2012年12月14日
「MR2の系譜」 AW編 第02回 ~プロトタイプMR2 “730B”~
「常識では考えられないようなクルマが、トヨタにはあってもよいのではないか」
1979年、トヨタ自動車五代目社長である豊田英二は、製品企画室の主査たちを集めて、そう語った。
カリフォルニア・ロサンゼルスより帰国し、実験部出身でありながらも主査となっていた吉田明夫。吉田は、米国滞在の中で得たヒントを元に、ある一台のクルマを考案していた。
この時、吉田が企画した車のコンセプトは、成熟した自動車社会と、複数台保有時代ににおいて求められるセカンドカー。「ミッドシップが大前提」「複数台保有時代の自分専用車」「個性的で斬新なスタイル」「高性能志向で高い操縦安定性」、そして「乗る楽しみを与える車」であったという。
このような本格スポーツとはまた違う、こういった概念のクルマならば、米国で地場を固めたばかりのトヨタブランドでも、それなりに市場を得ることが可能である。一方で、日本ではまだセカンドカーの概念が浸透してないものの、沈滞気味の国内市場における刺激剤として最適であり、また、そのようなクルマとクルマ社会の“芽”を育ててゆく必要がある。そう吉田は考えたという。
既に開発コンセプトはもちろん、マーケティング面でのデータもまとめてあった。それらに加えて、スケッチや使用するコンポーネントを指定した仕様書を作成し、提出する。他の主査たちからも、各種の提案書が出されたが、それらはあくまで既存の車種のマイナーチェンジにおけるインパネやデザインの変更と言った程度のもので、全くの新車種の開発という形を提案したのは吉田の企画書のみだった。
「製品にならなくてもいいから、先行試作車を一台作らせて欲しい」。吉田の嘆願もあり、この企画は1980年1月25日、豊田章一郎副社長も同席した技術企画会議において承認され、開発コード730Bの名で、開発・製作が始まった。
だが、トヨタにおいて、ミッドシップカーを作る上で一つの問題が存在した。ポルシェ914やフィアットX1/9などは、エンジン横置タイプのFF車のコンポーネンツを流用することによって、比較的容易に、かつ安価にMR車を開発することを可能としたものであった。しかし、当時の国産車の主流はFRであり、そもそもFF車というものがほとんど存在せず、ミッドシップ車に流用できるエンジン・パワートレーンが存在しなかったのである。
……そんな中、この問題を解決する一つの事件が、トヨタ内部で起きていたのである。
~FF化の波と、4A-Gユニットの開発~
……西暦が1980年代に移る頃。日本車とトヨタは大きな転機を迎えようとしていた。
1970年代より、乗用車は駆動方式を従来のFRからFFへと移し、世界的にFF化の波が押し寄せていたのである。そんな時代、トヨタ自動車に揚妻文夫という人物がいた。5代目カローラ開発主査となった揚妻文夫技師。揚妻は、乗用車がFFとなることの必然性と必要性を痛いまでに感じていたのである。
しかしながら、当時の4代目のカローラはいまだにFR。そもそもトヨタにはエンジン横置き型のFF車という技術自体が存在せず、FRの機構を流用したエンジン縦置きのFF機構を持つ「ターセル/コルサ」しかFF車が存在しなかったのである。
「このままでは、いずれ世界に太刀打ち出来なくなる」
そう確信した揚妻は、5代目カローラのFF化をトヨタ上層部に提言する。しかし、トヨタ上層部は揚妻の提言を頑として撥ね退けたのである。反対した役員の中には、パブリカ・カローラ・セリカの生みの親であり、トヨタ自動車伝説の人物である長谷川龍雄専務の姿もあった。

※カローラ初のFFとなった5代目カローラ。それの1500ccモデル。
カローラFF化の為には、新規の技術開発はもちろんのことであるが、多くの生産設備の新設を行わなければならなかったのである。その額は、実に1200億円に上った。
揚妻が何度説得を試みても、上層部は首を縦に振らなかった。だが揚妻も自らの信念を譲らず、自らの独断でFFカローラの設計図を引くように指示を下した。
こうした揚妻の姿勢が上層部の反感を買い、揚妻をカローラ開発主査から降板させるという声まで降りて来た。思い余った揚妻は、副社長・豊田章一郎に直談判。FF化の必要性を訴える。その説明は実に3時間以上に渡ったと言うが、技術部門のトップであった豊田章一郎は揚妻の意見を熱心に聞き、揚妻への支援と協力を約束した。
揚妻の再度の説得もあり。やがてはトヨタ上層部も世界的なFF化の流れとFF車の重要性を把握・理解し。FFに反対するどころか、むしろFF化を推進するようにまでなっていったのである。
揚妻も、単にFF化を推進するだけでなく。5代目カローラにおいて、主力となるセダンとリフトバックタイプのみをFFとし、それ以外のクーペやワゴン・バンタイプは従来のFRとして残すことを提言。これによって従来の設備を流用することが可能となり、生産コストは700億円にまで削減することに成功したのである。
そして、トヨタ内部では新たなトヨタの主力となるFFの為のパワートレーンの研究と開発が進められることとなった。その過程で生みだされたFF向け直列4気筒エンジンの2リッターモデルは「3S」。1.6リッターモデルは「4A」と名付けられた。

※トヨタ・4A-GEUエンジン。横置きを前提に開発されたユニット。整備重量123kg。
……来たる1983年5月。かくして5代目カローラはトヨタ初の本格的FF乗用車として華々しくデビューする。その中でも、FR方式を残したカローラのスポーティモデルには、スポーツユニットである「4A-G」エンジンが搭載され、AE86の型式名が与えられることになる。
最大出力130ps/最大トルク15.2kg。当時の最新技術であるDOHC16バルブツインカムを採用し、軽量、コンパクトな設計ながらも、非常に俊敏な吹け上がりと厚いトルク、省燃費性をも併せ持つ4A-Gエンジン。かくして、730Bに使用されるエンジン・トランスミッションは、4A-Gユニットに決定したのである。
~先行試作車 730B~
730Bのエンジンは、まさに開発途中であった4A-Gの使用が大前提となった。後にAE82型と呼ばれることになる5代目カローラのエンジン・トランスミッションを流用すれば、MR車のパワートレーンが出来上がる。そして、続く課題はボディであった。
試作車のボディ製作は、まず実寸大のクレイモデルを製作し、それを100mm間隔で輪切り状にする形で採寸し、図面化する。それを元に、車体設計の技術者が部分ごとに製作していくというのが常であった。だが、これは非常に手間と時間がかかる方式であった為、吉田は設計部は一切介さず、製品企画室と現場の人間だけで、実寸大のクレイモデルから直接、鋼板製の試作車を製作することを思い立つ。
当時、トヨタの試作部には、技能オリンピックで金メダルを獲得するような鈑金職人が何人もいたと言う。

※2010年11月10日の中日新聞より。730Bのボディを手がけた藤川武男氏。(手ブレorz)
吉田は、現場を離れて班長職や管理職に就いていた彼らを泣き落とし、730Bのボディ試作を嘆願した。彼らは、クレイモデルから必要な寸法だけを測って、型板を製作。これを台にして、鋼板からボディパネルを叩き出してみせたという。

※730Bのボディ製作の過程を示した図
実際の工程は全て手作業。古くからの時代の鈑金作業の通り、ハンマーと当金を用いて、少しずつ冷間圧延鋼板を成型してゆく。当金の位置、ハンマーの角度と、力加減、間隔。そして溶接……あらゆる過程において、ほんのわずかなズレと狂いが、全てを台無しにしてしまう。全ては人間の経験と勘に依存する。そんな非常に高度な職人技によって、製作が進められた。
彼らは日曜日返上で作業を行い、たった一ヵ月半で試作車のボディが完成してしまったと言う。この時、730Bのボディを手がけた一人であり、国内外から「ゴッドハンド」と呼ばれた藤川武男は、その30年後の2010年11月、厚生労働省より「現代の名工」として表彰されることになる。
また、吉田には730Bにどうしても採用したいる技術があった。それは、デジタルメーターである。1980年、デジタルメーターは世界各国のコンセプトカーに搭載・発表されていたものの、いまだ市販に至った例はなかった。
1970年にはフランスのシトロエンが各ステイタスをデジタル風に表示するメーターを既にシトロエンGSに実装・販売を行ってはいたが、これはあくまでもアナログの指針を、数字が記された樹脂製のドラムに置き換えたボビン式と呼ばれるもので、これはデジタルではなく機械式の範疇を出るものではなかった。

※シトロエンGSのメーターパネル
市販車輌として世界初のデジタルメーター。吉田はMR2でこれを実現しようとしたのである。とは言えど、まだトヨタにもデジタルメーターにおける技術も研究も、全く存在していなかった。
吉田は、補器課へと度々足を運び、デジタルメーターを実現・開発できそうな人物の検索を開始。遂には、そんな人材を発見することに成功する。

※1980年8月。トヨタ・東富士テストコースで目撃された730B。ベストカーガイドによってスクープされた。
730Bの開発は、トヨタにとって数多くの「初」となる技術・開発・方法論となる事項ばかりであった。だが吉田は、社内の隠れた有能な人材を次々に見つけ出し、これらを具現化してみせる。こうして730Bの開発は進められていった。
~730Bの完成、そして879Bへ~
吉田と、多くの技術者たちの尽力によって730Bは遂に完成する。

※トヨタ博物館所蔵の730B。海外ではSA-Xの名で知られている。
730Bには二つのバージョンが存在し、一台目は1980年に、二台目は1981年に製作されたという。ここでは仮に1980年モデルを730B前期型、1981年モデル730B後期型と呼ぶが、前期型にはキャブレター仕様の4Aエンジン(詳細不明)が、後期型には電子式燃料噴射装置・インジェクター仕様の4A-Gが搭載されていたとされる。なお、初期の4Aエンジン搭載市販車種には、キャブレター仕様は存在せず、キャブ仕様はAE95型の4A-Fを待つことになる。
もちろん730Bには、吉田がMR2の目玉としたデジタルメーターも実装される。

※730Bのメーターパネル類。
730Bは、あくまで先行試作車輌でありながらも、ラジオやエアコンまでもが装備されていた。また、一説では、リアに設置されたビデオカメラによって、CRTカラーモニターにバックビューを表示させることが出来たともいう。(※写真では確認できないが)
全長:3,835mm
全幅:1,620mm
全高:1,175mm
ホイールベース:2,320mm
フロントタイヤ:165/70R13
リアタイヤ:185/70R13
ホイールベースこそ市販型のAW型MR2と同じであるものの、全高は75mmも低く、リアもトランク・エンジンフード・ガラスが一体型となったハッチバックスタイル。エンジンも市販型に比べて、さらに前方のミッドシップにレイアウトされており、そして何よりも特筆すべきはその重量で、市販型のMR2に比べて百数十kgも軽量であったと言う(単純計算で820kg程度)。
その運動性能は非常に軽快で、市販型よりも、もっともっとハードなスポーツカーとして製作されており、そのまま市販化されていれば、素晴らしいスポーツカーになったかもしれないという。
……そして1981年8月。730Bを受けて、量産と市販を前提とした試作車の開発が承認されることとなり、生産がセントラル自動車で行われることも、この時点で決定された。る。この頃、「トヨタが日本初のミッドシップスポーツカーを極秘に開発している」というのは公然の秘密となってしまっており、730Bのコードネームは、数多くのメディアによってスクープされてしまっていた。それらの状況を鑑みて、次の試作車のコードは、敢えて覚えにくいような879Bという数字となった。
ただ、730Bはあくまでも上層部に開発の承認を得るためのプロトタイプ、コンセプトカー的な存在として作られており、実際の量産・市販を前提とした車輌とは、全く別の存在であったと言う。その為、879Bにおいては、数多くの点が変更されることとなった。
例えばバッテリー。730Bではフロントトランクに設置されていたバッテリーは、市販型では後部エンジンルーム内に設置されることとなった。燃料タンクについても、エンジンコンパートメント内に設置されていたものが、キャビンのセンタートンネル内に設置される。
また、ハッチバックスタイルのボディも、熱と音の問題のため、バットレスタイプに変更される。これについて吉田は、「最後までハッチバックスタイルで通したかった」と語る。
さらに、吉田が力を入れたデジタルメーターもコストの問題で879Bでは廃案となってしまった。だが、この時に開発されたデジタルメーターの技術は他車種に受け継がれ、Z20型ソアラにおいて、日本初のデジタルメーターとして市販されることとなり、他にもA60型セリカXXや、AE86型スプリンタートレノ/カローラレビンにおいても実装されることとなった。
(第3回へ)
参考文献:
省略します。第一回を参照のこと。
参考サイト:
・High-Geared Hobby's Works様
関連項目:
・「MR2の系譜」 AW編 第01回 ~主査・吉田明夫~
・フォトギャラリー 2011/02/09 トヨタ博物館収蔵 プロトタイプMR2 “SA-X” partⅠ
・フォトギャラリー 2011/02/09 トヨタ博物館収蔵 プロトタイプMR2 “SA-X” partⅡ
・フォトギャラリー 2011/02/09 トヨタ博物館収蔵 プロトタイプMR2 “SA-X” partⅢ
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MR2の系譜 AW編 | 日記
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2012/12/14 11:25:37
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