あれは私が高校生の頃。
歴史の先生が宿題を出しました。
「自分の先祖を調べてくるように」
父の実家に行った際に話を聞くと、どこからともなく虫食いだらけの古文書が出てきて、「ザクとは違う家はその昔、高天神城の戦いに参加し、負けて帰ってきてこの地に根を下ろしたのだ」というようなことを教えてもらいました。
翌日、家族で高天神城へ行ったことを、うっすら覚えています。
時は流れ、私ももう50。
来し方を振り返る場面も増えました。
その中でふと「高天神城を再び訪れてみようか」という気になりました。
場所は静岡県掛川市。
位置関係的にはこんな感じです。
つまり北へ行けば信濃(武田信玄)、東へ行けば駿河(今川義元)、西へ行けば三河(松平家康・織田信長)という交通の要衝にあり「高天神を制するものは遠州を制する」とまで言われたそうです。
さていよいよ攻城。
全体像はこんな感じです。
尾根伝いに曲輪が配置されています。
北にある搦手に大きな駐車場があるので、そちらから入ります。
すると早速大鳥居がお出迎え。
そう、この城は名前の通り、もともと神社だったのです。
そして石段を登る途中には三日月型の井戸が。
なぜか金魚が泳いでました(笑)
この城の特徴は四方を断崖絶壁に囲まれていること。
このような地形が自然にできたとは考えづらいので、築城の際、大規模な土木工事が行われたのかもしれません。
次に二の丸。
こちらは西の丸と堂尾曲輪の間に配置されており、本丸とは反対側にあります。
三の丸が本丸のすぐ近くにあるので、実際には二の丸と三の丸が逆の配置ではなかったのかなとも…
二の丸奥にある堂尾曲輪の向こう側は、このように堀切が施工されています。
当時は向こう側の曲輪とつなぐ橋がかけられていたとか。
敵が尾根伝いに攻め寄せてきたら橋を落としてしまう戦略です。
二の丸下にも同様の施工がされていますが、こちら側は第二次高天神城の戦い(武田勝頼が攻めたもの)の際、比較的緩斜面の二の丸北側から城を攻め落としたため、落城後武田氏が防御力強化のために作ったものなのだそうです。
本丸と二の丸などをつなぐ中間点には井戸曲輪があります。
覗き込んでみましたが、水があるかどうか分かりませんでした。
その脇には小さな神社が。
横の立て札には「結ぶ結ぶ結ぶ」と唱えるとあらゆる願いが叶うというようなことが書かれていました。
凄まじい神通力!
え?何をお願いしてきたかって?
そりゃもう
「ガンプラ製作がうまくなりますように…」
に決まってますよね(爆)
西の丸には高天神社があります。
以前は本丸の位置にあったようですが、築城に伴い、移設されたそうです。
西の丸から少し降りたところに馬場平があります。
こちらから臨んだ景色は↓
遠州灘がキレイに見えました♪
そしていよいよ本丸方面へ。
本丸すぐ近くには的場曲輪跡があります。
名前からは射撃練習場のようなイメージを受けますが、発掘調査では地面に石が敷き詰められていたことが判明していることから、火薬庫だったのではないかと思います。
わざわざ山を登って射撃練習するのも変ですよね(笑)
そしてこちらは御前曲輪跡。
なぜか書き割りがw
後ろにコンクリート製の土台が見えますが、これは明治ころに模擬天守を作った時のものだそうです。
ググると当時の天守の画像が出てきますが、あまりにも小さく、そして貧相(失礼)ですし、そもそもこの時代に天守を作った城は、そう多くありません。
そしていよいよ本丸。
端には築山が作られており、簡易的な虎口のようになっているので、敵が直線的に進むのを防ぐ工夫がされています。
でも本丸まで攻め込まれている時点で負けですよね…
さて、ここまでが攻城戦。
全体としては、以下のような感想を持ちました。
・断崖絶壁に囲まれた城はまさに難攻不落
・規模自体はさほど大きくない
もう少し涼しい時期なら、もっとじっくりと城内を巡ると、「築城主はどのように考えて縄張りを作ったのか」「自分ならどう攻めるか」「自分の先祖はどこでどう戦い、どこから落ち延びたのか」「城の周辺はどの様になっているか」などに思いを馳せることができたかも。
ところで少し前まで山城に登るたびに思っていたこと。
「あんなに木がたくさん生えいていては、敵がどこから攻めてくるか分からないのでは」
違いました。
当時は築城の際、山の木々をすべて伐採して丸裸にし、その上で城の施設を作ったのです。
つまり山城を作る=大規模土木工事。
すべて人力でこれだけの施設を作るのはさぞ大変だったでしょうね。
Posted at 2018/07/01 07:47:09 | |
城めぐり | 旅行/地域