「敵機直上ッ、急降下」
見張員が脳天を叩き割るような声で叫んだ。
(中略)
ドスーンと鈍い同様が感じられ、つづいて艦がぶるぶると妙な振動をした。
(中略)
飛行甲板の前方で、一機の零戦が逆立ちになって燃えていた。
(中略)
たちまち一機が火達磨となった。突如パッと閃光が走った瞬間、轟然たる大音響とともに、そばにいた整備員のからだが砕け散った・・
(中略)
赤城の格納庫はたちまち地獄の業火と化していた。
※軍艦物語(光人社文庫)より抜粋
最新鋭、といっても70年近く前、太平洋戦争中のお話。
昭和17年6月11日、舞鶴海軍工廠で一隻の駆逐艦が竣工した。
前後二基ずつ配置された主砲、主力艦にしか搭載されない21号電探・・
「秋月」とネーミングされたこのフネゎ、
それまでの艦隊型駆逐艦とゎ明らかに様相を異にしていた。
重雷装を武器に、艦隊型駆逐艦の傑作といわれた陽炎型を凌ぐ3470屯という威容は、
軽巡洋艦夕張の3500屯に匹敵するものであった。
反面、駆逐艦の最大の打撃力とされる雷装についてはまったく控えめ(貧弱で)で、
92式61㌢4型4連装一基のみで、日本海軍珠玉の秘密兵器、
「次発装填装置」さえ装備されていない(時期があった)。
駆逐艦らしからぬ歪(いびつ)な装備・・何故か。
それはこのフネが、従来型の駆逐艦とは運用方法及び設計思想が決定的に違っていたからだ。
主力艦の比率が米英に比べて劣勢な日本海軍ゎ、
不足を補うために、航空兵力の増強に力を入れざるを得なかった。
まだ、航空母艦の集団運用による機動作戦という概念がなかった頃の話である。
しかし世界に先駆けてこの事に着手した日本海軍ゎ、
航空母艦と一緒に行動できる速力及び航続距離を持ち、
また母艦を敵の航空機から守ることの出来る、小型の防空軍艦の必要性を感じていた。
艦隊決戦用として設計された従来型の日本海軍駆逐艦ゎ、
砲撃及び水雷戦を得意としており、その兵装は対空射撃には全くといっていいほど向いてなかった。
現在で言うイージス艦の発想の原点が、
既にこの時代に模索されていた事、当時の日本海軍の先進性には驚きを禁じえない。
その発想を実現可能なものにしたのゎ、新開発の次世代高角砲の開発である。
98式65口径10㌢高角砲。
最大仰角90°、到達高度13000㍍以上と、
従来日本海軍が正式採用していた、89式40口径12.7㌢高角砲に比べて、
射程距離及び発射速度に優れ、効果的な対空弾幕の形成が可能だった。
しかし大蔵省による承認、予算決定に手間取り、
大艦巨砲主義の色合を今尚濃く残す海軍の体質もあって、建造時期は大幅に遅れてしまった。
駆逐艦秋月の対米メジャーデビューゎ、運命のミッドウェイから遅れる事約3ヵ月
戦局に暗雲漂い始めた昭和17年9月27日。
ガダルカナル島支援の輸送作戦任務についた、
外南洋部隊第3水雷戦隊に編入された秋月ゎ、ショートランド泊地に進出した。
折悪しく、この日B-17の空襲を受けることとなった。
この時、高高度に飛来した敵編隊の内の一機を初弾で撃墜するといぅ離れ業をやってのけ、
米軍の度肝を抜いた。
これゎ、彼らにとって、大型4発重爆撃機が水上艦艇によって撃墜された不名誉且つ、最初の出来事となった。、
この時、触接した哨戒機の撮った写真を綿密に分析した米軍ゎ、
「極めて強力な新型駆逐艦」という評価と共に、「みだりに近づくな」と、軍艦として、最高の「栄誉」と「評価」を授けている。
良くいわれる歴史のイフ、ミッドウェー海戦における「運命の五分間」
この月型駆逐艦が竣工し、配備されていたなら、
虎の子の空母四隻同時喪失といぅ痛手は、あるぃは避けられていたかも知れない。
Posted at 2010/08/13 12:26:04 | |
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