
おっさん達がよく言いますよね・・・『昔は良かった』って・・・
まぁ、私もおっさんなのですが、ことプロレスに関してはおっさんで無くとも昭和の方が良かった、面白かったと皆さん感じているのではないでしょうか?
というわけで、完全に独断と偏見による、昭和レスラーの思い出や試合なんかを書いてみたいと思います!
第一弾目は、そう!日本のプロレス界にも多大な影響を及ぼした
ジ・インテリジェンス・センセーショナル・デストロイヤー選手です!
デストロイヤーっていっても、メガなんとかってトコのバスロッドじゃありませんよ~
私なんかの世代では、レスラーというより70’年代NTV系の『噂のチャンネル』でのタレントとしての活動の方が有名ですよね!
そして皆さん、学校の休み時間、プロレスごっこをしたときのフィニッシュで
足4の字固め、なんてやりませんでした?(画像の技)
その技の権化です!
そして、私なんかが生まれる前、街頭テレビが主流だった時代、力道山vsデストロイヤーの試合に国民の皆様は大熱狂し、視聴率
64%!!!も記録した
大レスラーなのであります!
本名はディック・リチャード・ベイヤー。ニューヨーク州バッファローで生まれるドイツ系アメリカ人。
1931年生まれですから、もう78歳なんですね・・・
覆面レスラーとして世界で始めての世界チャンピョン(WWA世界ヘビー級)にもなりました。
親友であった故ジャイアント馬場さんが日本プロレスを離脱し、全日本プロレス(これからは全日と書きます)を1972年に旗揚げすると、デストロイヤーも後を追い全日に参戦するようになりました。
12月の新潟大会でジャイアント馬場vsザ・デストロイヤーの試合が行われましたが、この試合は『負けたほうが相手の言う事を何でも聞く』という、ちょっと子供じみたルールでしたが、もちろんアングル(筋書き)でしょうが、デストロイヤーが敗北し、馬場さんの要求した『向こう1年間、全日で働く』という要求をのみ、結局は6年間も日本に滞在してしまいました。
旗揚げ直後の選手層の薄い全日を助けるため、アングルとはいえ親友のために6年間も日本に定着して、馬場さんを助け、故ジャンボ鶴田さんなど若手達にプロレスのいろはを教え、全日の為に色々尽くしました。
こんなところにデストロイヤーの人柄の良さと男気を感じてしまいます。
さて、私は元々、『噂のチャンネル』や
覆面世界一決定戦でデストロイヤーの事は興味を持っていたのですが、プロレスの試合で一番印象深かったのは昭和55年、全日本プロレスの第2次サマーアクションシリーズで開催されていた
PWF杯争奪タッグトーナメントでザ・クルーザー(ロジャーカービー)と組んでミルマスカラス(アレンロドリゲス)、ドスカラス(ホセロドリゲス)いわゆるマスカラスブラザースと戦ったトーナメント決勝戦でした。
試合としては、デストロイヤーのパートナーのクルーザーがマスカラスにピンフォールされてしまったという結果だったのですが(今で言う鉄板のアングル)、何しろ、小学3年生だった私にとって、試合をしている全員が覆面レスラーというえづらが強烈だったのを覚えています。
それと、後からビデオで見た試合ですが、1974年7月25日、今は無き両国日大講堂で行われたデストロイヤーvsミル・マスカラスの試合も印象深い一戦でした。
60分3本勝負で行われたこの試合、お互いに1本づつ取り合った後の攻防で、マスカラスにロープにとばされたデストロイヤーが、リープフロッグ(馬飛びして走ってきた相手をかわすアレ)でジャンプしたマスカラスの股間にタイミングが合わず間違えて頭突きしてしまい、マスカラスはそのまま試合放棄でデストロイヤーの勝ち、なんてお笑いのような試合もありました。
2大覆面レスラーの試合でどちらも傷つかない結果として、3本目はアクシデントに見せかけたという試合のアングルでしたが、こんな決着しかつけられない、というかつけるしかなかった、マッチメイカーの馬場さんの苦悩が垣間見えますね。
プロレスの面白さのひとつはこんな裏読み的なところにあるのかもしれません。
昭和50年代後半に入ると、年齢的なこともあり、来日はしても第一線から退いてしまった感がありました。
私が本格的にプロレスファンになったのが幼稚園~小学1年の時(1978年)ですから、正直デストロイヤーの時代としては年代がずれてしまった感があります。
しかし、少なからず私のプロレスファン歴において影響を与えてくれた
ジ・インテリジェンス・センセーショナル・デストロイヤーは心の中で永遠です!
こんな感じでこれから昭和プロレスに関してたま~に書いていきたいと思います。
Posted at 2009/11/27 19:09:03 | |
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