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2018年03月04日 イイね!

試作に終わってしまった全翼重爆撃機 ノースロップ YB-35 YB-49

試作に終わってしまった全翼重爆撃機 ノースロップ YB-35 YB-49※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像を引用

私は航空マニアでは有りませんが、
『試作機で終わってしまった爆撃機』
試作に終わってしまった故に
興味をそそってしまいます…




だいぶ昔、NHKだったか、乗り物の創世記から今日(と言っても1970年代後半?)迄を採り上げた番組の飛行機編で登場したと思うのですが・・・
胴体部や尾翼がなく、一枚の主翼のみによって機体全体が構成された飛行機、
つまり、『全翼機』の試作機として、ノースロップYB-49の映像が流れました…
当時、小学校高学年だった私は驚きましたよ…
SF映画でしか見たことのない様なスタイルの機体…
『こんなのが実在したのか!』が率直な感想・・・

ただ・・・機種名を聞き逃してしまいました…(´・ω・`)

そして・・・時が流れ、『あの全翼爆撃機』のことは記憶の片隅に…( ̄▽ ̄;)

で、最近になって、ふと思い出し・・・
ググって…ウィキって(?)・・・YouTubeって…ブログ記事化…

さて…全翼重爆撃機 ノースロップ YB-35 YB-49なんですが、
先ずはYB-35 フライング・ウィング…

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像を引用

なんと、このスタイリングにして…
エンジン:プラット&ホイットニー R-4360-17 とR-4360-21 の各レシプロ2発ずつ合計4発(Wikipediaより)の4発プロペラ機なんですよ♪

まあ、YouTubeにて見つけた動画を見ていただきましょう♪

プロペラが2重反転プロペラなのが、興味深い・・・

いつものことですが…
『引用という名の手抜き』で・・・(^_^;)
※Wikipediaより抜粋引用

YB-35 (航空機)
YB-35(Northrop YB-35) は、アメリカ合衆国の航空機メーカーであるノースロップ社が、1940年代にアメリカ陸軍航空隊向けに開発していたレシプロエンジン爆撃機である。制式採用はなされず、試作のみに終わり、1949年に開発中止されている。

概要
機体形状は、尾翼や目立つ胴体部がなく主翼のみで構成された全翼機であり、主翼部以外には、乗員窓及び機関部とテイルコーン程度しか突起部が無い。大型の全翼機としては、実際に飛行した世界最初の機体であった。機関は、レシプロエンジン4基を搭載し、主翼後縁に4基のプロペラを推進式に配置している。コックピットは機体先端にあり、機内には爆弾倉も設けられている。愛称はフライング・ウィング(FLYING WING)。

推進機関をジェットエンジン6基に換装したYB-49も開発されたが、こちらも試作のみにとどまり、アメリカ軍は、より一般的な機体形状のコンベアB-36を戦略爆撃機として採用・実戦配備している。

ただし、レーダーに捕捉されにくいという全翼機の特徴は、後にステルス機として知られるB-2 スピリット(1989年初飛行)開発の際に活用された。

開発の推移
全翼機の発想はノースロップ社の創業者であるジャック・ノースロップが追及していたものであり、彼は1930年代を通して全翼機の製作に力を注いだ。ドイツでもホルテン兄弟が同様な構想を練っており、同じ第二次世界大戦時にホルテン Ho229が開発されていた。
10×10ボマー構想
アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦する直前の1941年4月11日に、アメリカ陸軍航空隊は欧州戦線用に企画された10×10ボマー(10,000 lbの爆弾搭載量があり10,000マイルの航続距離を持つ爆撃機)構想をメーカーに提示した。候補のひとつとして、大きな翼だけの構造を持つ長距離爆撃機B-35をノースロップの会社で開発する契約を1941年11月22日に与えた。B-35は理論上では通常形式の爆撃機よりも、速度が速く搭載量も多く、そして使用する金属が少なく安く製作できるとされていた。このような長距離爆撃機を陸軍航空隊が必要としたのは、仮に欧州戦線でイギリスが敗北した場合、アメリカ本土から枢軸国側を爆撃するために、大西洋の両岸を往復飛行できる爆撃機が要求されるためであった。また当時の迎撃戦闘機が到達できない高度である45,000フィート(約13,700 m)という最大上昇限界高度も設計要求に含まれていた。軍は2機目の試作機を製作するオプションを1942年1月2日に行使し、1機目は1943年11月に引き渡される計画であった。

しかし全翼爆撃機の製作は史上初めてのため、B-35を設計するためにデータを蒐集するXB-35(試作機)の3分の1スケールの実験機N-9M(英語版)を製作するところから開始された。N-9Mは1942年12月に初飛行している。ノースロップの設計陣は1942年前半からB-35の設計を開始した。操縦席は翼に埋め込まれ、機体構造はアルコア社が開発した新型のアルミニウム合金で製作されることになった。通常の飛行機がもつ方向舵(ラダー)をもたないため、左右の翼端に、上下に割れるように開くフラップ(スプリット・フラップ)を備えていた。片方のみを作動させると左右の抗力差でヨーイング・モーメントを発生し、左右への首振り運動を制御できる。レシプロエンジンR4360(3000馬力)を4基を翼の前縁内に設置し、延長シャフトを通じて後方の2重反転プロペラを駆動した。最大速度は時速629kmで、爆弾7.3tを搭載して1万3120kmを飛行できた。機内は全翼化によって広いスペースが確保され、爆弾も機内に最大23.2tまで搭載でき、機体中央部には操縦席や航法士席、引き込み式の対空機銃座、搭乗員用の食堂、交代要員の仮眠室まで設けられた。

1942年9月30日に前量産型YB-35が13機発注され、1943年6月には量産型B-35Bを200機生産する契約がなされている[3]。しかし、XB-35は様々な技術的困難にぶつかり、開発は予定より遅れた。ノースロップに生産設備がないため実際にはマーチン社で生産することまで決まっていたが、実用化に時間が掛かること、そして当初の予想よりも速度が出ず航続距離も短いなど性能の不足が予想された。大戦終結の見込みとジェットエンジンの発展・プロペラ機の旧式化があいまって、量産計画は中止されたが、全翼機という概念自体には注目され、研究目的のみのために計画は継続された。結局試作機が完成したのは1945年7月であった。なお10×10ボマー構想には他にコンベア社とボーイング社も参加していたが、コンベアのB-36が採用された。また、ボーイング案は双胴機であったが不採用となり設計すら行われなかった。

試作機
1946年6月25日、ミューロック乾湖において、XB-35の1号機が45分間の初飛行を行ったが[1]、その後、様々な問題点が明らかになった。結局、1号機は19回、2号機はわずかに8回飛行した後、いずれも地上にとどめおかれることとなった。この間にギアボックスの不具合への対応としてプロペラが2重反転プロペラから通常のものへと換装されていたが、これによって振動が発生するとともに性能が大きく低下した。また、複雑に入り組んだ排気系統の整備には困難が伴った。わずか2年間使用しただけであったエンジンには、既に金属疲労の兆候が見られた。
計画の中止とYB-49

XB-35は2機、YB-35は13機生産されている。YB-35は1948年5月28日に初飛行した。しかし、振動問題等の技術上の困難や、1945年からは、すでにジェットエンジン換装型のYB-49の開発が開始されていたこともあり、1949年5月に開発計画は中止された。

XB-35はいずれも、計画中止後、1949年8月にスクラップにされた[3]。YB-35の最初の8機はXB-35と同じ仕様で生産され、このうち2機が後にYB-49へと改造された。後期生産の5機は改良された仕様で生産され、YB-35Aと呼ばれた[4]。このうち1機は後にYRB-49Aへと改造された。また別の1機はターボプロップエンジンの試験機(テストベッド)に使われ、1950年3月に解体処分された。YB-35のうちで飛行したのは、最初の1機のみで、改造されなかったものはいずれも部品取りに使用されるなどした。

YB-35のエンジンをジェットエンジンに換えたYB-49は、1947年に初飛行し、良好な性能など全翼機の有望性を垣間見ることができたが、飛行が不安定になる欠陥があった。そのうえYB-49の1機が墜落して搭乗者全員が殉職する事故まで発生した。これはプロペラの設計のままで翼を再設計することなくジェット化したため、弊害が生じたといわれている。
詳細は「YB-49 (航空機)」を参照

なお、B-35・B-49の両計画の中止をめぐり長年に渡って陰謀論が唱えられている。これは空軍長官スチュアート・シミントンがノースロップに対して政府の影響下にあるコンベアとの合併を強要したものの拒否されたため、意趣返しとして中止にしたというもので、ジャック・ノースロップ自身が事実であったと証言したため陰謀が現実にあったとされた。実際には当時の技術では全翼機を使いこなすことが出来ないことや、当時の核戦略の要求に適合しなかったなどの理由で中止になったといわれている。現在のB-2は、フライ・バイ・ワイヤを利用してコンピュータによる操縦補助を受けている。

機体性能(YB-35)
乗員:9名(機長、副操縦士、爆撃手、航法士、航空機関士、通信士各1名と機銃兵3名)
全長:16.2 m
全幅:52.2 m
高さ:6.2 m
翼面積:370 m2
胴体厚:2.9 m
機体重量:54,432 kg
最大離陸重量:95,000 kg
エンジン:プラット&ホイットニー R-4360-17 とR-4360-21 の各レシプロ2発ずつ合計4発
出力 3,000 hp (2,200 kW) × 4
最大速度:629 km/h
航続距離:13,100 km
最大上昇高度:12,100 m(39,700フィート)
上昇率:625 ft/min(3.2 m/s)

武装:ブローニング AN/M3 12.7mm機関銃 20門
爆弾:23,210 kg (51,070 lb)

試験飛行中のYB-35

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像を引用

N-9M(復元機)

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像を引用

XB-35の機首部
単輪式の前脚のほかに、ピトー管や空気取り入れ口、ブレードアンテナなどが見える

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像を引用

左下方から見たXB-35
翼端のスプリット・フラップがわかる

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像を引用

※引用終わり

続いて…
YB-49

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像を引用

未来的なスタイリングに相応しく、
ターボジェットエンジン…

コレも
YouTubeにて見つけた動画を見ていただきましょう♪

当時、YB-49の飛行を見た人達は目を見張ったことでしょう♪

当然、コレも…
『引用という名の手抜き』で・・・(^_^;)
※Wikipediaより抜粋引用

YB-49 (航空機)
YB-49は、アメリカの航空機メーカーであるノースロップ社が、第二次世界大戦終結直後にアメリカ空軍のために開発した全翼重爆撃機の試作機である。2機が製作されたYB-49は、同様な形状でレシプロエンジン推進のYB-35の発展型であり、同機をジェット化したものであったが、実戦配備されることはなく、より一般的な形態のコンベア B-36が採用された。しかしながら、レーダーに捕捉されにくいという機体設計概念自体は、ステルス機として知られるB-2 スピリット開発の際に活用された。

開発の経過
B-35計画は1944年の時点で予定よりも開発が遅れており、レシプロ機時代の終焉の気配と相まって、200機の発注契約は5月にキャンセルされてしまった。それでもなお全翼機という概念自体には注目していた空軍は、試作機による試験は続けることとした。うち2機に対してはジェットエンジン推進への転換が指示された。

YB-49は1947年10月1日に初飛行し、その有望性が実証されることとなった。YB-49は40,000 ft (12,200 m) よりも高空を6時間飛行するという非公式の滞空記録と、カリフォルニア州のミューロック空軍基地(当時)からワシントンD.C.のアンドルーズ空軍基地へと4時間20分で飛行する大陸横断速度記録とを達成した。ジェットエンジン搭載によって運動性能は向上し、B-35比で100Kmの速度アップを達成したが初期のジェットエンジン共通の燃費の悪さのために、航続距離と爆弾搭載量は半分となった。機内のスペースは横方向には広いものの、全翼機ゆえに高さが確保できず、当時の核爆弾(Mark 3)は搭載できなかった。

その特殊な形態に伴う操縦の難しさを指摘する声がテストパイロットからあった。失速間際になると勝手に機首が上がって上転する挙動が出現することが報告されていた。その時のパイロットは、直後に機体を横滑りさせて安定を取り戻せたため、墜落を回避することができた。1948年6月5日、グレン・エドワーズ大尉ら5人が搭乗した試作機は、テスト飛行中に墜落し全員が死亡した。この事故によってミューロック陸軍飛行場(Muroc Army Air Field)と当時呼ばれていた基地が、エドワーズ空軍基地と名前が変更された。事故原因は、墜落場所で回収されたメモ用紙によって解明された。メモには『これからエンジンをストールさせて失速させるテストを行う』とあった。その実験によって機体は失速して上側に反転、強い抵抗を受けた両翼がエンジンの付け根部分から破断して墜落したとされた。

1948年9月には、空軍はノースロップに対し偵察機型のRB-49Aとして発注し、コンベアを生産担当企業としたが、翌年の1月までには計画は中止となってしまった。空軍テストパイロットのロバート・カーデナス少佐による報告の中で、機体が非常に不安定であると指摘したことが中止の一因といわれている。

空気力学の専門家らは後にこの不安定性を説明する理論を提案した。YB-49は、YB-35からレシプロエンジン駆動のプロペラを外し、ジェットエンジン推進にしたものであるが、この際に本来であれば翼を完全に設計し直さなければならなかったという。彼らは、YB-35においては、作動中のプロペラの作る回転面が気流に対して一種の安定板として機能したため、不安定性の問題が生じなかったのだと指摘している。

陰謀だとする説(陰謀論)
プロペラ機であったYB-35については1949年を通して試験飛行が続けられたが、爆撃機としての各種問題やエンジン・ベイの火災などに悩まされた。1950年3月15日には計画中止が言い渡され、偶然にも試作機はタキシング時の事故とそれに続く火災により全壊した。計画中止を受けて、残存していた機体も全てスクラップにするように当局から命令された。

B-35・B-49の両計画中止に関して陰謀だとする説(陰謀論)が長年に渡って唱えられている。陰謀だとする人は、ノースロップの社長であるジャック・ノースロップに対し、空軍長官スチュアート・シミントンが政府の影響下にあるコンベアとの合併を強要しようとした、と主張する。さらに、ノースロップが拒絶した際に、長官は計画中止の手配をしたという。1979年(1981年の死去の直前)、テレビ取材を受けたノースロップ自身がこうした告発をしたことによって、陰謀論は真実味を帯びた。さらに、1949年に開かれたコンベアの不正競争疑惑についての議会公聴会で、ノースロップは報復を恐れたためにシミントンをかばって虚偽の証言をしたともいう。一方のシミントンは、このような説は全く事実無根であると一貫して主張している。

こうした陰謀論に対して批判的な者は、多くの主要な問題を抱えていたことももちろん、YB-49にはB-36とは違い核兵器の運搬能力がなかったという点も計画中止に寄与したのだと指摘している。さらに、YB-49が中止されたのと同時期に、ノースロップが要撃機・F-89 スコーピオンを入札したことも陰謀論を否定するものだとしている。

全翼機の操縦は人間のみの力では難しく、コンピュータによる操縦のサポート(フライ・バイ・ワイヤ)を受けられなかった当時は、たとえ飛行特性が良好でも実用化は困難であったという見方もある。

ジャック・ノースロップの悲願とB-2
全翼機の実用化はジャック・ノースロップの悲願であり、YB-49の開発中止によって彼の悲願は打ち砕かれた。後にノースロップ社が全翼機B-2の開発中、当時最重要の軍事機密であったにもかかわらず、軍は特別の許可を出して、病床にあって余命いくばくも無いジャック・ノースロップに特製のB-2の模型をプレゼントし、実用機である同機のことを明かした。それを見た彼は「今こそ、神が25年の余生を与えたもうた理由が分かった」と涙を流したという。

試験飛行中のYB-49

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像を引用

YB-49後部

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像を引用

YRB-49A

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像を引用

※引用終わり

折角ですので、ノースロップ社のの創業者、ジャック・ノースロップ氏にも触れておきたい…

※Wikipediaより抜粋引用

ジャック・ノースロップ
ジョン・クヌーゼン・ノースロップ(John Knudsen “Jack” Northrop 、1895年11月10日 – 1981年2月18日)とは、アメリカ合衆国の航空技術者で航空実業者である。全翼機の開発に心血を注いでいた。生涯、3回航空機メーカーを起業したが、3度目に起こしたノースロップ(Northrop Corporation)が、1994年にグラマンと合併してノースロップ・グラマンとして現在でも盛業中である。

生涯
ノースロップが航空業界に入ったのは1916年で、ロッキードに就職した。1923年にダグラス・エアクラフトに移籍していたが、すぐに復帰し著名な女性飛行士アメリア・イアハートが女性初の大西洋単独横断飛行に成功した際に使用したロッキード ベガの設計に関わるなどの活躍をした。ロッキードから独立し1927年にノースロップエアクラフト(Northrop Aircraft Corporation)を創業したが、1929年にユナイテッドエアクラフト(United Aircraft and Transport Corporation)に吸収された。その後ジャック・ノースロップはドナルド・ダグラスと協同でノースロップ(Northrop Corporation)をカルフォルニアに設立した。1937年にダグラスと別れて、工場はダグラス(後マクドネル・ダグラス)の工場になった。1939年に再び設立されたノースロップ・コーポレーションが現在に続くノースロップとなった。

ノースロップが手がけた航空機として、航空機の翼そのものが胴体である全翼機の開発がある。第二次世界大戦中にレシプロ機YB-35、戦後ジェット化したYB-49など、通常の航空機のコンセプトとは異なる形状をしていた。いずれも有望な航空性能をうかがわせたが、操縦性が困難であるなどの諸般の理由により制式採用されることはなかった。この一連の出来事に対しノースロップは後年、空軍長官スチュアート・シミントンが自分の会社とコンベアとの合併を強要するために計画が中止され、さらに報復を恐れたためにシミントンをかばって連邦議会で虚偽の証言をしたという陰謀論を主張したが、実際のところ真相は明らかではない。

YB-49以降は航空機設計の第一線を退き、その後ノースロップの会社との関わりは希薄となった。個人資産を不動産投資の失敗で失い、1970年代後半には車椅子生活を余儀なくされた。

ジャック・ノースロップの悲願であった全翼機の実用化は、ノースロップ社のB-2爆撃機によってなされた。B-2の開発途上において、当時最重要の軍事機密であったにもかかわらず、軍からの特別許可を受け、ノースロップ社は病床にあって余命いくばくもないジャック・ノースロップに特製のB-2の模型をプレゼントした。それを見た彼は「今こそ、神が25年の余生を与えたもうた理由が分かった」と涙を流したという。その翌年、85歳で逝去した。

※引用終わり

いやあ~…全翼機の開発に情熱を注いだジャック・ノースロップ氏ですが…

YB-35もYB-49も…何れも計画中止を受けて、残存していた機体も全てスクラップにするように当局から命令されてしまい、彼の悲願は打ち砕かれた。…

ジャック・ノースロップ氏自身も…
YB-49以降は航空機設計の第一線を退き、その後ノースロップの会社との関わりは希薄となった。個人資産を不動産投資の失敗で失い、1970年代後半には車椅子生活を余儀なくされたと言う、不運に見舞われてしまい、なんとも可哀想な…

とは言え…神はジャック・ノースロップ氏を見捨てなかった!・・・

B-2 スピリットの正式採用!

※画像はWikipediaクリエイティブコモンズのパブリックドメイン画像を引用

ジャック・ノースロップの悲願であった全翼機の実用化は、ノースロップ社のB-2爆撃機によってなされた。B-2の開発途上において、当時最重要の軍事機密であったにもかかわらず、軍からの特別許可を受け、ノースロップ社は病床にあって余命いくばくもないジャック・ノースロップに特製のB-2の模型をプレゼントした。それを見た彼は「今こそ、神が25年の余生を与えたもうた理由が分かった」と涙を流したという。その翌年、85歳で逝去した。・・・(Wikipediaより引用)

まさに「 事実は小説より奇なり」

=============================================================================================

オマケ!

今日における、フライング・ウィング…B-2 スピリット
Posted at 2018/03/10 23:16:12 | コメント(1) | トラックバック(0) | 軍用機 | 趣味

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「そろそろ「錆取り列車」…もとい、「2024年初ブログ」を書かないと…と思っているうちに…アットマークに2024年度も始まり早2週間…😥」
何シテル?   04/13 17:30
ハンドルネームはTVドラマ『鉄道公安官』のオープニング&エンディング曲だった、 サーカスの『ホームタウン急行(Express)』が由来です。 旧ハンドルネー...
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