2016年10月20日
私は泊まりや通いではなかったので日に日に悪くなる父の様子を
週一か二で実家へ行って母から聞いていた。
でも結局は自己判断で、その日は泊まらなかった。
・・・居れば良かったなと、ちょとだけ後悔。
+
前回日記で「次の金曜日、手続きするので来てくださいね」と言われ
私は次の金曜日、母と病院で待ち合わせたが、その前に
父が「水飲まなきゃ」と、お気に入りの飲み物を欲しがった。
病院の自販機の牛乳屋さんのコーヒー牛乳を飲みたいと・・・
母がワザワザ病院へ行って水筒に入れ持って帰った話があったので
いつぞやかに「粉で売ってるんだよ~」と持ってた記憶がある。
先生の診察が終わる昼ごろの予約であったが
朝、病院に車を停めてテラスモール(辻堂)へ朝食兼昼ゴハンを食べに行った。
(つーてもオサレカフェではなくDONKってパン屋さん)
あのコーヒー牛乳の粉を湯で溶かして飲んで、
これ何ml?400?と聞いてたので、たぶん飲むのも余程辛かったのだろう。
と後から考える。(答えは140ml)
その1杯のみ満足げに飲んでから、
のちにスプーン4杯の水しか取らなくなったそうだ。
木曜日の朝、「もう立てないからオムツにして」と言われ。
祖母のは処分してしまってたので徒歩圏内に新しく出来たドラッグストアで買ったらしい。
そこで前回書いた「病院行って先生に話すよ」と言ったら
「予約は明日なんだから明日でイイ」と言いはなったそうな(笑)
案の定、運が悪かった。
「今日、緩和の(一番上の)先生、出張で居ないんですよ」
「3連休なので(っていうか休日休みなんだよね)次は火曜日・・・」
あーーーーーーーーーーっなにしてくれとんねん父ぃ!orz
とりあえず、粘った。
「もうちょっと早くに言ってくだされば」
「えぇもうちょっと早くに言えれば良かったのですが父が(怒)」
を、3回くらい繰り返し。(マジで)
「では本日、巡回中の先生に行けるか聞いてみますね」
「行けるか行けないかは、ご自宅に連絡しますので待っててください」
折れてくれましたwすいませんww
主治医にも粘って、痛み止めを処方していただいた。
「スプーンで1日、何回かに別けて水を取るようにして下さい。」
↑
この時、余命を言われました「1週間以内ですね」
この日、初めて家に行ったんですが・・・父が痩せ細りまくってて驚いた。
とっても小さな白い薬。「飲める~?」と聞いて、
4粒もありましたが、ちゃんと飲んでましたスプーンは5杯分の水。
この日、私はそのまま帰宅。
夕方に母から兄弟宛のメールが送られて来て
「訪問の先生が来てくれて熱を下げる座薬・眠れる座薬・吐き気を止める座薬
抗生物質の点滴100ccをしてくれました。
残された時間は数日と予想されます。」という内容だった。
私的には点滴打ったから明日は平気だろうと思った。
(点滴って延命治療のひとつだし今までも次の日、元気になったし)
明日は兄が行くだろうし日曜もどっちかの兄が行くから
私は日か月曜行けば良いかな?なんて思ってた。
んで旦那にも行く?と聞くと「自分が死ぬときに弱ってる姿は見られたくないからイイ」
・・・うん、まぁ普通はそうだよな~と、かれこれ2ヶ月くらい合わせてなかった。
そして土曜を挟んで日曜日の朝、一番上の兄からメールが来た。
Posted at 2016/10/20 14:00:50 | |
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父がガンになりました。 | 日記
2016年10月20日
最寄の主治医はガンセンターの結果をちゃんと見せてくれた。
胃カメラの映像を飛ばさずに見せてくれました。
ノドから胃までの間にある食道。
ノドの辺りは細かい土砂崩れ、胃の近くは大きな岩がゴロゴロしてる土砂崩れ
途中、白っぽい岩も見えた。(←ガンセンターでは飛ばされてたトコ)
「これ全部ガンですね。」
CTも輪切り画像ではなく縦で見せてもらった。
肝臓ほぼ80%の割合で真ん中が黒っぽくなっている。
「ご飯食べた後に気持ち悪くなるのは肝臓の機能が悪いせいですね」
「少し黄疸(?)とお腹周りに水がたまる(?)症状が出てる」
「とりあえず緩和ケアと話ししてきて下さい。」
この話は9月の最後の金曜日でした。
「次の金曜日、引継ぎの手続きをするので来て下さい」
「私からの引き継ぎで、もしもがあれば私も訪問しますから」
「そのほうがご本人も案心でしょうから」
+
前回、病院を梯子した時の最寄の主治医から家族への会話です。
緩和ケアの手続きは「家族様から~」と緩和ケア受付に言われてましたが
とりあえず、父の様子だけ伝えて帰りました。
+
緩和ケアは最初に家族が電話して面接して主治医と顔合わせの流れ。
パンフだけだと分かり難いんだけど、母が働いてる老人ホームもそうで
働く人が最初に理事長に会って説明聞いてから働く手続きをするそうだ。
なので緩和ケアの先生のオススメの会社の一番上の人に会って
父の症状を説明して、その症状に一番適してるケアを皆で話し合って
(↑ここは日替わりで看護士も医者も入れ替わるので)
どういうケア方針で行くかと言うのを決めてから訪問しますって事です。
うちはちょっと例外で父が「入院は嫌だ!」とか「緩和?俺を殺すきか!」とか
色々あったので遅くに遅くなり。
次の週、だいぶ辛くなったので早めに病院へ行くと言ったら「予約は金曜だ!」と(笑)
その意地が運の悪さを毎度、引き起こしてる父であった。
Posted at 2016/10/20 12:46:17 | |
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父がガンになりました。 | 日記
2016年10月04日
最寄の30年来のお付き合いのある先生が言うには
計算上の死の確率は99.9ですが、0.01でもあれば賭けたいですよね。
ほとんどの先生はね、この病気は人として死と向き合って
家族の事や死後の事を色々と人生を考えられる良い病気だと思っています。
と、家族に対してのお言葉を頂きました。
+
客観的には、えびぞーさん家のまおたんと同じ状況です。
ステージいくつか分からんけど、転移はしてた。(3から増えた。)
まおたんも奇跡を信じてる。
でも違うのは主治医を変えなかったのと、お金の問題かと・・・
+
世の中には、お腹が減ったから食べる人(母と私)
仕事が大事、むしろ食事の時間が邪魔(父)
っていう、頑張らない人、頑張る人に分かれるんじゃないかな?
父は頑張ってるほうが楽(らく)なほう。
+
夜、安眠を得られず、夜な夜な死を考える。
寝やすい体勢を求め布団の上でゴロゴロゴロゴロ
(ベットを借りて来ましたがテレビを見る台として使われてます。)
昼は身体のダルさ(ずっと微熱が続いてる)に耐える日々。
生と死に揺れ動くのは当たり前。
ゆらゆらではなく激しくぶんぶんぶんと揺れてた9月初め。
主治医が匙を投げた時は「死んだときはバァちゃんと同じでいい」とボソっと言った。
(って抗がん剤終了の時の台詞かも)が、やはり受け入れられない!
最寄の先生が緩和ケアありますからというと「先生、寂しいこと言いますね」と
母が今後のために緩和ケアの話をしようとすると「オレを殺すきか!」と一喝。
父の威圧は凄いので母と私は身がすくんでしまうんですね(^^;
結局、悪くなる時に登録せざるえないので待ち時間も多くとられて・・・
↓
9月半ばに飲まず食わずになり体調が悪化したので点滴をしてもらうとちょと回復
ちゃんと診断をしてもらうと脱水症状になってると言われ
慌てて点滴をしてもらい、その日から1日1ℓ分、1つ500mlで2時間を1週間通院。
本当は点滴中に意識が飛ぶことがあるので居なきゃいけないのですが
母と私は気分転換に徒歩圏内のテラスモール辻堂で羽根を伸ばしまくってました(笑)
やはり点滴をすることで元気になり、帰りに自動販売機のコーヒー牛乳を飲んでウマウマしてた。
ん?もしかして味覚が治ってきた?と聞くとそうかもって(笑)
最後の抗がん剤でやられた味覚が戻ってきたみたい。
↓
9月の後半
多少元気になったところで県立ガンセンターでCT結果を聞きに行く。
ともかく朝の国道1号はカオスなので母は行きたくないのだが
父は縁を切りたくないので(緩和の)話しが進まない。
案の定、1時間の旅路に父はフラフラ。
待合室の長いすで横になってグッタリ。
この日は超機嫌が悪く私は父にいびられまくったorz
血液結果は腎臓は元気になってますね~(最寄のほうでもそういう結果だった)
CTは上にも書いたが転移が見つかった。
首の右側リンパ・食道周辺・肺に小さな点・・・。
小さな点は肝臓が見つかった時と同じ大きさで素人目には良く分からない。
胃カメラは喉は相変わらず土砂崩れ、胃の手前の食道はボコボコしまくってて
先生は「カメラは通るから大丈夫」(-”-;)いや、そら押したり引いたりしてるからだろ!
明らかにメシは通りにくいのが、ひと目でわかった。
その先の胃の中が見たかったが、さっさと切られてしまった。
相変わらずの秘密主義者め!(あと第三者視点の先生)
「ごはん通りますよ~(^^)」(無理で~すv無理やり詰めると胃液が逆流しま~すw)
って言ってるはずの父だが意外と「先生を傷つけちゃイカン」
(それ誰の得にもなってねぇからカオス)
そんな事があるから母はイライラ。
そして帰り、母が会計と薬取り&車出しに行ってる間
父にいびられまくり、車椅子の後ろでだいぶシクシクしてしまったorz
休憩してたオバちゃんにガン見されちゃった(恥ずい)
そのあと鼻かんだら「すするな!」と言われたんで「ちゃんとテッシュでかんだもん!」
「そういう事言ってんじゃない」とかなんとか変なケンカした。
そのあと父はだいぶ体調が悪く帰りは横になってました。
この日は結果を聞きたいと最寄の先生に呼ばれてたので行きました。
ここでは問答無用で「体調が悪いのでベット貸して下さい」と借ります。
先生に「家族が言っても納得してくれなくて先生じゃないとダメなんです」としっかり伝え
「緩和ケアの手続きに家族が行きますね」と言ってもらえました。
緩和ケアにつては紹介のみで、家族が電話して面接という形らしいが
初めてだから良く分からず色々話をしたら1~2時間経ってた。
父を起こしロビーでお気に入りのコーヒー牛乳を飲みながら父が話し始めた。
色々と・・・色々と・・・ゆれてる話しだった。
(伴侶の)親戚話しても良いよ急に死にましたって通知が来たらショックでしょ
(話して)もし改善する方法があったら教えて欲しい。
こういう方法があるよ、これが良いよとかあったら知りたいと言うてた。
Posted at 2016/10/04 11:30:34 | |
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父がガンになりました。 | 日記
2016年09月21日
母に母方の父、私にとって祖父について聞いてきた。
うっすらとは知っていたが
今、朝ドラ「とと姉」の母上と同じ肝臓がんであり
うちの爺ちゃんは抗がん剤は『やらない』を選択したそうだ。
今の私と同じで自宅から実家へ手伝いに行く感じなので
どこから、どこまで、どのくらい、何日間くらい酷かったかは良くわかっていない。
たぶん、なんとなくでしか憶えていないと思うのと
・・・父が今、そんなんだから全部聞くまでは至らなかったorz
が父と同じく何回か癌の手術をしたっていうのは初耳だったけど
とりあえず今は爺ちゃんの末期と似た近い症状っていうのだけ。
(寝たきりに近い&時々痛がってる)
祖父母の思い出は
小さい頃から2人とも暇人(たぶん定年退職してたんだと)で
幼稚園・小学校と良く迎えに来てくれてたのは憶えてる。
母がパートで働いてたっていうのと趣味のテニスで私を放置するのがイヤだったそうで
土日(?)よく預けてたそうで(憶えてない)
でも3人または祖母と2人または祖父と2人でメッチャ出かけた
子供の頃の記憶は、ほぼその記憶だらけ。
出かける場所は戸塚駅とドリームランド(今、大学)と長後駅のみ(笑)
全部、祖父母の家からバスで行ける範囲でした。
不便な場所だったんですが相鉄線が出来ると聞いて引っ越してウン十年。
祖母が亡くなる数年前に相鉄が完成したのかな?
結局、2人とも乗れなかったのかな?買い物は行ったけど(^^;
祖父母の話を家でするから父に行っちゃダメ禁止令とか出された記憶。
厳しい父だから甘やかす祖父母をイヤに思ったんでしょう。
それでも母の実家通いは止まらなかったけどw
爺ちゃんが入院を嫌がってたのは夏?だったか私の曖昧な記憶。
その年か何年前だったのか、なんの入院だったのか分からない記憶。
癌末期、年末年始は家に居たっていうのは憶えてる。
すでに寝たきり。
お正月にね
その頃には二世帯住宅になってて私は外か爺ちゃんの方の家の空気が好きだったので
爺ちゃんの隣の祖母の部屋でTVを見ようと思って行ったら
声にならぬ声で(聞こえにくいので耳を口元にかざして聞いた)「トイレに行きたい」を聞き
私では爺ちゃんを支えきれないので隣の親戚達がくつろいでたので呼びに行った。
大人の男性二人係でトイレへ行く大事・・・普段はどうしていたんでしょう?
それから(ここからは聞いた話)何日か前から痛がってたので入院してたとのこと
その数日前に私もお見舞いに行きたいと言ったが「病気がうつるから」と断られた。
爺ちゃんの病気かと思ったが私が鼻すすってたせいなのかも(寒かったし)
1995年(平成7年)1月16日の夜、祖母と母は病院へ。
まだその時は逝くとは思って無かったので祖母を帰らせたそうです。
爺ちゃんが痛がってるのでモルヒネ(?)をもっと打ってくれと母が先生に言うと
先生は「これ以上打つとクスリのせいで死にますよ」と言われたそうです。
日をまたぐ頃、母はうつらうつらしてたそうです(性格的に寝てたな)
私はその日、母が居ないことを良いことに自室(母と同室)でコタツに入ってTV見てたら
後ろに爺さんの生霊?が立って肩に手をぽんっと置いたんですよ
たぶん、振り向いて欲しかったんだと思うんだけど。
あの背筋に氷の柱がストーンって落ちる感覚はヤバかった!
それにビビッた私を見てビックリしたんでしょうね、すぐ居なくなってしまいました。
コタツの暖かさが分からないくらい全身冷えました。
まぁ夢だけに現れるだけじゃないって事ですよ(^^;
それから夜中に母が気がついて(日は超えてたが1時か2時か憶えてないとのこと)
ナースコールして看護士さんが来て心臓マッサージをし始めたので
「もうイイです」って止めたそうです。
そこから親戚(母の兄弟)に電話をして夜中だけど、来てくれたって言ってましたね。
で、朝気がつくとテレビでアレが流れてたと
爺ちゃんは広島の方の人で、「原爆の時に近くに居た」が口癖でしたね
「そこには居なかったでしょ」と祖母に、いつもツッコミされてたけど。
西日本には何かしらの縁があるみたい?
って、関係ない話が混じりましたが
『やらない』を選択した祖父は末期の時も父みたいな「あんな酷い感じじゃなかった」と言うんですが、私には良くわかりませんorz
とりあえず同じ1年だと思うのだが・・・
病院に時間を取られないし、クスリで疲れた~なんてないし
のんびり過ごせて良かったんじゃないかな?
とはいえ、父は仕事をしてたし「まだまだしたい仕事と趣味」があったので
抗がん剤やって、さっさっと手術して、すぐ復帰なんて考えてたんでしょう。
つか抗癌よりも手術してくれよが本音だったみたいだけど癌の場所がな・・・
致し方ない。
そういえば2人とも75歳は超えている。
「やる」「やらない」でいうと比較がわかりやすいが年齢でいうと
この年齢の方で私の愚痴を見たら行き先が真っ暗になりますねゴメンなさい。
うちの人の例なので他にも色々あると思いますから、良い人のを参考にして下さい。
Posted at 2016/09/21 13:22:47 | |
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父がガンになりました。 | 日記
2016年09月13日
抗がん剤をやり始めてから、もうすぐ1年ちょい。
抗がん剤を止めてから3ヶ月が峠と言われている。
実は抗がん剤を1年間に4~5種打って、何も効かなかった。
癌は肥大するばかり、喉の癌も土砂崩れのようになっていたらしい。
癌の先生は匙を投げた。(その後のケアの話もしてくれない)
今、抗癌治療を止めてから2ヶ月だ。
最後の抗癌投与を止めてから
薬が身体から抜けた感じがなく、まったく回復しない自分にイライラしてる。
味覚障害が酷く、なんでも強く感じてて美味しくない。
緑茶が美味いと飲むが2口くらいで、お腹一杯になってしまう。
水分を取らなければ、全てが悪化するが入らないんじゃ仕方ない。
まだ、大好きなテニスにも週1で行ってる。
会社も毎日行ってる、自分の技術の引継ぎを育ててる最中だそうだ。
そうしないと電車に関わる装置の1つが無くなるっぽい。(ものが古くなるだけ?)
この抗癌剤が効かなかった事について
同じ経験をしてる人が居るなら、どんなんだったかを聞きたいと言っている。
これが過去形にならない事を願うばかりだ。
Posted at 2016/09/13 11:24:55 | |
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父がガンになりました。 | 日記