2009年10月07日
友達が「歴史とか勉強する意味ねぇよ。過去じゃん」と言ってきた。
僕は迷わず彼の右頬をぶん殴った。友達は半泣きになりながら「何すんだよ!」
と叫んだ。
僕はもう一度拳を振り上げる。咄嗟に防御の姿勢をとる友達。拳を下ろしながら
僕は言った
「そうやって防御できるのも過去を学んだおかげだろうが!」
ハッと何かに気付いたように、友達は涙を流し謝ってきた。
僕はテキトーな事を言ったのに何コイツ泣いてるんだと思った

Posted at 2009/10/07 00:24:48 | |
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2009年10月06日
結婚についての名言
「独身者とは妻を見つけないことに成功した男である」
(アンドレ・プレヴォー)
「裕福な独身者には重税が課されるべきであろう。
ある人間が他人よりも幸福であるというのは不公平だ」
(オスカー・ワイルド)
「女を腕の中に抱くと、やがて腕にぶらさがられ、そのうち背負うことになる」
(サシャ・ギトリー)
「女たちは私には象と同じように思える。
眺めるのは好きだが家に欲しいとは思わない」
(W・C・フィールズ)
「私は男でなくて幸せだ。もし男だったら、女と結婚しなければならないだろうから」
(スタール夫人)
「結婚した人々の唯一の楽しみは、他人の結婚に立ち会うことである……悪魔的な楽しみだ」
(ラモン・ゴメス・ド・ラ・セルナ)
「離婚の動機ですって? ありますとも、弁護士さん、私が結婚しているということです」
(エミール・ポラック弁護士)
「人は判断力の欠如によって結婚し、忍耐力の欠如によって離婚し、記憶力の欠如によって再婚する」
(アルマン・サラクルー)
「頭のいい男は良い夫ではありえない、なぜなら彼らは結婚しないから」
(アンリ・ド・モンテルラン)
「女たちを知れば知るほど、私は自分の手の方をいとおしく思う」
(ショロン)
「男はみんな賭博師だ。でなきゃ結婚なんてしやしない」
(フレデリック・リット)
「結婚をしばしば宝くじにたとえるが、それは誤りだ。
宝くじなら当たることもあるのだから」
(バーナード・ショウ)
「夫が妻にとって大事なのは、ただ夫が留守の時だけである」
(ドストエフスキー)
「一人でいるとき、女たちがどんなふうに時間をつぶすものか。もしそれを男たちが知ったら、男たちは決して結婚なんてしないだろう」
(O・ヘンリー)
「三週間互いに研究しあい、三ヶ月間愛し合い、三年間喧嘩をし、三十年間我慢しあう。
そして子供達が同じことをまた始める」
(テーヌ)
「恋は人を盲目にするが、結婚は視力を戻してくれる」
(リヒテンベルグ)
「ウェディングケーキはこの世で最も危険な食べ物である」
(アメリカの諺)

Posted at 2009/10/06 00:47:51 | |
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2009年10月05日
祖父の口癖
私は祖父母、両親、妹の6人家族の家庭で育った。
祖父は私が初孫だったこともあり、大変可愛がってくれた。
仕事の忙しい父の代わりに「お父さん」をしてくれたのも祖父だった。
そんな祖父の口癖は「○○(私)の小学校の入学式までは長生きしたいねぇ」
私が小学生になると「○○の中学校の入学式までは長生きしたいねぇ」
こういった具合に私の人生の節目に合わせて「長生きしたい」と言ってくれていた。
そんな祖父も私が高校生の時に脳梗塞を患い、入退院を繰り返すようになった。
退院し自宅に戻っても、足腰がおぼつかない祖父の入浴の手伝いは私の日課となった。
入浴中に話すのは「長生き」の話し。
「今までは運よく健康に恵まれ、○○の人生の節目に立ち会うことができたが、
そろそろお迎えが来る頃かも知れない。せめて○○の成人式を見たかった」
私は涙が流れるのを我慢しながら、やせ細り骨張った祖父の背中を流していた。
ベッドから起きあがる時間は短くなったが、祖父の病状も大きく悪化することなく
私の大学入学の報告もすることができた。
いつもの口癖通り、成人の報告もできるんじゃないか・・・そう考えていたある日
祖父の病状が悪化し始め入院となった。退院の見込みのない入院だった。
程なくして、万一の覚悟をしておくようにと医師からの説明があった。
既に本人の気力だけで命をつなぎ止めている状態とのことだった。
毎日、家族が交代で見舞いをした。残り少ない祖父との時間を慈しみあうように。
ある夜、祖父の容態が急変したと連絡を受け、病室に駆け込んだ。
だんだんと衰弱が始まり、息づかいもか細くなっていく。
家族親戚が集まり、祖父のベッドを囲む。
いつの間にか夜は明け、病室に朝日が差し込む。
眩しく、優しい光が祖父を包んだ時、大きく息を吐いて祖父は永眠した。
くしくも、この日は私の20歳の誕生日であった。
あれから7年、私は結婚し、2児を授かった。
2歳になる上の子は私の実家に行くと、祖父の仏壇に参る。
誰が教えたわけでもなく、私たちの真似をするうちに覚えたようだ。
仏壇の前で孫を抱きながら、父が言う。
「この子の小学校の入学式までは長生きしたいねぇ」

Posted at 2009/10/05 01:14:33 | |
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2009年10月03日
それから幾十年、私は自宅で1枚の写真を見つける。
和服姿の綺麗な日本美人が映っていた。若い頃の祖母によく似た女性ではあるが、写真の裏には
「幸子」と記されていた。
祖父に聞いた所、その女性は許嫁であったとのこと。若くして肺炎で他界してしまったこと。
親同士が決めた許嫁であったが、幼なじみで小さい頃から仲が良く、お互い喜んだこと。
広島で保護した女の子を幸子の代わりのように感じていたこと。
祖母に出会った時、幸子が生きていたのかと思う程そっくりで驚いたこと。
そして、それらを祖母には秘密にしているということを話してくれた。
今から60年以上前、実際に起こった出来事。学校で習う教科書では歴史上の一出来事としてしか
記載されていないが、その中に人々の生活があり、青春があり、苦悩があったことを気づかせて
くれた祖父の話でした。

Posted at 2009/10/03 22:24:18 | |
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2009年10月03日
1945年8月6日午前8時15分、広島の街はこの世の地獄と化した。当時、本土決戦に備え
陸軍の第二総軍が広島市に置かれていたが原爆投下により部隊は壊滅的な被害を受けた。
総軍の中枢部が崩壊し諸部隊も全滅に近い状態となり、命令系統不全となる。
かろうじて生き残った者達は救護活動の為、爆心地に向かった。
その中に私の祖父もいた。幸運にも比較的軽傷であった彼は、率先して救護活動に従事し、
負傷者の搬送や救助活動に従事した。
彼は、地獄の中奇跡的に生き延びた1~2歳の女の子を保護する。賢明に家族を捜すが、
見つからない。彼は部隊に連れ帰り皆で面倒をみることにした。
幼く、まだ自分の名前を言うことが出来ない彼女の為に名前を付けることにした。
彼が一番好きな女性名である「ゆきこ」と名付けた。
ゆきこは皆に可愛がられ、部隊の中でマスコット的存在となった。
ある者は焼け跡から少し焦げた鞠を拾ってきたり、またある者は野花で髪飾りを作って
与えたりもした。彼も救護活動を終え、部隊の宿舎に戻ると必ず始めにゆきこのもとへ
行き、自分の食事を分け与えた。ゆきこも彼にすっかり懐いていた。
彼は独身であったが、この地獄から抜け出した際にはゆきこを養子にする決意を固めた頃・・・
ゆきこは発熱、嘔吐、下痢、下血を繰り返した。
部隊の皆も心配し、交代で看病した。3日後、ゆきこは息を引き取った。
連日の救護作業で、涙などとうに尽きたはずであったが、部隊の誰もが涙を流した。
それからしばらくし、戦争は終結した。彼は戦後の残務処理の為、神戸へと異動を命じられた。
その際に事務職として女性職員の面談をした際に祖母と出会う。祖父の一目惚れであった。

Posted at 2009/10/03 22:23:07 | |
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