私のプロフィールにも書いておりますが、2001年1月13日から2005年2月21日まで、「コミックYOM」と題する漫画関係のコラムのメルマガを、成田哲二というハンドルネームで配信していました。みんカラのハンドルネームである「成田のオッサン」は、当時のコラムニスト仲間のメーリングリストのやり取りの中で、他のコラムニストさんからそう呼ばれたのが起源だったりします。
このメルマガは河野さんという当時20代の方の呼びかけで集まった30人近くのコラムニストが毎日、日替わりでコラムを配信するもので、私の担当は毎月13日でした。そりゃ一生懸命に書きましたよ。仕事より熱が入っていたと言ってもいいくらいで、一つ原稿を上げるとすぐに次の原稿に取り掛かかるような勢いで、推敲に推敲を重ねてほぼ丸々一月かけて書いてました。他のコラムニストはもちろん、間違いなく読者にも漫画に詳しい人がいるはずで、間違いに突っ込まれないように資料に当たるのにも時間がかかったものでした。
私は、ダラダラと長い文章を書くのが得意というか、アレもコレもと思いついたことを羅列してしてしまう癖があって、コラム配信当初から私のコラムは他のコラムニストさん達の文章と比べると長めでした。
あるとき、自分でも長いなと思うコラムになってしまい、河野編集長に相談したところ、「成田さん、自分が他人の文章を読む場面を想像してください。これだけ長いのを読む気になりますか?」と言われてしまいました。
そう言われて、改めてWEBに並ぶ文章を見てみると、確かに長い文章はほとんど見当たらないし、希に見られるモニター画面一杯に文字が並ぶページは読む気がしないだけでなく、大抵は強い自己主張臭が漂うものばかりです。
WEBやメールというデジタル媒体は、本などの紙媒体の文章とは違う性格を持っていると、初めて気づかされたのはこの時でした。
それからは、ダラダラと書いたコラムのぜい肉を削ぎ落とし、言いたいことを圧縮することに時間をかけるようになりました。
一時は800人以上の読者を持ったコミックYOMも、やがてコラムニストが一人減り、二人減り・・・、河野さんも編集長を降りて、最後まで残った私が臨時編集長を務めて、2005年にコミックYOMを閉めて最後を看取りました。
ところで、iPadやKindleなどのデバイスで電子書籍を楽しんでいらっしゃる方も増えているようですね。通勤電車の中でも時々見るようになりました。私は買う予定もないし、現在のところ欲しいとも思いません。持ち運ぶには少々大きすぎるような気がしてます。
同僚が買ったiPadを手にして、初めて電子書籍を見たとき、「凄いな。これからの本はこうなるのか」という思いと同時に違和感も感じました。
何で、ページがあるのか? どうしてページをめくる音まで再現しようとするのか? これを新しい媒体と言えるのか?
電子書籍の漫画はまだ仕方がない部分があると思います。ページをめくることがストーリーの中の時間の経過や場面転換を効果的に表現し、次のページまでの時間が絶妙の間を作ることも多い。でもテキストの電子書籍はシームレスにでもできるはず。ページの構成など捨ててもいいはずです。ましてやページをめくる音など不用。
どこまで読んだか分からなくなるから? 今の技術ならどこでも好きなところに電子的なシオリを入れることなど簡単にできるでしょう。それに遡れば、テキストには巻物というシームレスな媒体の時代もありました。でも電子書籍はそこには戻らなかったようです。これまでの書物を読むという行為から離れることを恐れ、あくまでも従来のスタイルの近くに留まることにこだわった結果でしょうか。
大手の企業が運営するサイトにもコラムや対談の長文はあります。でも一続きの形ではなく、いくつかに分節してページ毎に小見出しを付け、最下段の「NEXT」などをクリックして次に進むようにして、1ページあたりのテキストを程々にしようとしています。
結局、人は、特に時間に追われた現代人は一続きの長文に耐えられないんでしょうね。何らかの区切りを求めてしまう。1冊の厚い本を開く時と同じ心構えで液晶画面を見つめることができない。それが電子書籍を今の形に押しとどめていると言えないでしょうか。
電子書籍には、ページなどという区切りの概念とは無縁の、読むという行為の全く新しいスタイルを期待しています。
ああ、また、ダラダラと書いてしまった。
Posted at 2013/02/24 00:02:55 | |
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