前回の最後に、舷窓の位置を特定する作業が残りました。
桑は写真も図面も無いので、桑と同じ藤永田造船所生まれの同型艦の写真から推定します。
同じ藤永田造船所生まれは梅、杉、樫、楢、柳の5隻。このうち比較的鮮明な写真があるのは杉、樫、楢の3隻。
楢は舷側が陰になっていることと岸壁上の物資等に阻まれてディテールがほとんど分かりませんね。
しかしここで新たな悩みが。
槇(別の造船所)の写真を掲げます。
左右で舷窓の数が明らかに異なります。
何故だ!?
ひとつの可能性は「新造時は戦訓対策で舷窓の数を限定していたが、復員輸送時は居住性確保のため新たに開口した」という考え方。
しかし戦後まで残った同型艦で同様の例は確認できませんでした。また居住性のためとはいえ安易に船体に穴を開けるだろうかと。
同時に秋月型も確認したところ、復員輸送時の宵月は盲蓋の付いた舷窓が散見されました。蓋さえ取らなかったのに、新たに開けるだろうかと。
米軍艦船は不沈対策徹底のためか舷窓はほぼないので、米軍の指示で新たに舷窓を開口したということは考えづらいと思います。
結論・
分かりません(笑)
とりあえず右舷は杉、左舷は楢を参考にすることにしました。
しかしいずれも斜めからの撮影なので、位置の正確な特定が難しいです。
よってこんなことをやってみました。
樫も同様にやりたかったのですが、甲板が写っていないので、先程の樫の写真や竹の図面から推定します。
これらを参考にして図面に落としたのがこちら↓
艦尾は樫の写真から、竹と同じ位置にあると推定しました。
やれやれ、舷窓の考証だけで30時間くらいかかってしまいました。最新キットなのでさっくり作れると踏んでいたのですが…。
そういえばこの作業過程で驚いたことがあります。福井静夫氏のいわゆる68K本で松型駆逐艦を見ていたところ、竹の公試運転時の写真↓の説明に「竹(推定)」とあるではないですか!
公試運転の写真は竣工図書に添付されるものなのでよほど誤りはないと思っていましたが、まさかの推定…。
しかし舷側にTAKEと大書された復員輸送後の写真↓(学研本掲載)の舷窓は「推定」写真と同じ箇所にあるので、よほど大丈夫だと思います。
舷窓を開口する前に、外板継ぎ目のモールドが少しオーバーな気がしたので、軽くペーパーを掛けました。
上が施工前、下が施工後です。ほとんど分からないですね(汗)
そのほか、以下の作業を行って船体を組み立てました。
・爆雷投下軌条の張出しの薄化
・以下のモールド切除
旗竿基部、キャプスタン、艦橋両脇のラッタル、ボートダビット基部、2番主砲砲側弾薬箱(応急資材置場)、プロペラガード、舷窓の庇
併せて以下の事柄も検討しました。
・錨鎖は片舷はキャプスタンを、もう片舷はライジングビットを回って錨鎖庫に入っていくはずですが、キットでは両舷ともキャプスタンを回っています。
しかしこれを修正しようとすると、キットの精緻なモールドを損ねてしまうので、そのままにすることにしました。
次回は舷窓の開口ともう少し船体をいじって、上部構造物に入る予定です。
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Posted at
2021/10/12 21:59:11