることが出来ました。その契機は私の遠縁の家から忽然と陽雲寺の住職が明治10年代の前半に書きとめた1通の書状が現れ、私の知るところとなったからです。
書状の宛名は近くの神川に住む檀家の柳澤所平氏ですが高崎市の遠縁では全く心当たりがなく途方に暮れていたのです。
この時期は今から100年以上経過していますのでこの書状のいきさつは忘却されたのでしょう。
但し、書状の内容は其の時から200年あるいは300年遡った頃を問題にしています。
つまり武田の遺臣であり甲斐の武川衆であり、上州箕輪城を落とした先祖のことが話題になっています。
柳澤はもとより義興弥右衛門の名前で確かめられます。
この先祖が晩年の三條夫人のお世話をした事への感謝状の体裁です。
また上州初代義興の子孫である柳澤所平氏のお寺への貢献への謝辞にもなっています。
また三條実美公の知遇を得てもよい旨も載っています。
さて先の上州初代ですが、没年は定かで享年も分かっています。
寛文年間に60前に没しています。17世紀の中葉です。
そこで先祖がお仕えしたのが信玄の三條夫人だとすれば、時代的な整合性に欠けると言わざるを得ません。
このサイトの著者のご説である「もう一人の三條夫人」説つまり信玄の甥の同じく京都から向かえた三條夫人説に軍配を上げねばなりません。
資料のコピーにつき求めに応じて差し上げる用意がございます。
柳澤 秀男
丸に十さん
初めまして、書き込みありがとうございます。
最近、ブログをほっぽらかしにしてしまいまして、返事が遅くなり、申し訳ございません。
さて、柳澤氏についての事ですが、非常に興味深いです。
とは云え、僕もずぶの素人の歴史愛好家。
古文書なんて、読んだ事もありません。
史料を頂いても、宝の持ち腐れになってしまい、ご好意を無駄にしてしまうでしょう。
ただ、此の史料は陽雲寺と武田氏について、価値の高いもの。
僕の様な素人よりも、町の教育委員会に読んでもらった方が良いのでは、と考えます。
りょうさい様
三條実美公が中心となり武田遺臣石碑建立と符節が合います。すでに群馬県の学芸員が現代語に訳しています。
また解説記事もつけてあります。
原文だけですと歴史書に疎い私ですから、擬古文とはいえ辛いはずです。
りょうさい様の陽雲寺についての造詣の深さはハイドンの驚愕の境地です。
また、お若くて春秋に富んでいられるのに該博な歴史に対する見識に触れて羨ましい限りです。
お答えになっていますでしょうか。公開の場ですから憚る範囲を考慮しています。
全国の城址巡り、大変興味をもって拝読中。上州箕輪、ネットでは1番仔細のようです。
本としては「陽雲寺書状」が偶然去年の春彼岸に発見された高崎の遠縁が復刻した長野氏の盛衰記があり、私も持っています。
りょうさい様
丸に十は昭和30年前半の埼玉県人した。蕨に足掛け3年過ごしました。小学校の後半でもうすぐ浦和と言う17号の近くです。
当時の蕨はまだ町制で田園地帯そのもの誰が今日の人口稠密地帯を予想できたでしょう。
信じられないことですが浦和の手前から東方遥か今のJRに電車の走るのが恒常的に見えたのです。
私は体格が良かったせいで町1番の相撲取りに択ばれました。
遠足に吉見の百穴に入った事は事実ですが、記憶が既に薄らいでいます。
全く受験地獄とは縁の無い生活でした。
担任は旧熊谷中だけを出た代用教員でした。でも授業は脱線されたので魅力的でした。
話題はご自分の好きな作家・吉川英治(?)の宮本武蔵、いつの間にか日常を離れて武蔵の世界に引き込まれること度々でした。
先生は戦時中に旧熊谷中を卒業され、飛行気乗りを目指しました。やがて終戦、どこかぽっかり空いた心の空隙を埋めるべく武蔵にその救いを求められたと今では私は推測しています。
当時は先生と言えば男性が9割でしょうか、当直もあり今と隔世の感があります。
丸に十もやがて6年生に成ろうとしている頃(日本にはドイツに見られる落第制度はナシ)東京の西郊に移りました。
柳澤 秀男
りょうさい様、
若き友人(ゲーテとシラーより年齢が離れている)は埼玉県久喜の人、埼玉県庁の土木一家の1つで嫁さんの家も同じ県庁の土木技師一家。
{武川の地、史上頻繁に洪水に見舞われたのですが、昭和30年前半、伊勢湾台風の跋扈するところとして全国の耳目を集めました。
エジプトはナイルの賜物とあり、土壌が肥えているのと裏腹ですが、従って武川米の産地です。
一昨年、父祖が住んでいたあろう場所に北杜(ほくと)市が土地を買い上げ柳澤氏発祥の碑が地元の有志の浄財で建立され、晴れがましき除幕式に招待されました。
武川には縁続きはほとんど住んでいません。みんな家康からご褒美を貰い本隊は武州鉢形に移住です。
私の先祖は信玄の重臣・内藤修理に従ってまた内密にはお目付け役として上州箕輪の近くに帰農しました。
永野氏攻略は艱難を極め、永野氏の代替わりがナポレオンでいうワーテルローでした。}
さて若き友人、(挿話が長くてまるでラテン語のアエネーアスもどきで済みません。筆者は中年のころ輪読界で殿、散々苦労をしてほとんど残ったものがありません。)先代の技師が応援で武川に赴き村から感謝状を貰い、其のことを息子がよく憶えていたこと。
ちなみに未だ閣僚であった後のF首相も現地入りしました。なお私の遠縁はこの方の尊属と血縁です。
昭和初期、この方が大蔵に入ったとき遠縁から出た人が課長をやっていました。
加えて、友人の嫁さんの実家の菩提寺が陽雲寺、それも三條夫人を護衛するかのように一族が眠っていると言うのですから、唖然としました。
それ以前、話題はオーストリアのチロルのゼルデン、彼は冬に、私は夏に行った所です。
近く陽雲寺に伺いますが、慶喜よろしくひたすら恭順に、曾おじいさんが書いたと思われる書状への感謝を述べるまでです。
柳澤 秀男
りょうさい様、
下手ですが書き出すと蕨時代のことが走馬灯のごとく蘇ってきます。
下界の影響を受けると言う意味では最も多感な時代でした。
いわば桃源郷を後にしてむさ苦しい、人が多い東京は昭島に移りました。
1番大きな違いは都会(トカイと言うとハンガリーの貴腐ワインの産地で大歓迎ですが)に来たなと言うことでした。
偶々両親が教育熱心だったので受験となり、ここから友達と深い関係にならずに僥倖にも担任の反対を押し切って受けたら合格それからが低空飛行の苦難が高1まで続きました。
その意味でも蕨は別天地でした。
懐かしき蕨の幻影を求めて久しぶりに瞑目しても分かる界隈を歩きました。
少し親が知遇をえていた町の本陣を勤めたT 氏宅が消えたことが信じられません。
江戸後期の蕨といえば織物が盛んでしたが、T氏宅でも大手として貢献していました。
鯛は腐っても鯛、後年、一昨年ですが、偶然にも「埼玉苗字辞典」電子版がネットにあることに出会い、興に任せて繰る内に、
上郷陽雲寺絡みの柳澤所平氏の記述にぶつかり心臓が張り裂ける思いでした。
所平氏の記載内容は「陽雲寺書状」と同じですが、簡略したものですが、氏が忽然として姿を神川から消し杳としてその後が分からないということが追加的に分かりました。
T氏宅もやはり特記されていました。
この念頭にまったくひょんなことから私が武川絡みのことを知ったもう20以上前からの若き友人から「上里を訪れよ」との催促を受けています。
逸早く私は上里に手紙を送り来意を告げています。
奇縁にも若き友人とは彼が歴史好きということは知っていましたが、私が武川に招待されたことおよび上里のことを近況報告するや、知悉とのこと、全く他事でのお付き合いであったのに驚天動地の縁の深さを知らされました。紙面が尽きましたので後稿。柳澤 秀男
りょうさい様、
りょうさい様はお寺に所縁ある方とこの関連のサイトで知りました。
埼玉県で思いつくのは川越の喜多院ぐらいしか浮かびません。
勿論、陽雲寺もりょうさい様ご母堂の名刹も存じ上げておりませんでした。
なお私個人としては伯父叔母の眠る越谷のお寺を訪れたいと思っています。
越谷の中心にあり名は天岳寺と確かいう天台宗のお寺です。
山門からの長い石畳を1つの家(O 家)で寄進したそうですが、関東大震災でやられました。
お寺は徳川家の狩場の近くでここが休息所になったそうで、江戸城解体の石垣がここにも運ばれたそうです。
写真で見るとかつての繁栄が偲ばれます。
何か情報をお持ちでしたら、ご教示ください。
丸に十
丸に十様
色々と書き込みありがとうございます。
人それぞれに歴史がありますね。
僕の先祖は、家伝では明智秀満(明智光秀の娘婿)と伝わっています。
坂本城で自害した後、遺児が武蔵の国へ落ち延び、最期の地を名字にしたんだとか。
我が家の初代は、寛永年間に没しているので、年齢的には辻褄が合う様な気もしますが、確証と云うものまではありません。
江戸時代は代々名主を務め、名字帯刀に門構えも許されていたので、少なくても戦国時代までは武士だったと思います。
(現実的には、後北条氏の滅亡後、帰農した小豪族でしょうか)
面白い話として、我が家では、明智を滅ぼした豊臣秀吉の馬印であるひょうたんが、縁起が悪いと禁じられています。
其れと、天岳寺ですが、すいません、勉強不足なので、初めて聞きました。
でも、江戸城の石垣が運ばれたなんて、立派なお寺なんですね。
お役に立てず、申し訳ありません。
りょうさい様
苗字なんていとも簡単に付けられてしまうのですね。多発的に。
私の柳澤、極めて安易に付けられた、呼ばれたみたいです。
青木という家から分家して兄弟皆が武川の地に散ってそこの大字がやがて苗字になったのです。
信玄を遡る10数代前に分家した家は一條(誤解を避けるために甲斐一條とも)でこれが長かったのです。
あたかもリレーのバトン引継ぎと同じようにはっきりした線引きは出来ません。
それでも家康の頃に5代というところで場所も限定されていますのでまあ特定しやすいでしょう。
徳川期、甲州勤番は除いて,甲斐にはいなかったはずです。
尚、上記の一條氏は分家だと言うのですが近くに本家は見当たらずですが、先の除幕式依頼、賀状を交換しています。
大和郡山(吉保の次の代より)からは交通の便が悪いのですが、来訪の折は必ず一條氏宅に寄せられます。
丸に十
りょうさい様
越谷の件、ご高配いただきまして有難うございます。御礼が遅れました。
さて、りょうさい様いとやんごとなき貴種であられる由、柳澤といっても分家(文化年間初頭に没)の又分家(祖父の代)です。
もっともドイツなど絶えず領邦国家に分かれていて近代の国家主義はむしろ周辺部に強かったことが想起されます。
ドイツとして纏まってからの国家「世界に冠たるドイツ」は北辺のフリースラントで出来たそうです。
なお、大英帝国の国家「国王(女王)よ天寿を全うせよ」は曲は旧オーストリアの国家と寸部違わず同じです。
それほど仲良しだった同じゲルマンのイギリスとドイツが第1次大戦で火蓋を切ったとは不思議です。
今でもドイツとオーストリアは気質が異なるものの(バイエルンは同じ)周りからは一体です。
例えは遠慮します。公開の場ですので。オランダ語とドイツ語の関係も触れません。互いに独立国ですから。
さて、私の言う「遠縁」も総本家ではありません。ただ一族の中では目立つ存在です。
家業はコンクリートブロック製造・販売・施工で全国最大といっても400の正社員、それでも復興需要で貢献、そのため会社として5千
万の寄付をしました。
信長の学究派でなる家臣、茶道でしょうが、丹波攻めに興味あります。
それにしても信長は現世的ですね。坂本の町は死臭で永く覆われたそうです。しかも無辜の民を葬るとは。
丸に十
PS:8日からこのPCで操作できなくなります。
単身で死臭漂う方向に行ってきます。
週末にはまたPCを使えますのでよろしく。
14,15は大事な日なので帰っていないかも。
りょうさい様、
金田一春彦氏は日本語の高低アクセントの大家でした。
どうしも横を向いて思索に耽りながら講義をするので或る女子大生たちにプロフィ―ルに自信があると誤解されたそうです。
破顔一笑とは氏のための言葉でしょう。却って真剣な顔は平常心喪失の現れでこちらの対応が苦慮されたようです。
東京は西荻という学究が多く住む閑静な住宅地が本拠でしたが、ことあるごとに山梨県への愛着を語っていたそうです。
私も氏には興味があり、何も山梨に限ることはない、難関の旧制浦和高校の出であり、かみさんの実家も埼玉県ですので、腑に落ちなかったのです。
あるとき、JAF の広報月刊誌に「雁坂峠ふたたび」との意味深な寄稿があり、そこでは稀有なことにご自身の先祖が語られていました。
何と、金田一姓は南部の殿様から岩手の地方の名にちなんで貰ったことは周知のことですが、それ以前は武田姓、それも信玄のイトコであることが述べられていました。
これで、ようやく分かりました。
今、県北の北杜市の更に北部、八ヶ岳が迫るあたりに記念館があり、膨大な蔵書が収められています。
私はこのエピソードを武川での除幕式でお会いした山梨県の学芸員にお話しました。
今はトンネルが出来ましたが、秩父に出るとはいえ、私の印象では遠い道でした。丸に十。
りようさい様、
プロフィールにお書きのお住まいの表示、韜晦で分かりませんでした。下野足利藩は武州に飛び地があり、郡の名前も仄聞するほどで混同してしまいました。
どうも埼玉県は色んな郡があったようです。蕨はもと北足立郡、東京と埼玉が同じ武州と知らなかった小学生の私は不可解でした。
なんとなく2年前ごろ行った熊谷のコンサート会場を想起していました。駆け出しばかりの辻井さんのショパンの染み入るような演奏、秋
深くとても澄んだ音色でした。それも今では信じられないほどの廉価で、熊谷市が大奮発したおかげです。
家人は北関東から、私は土曜日ということで東京から押しかけ、音楽が分かったような顔をしていた私です。
調べたら、陽雲寺とは近距離(Katzensprung)と思われます。さぞかし大いなる関心がおありでしょう。
丸に十