2011年03月20日
まず、3月11日に発生した東日本での震災にて被災された方々に心よりお見舞いを申しあげます。
個人的にも激動の3月でした。一学生としてひと段落しましたのでまとめて報告します。
3月4日 朝方、母が倒れました。
病名 くも膜下出血 (脳動脈瘤破裂)
初め、母は偏頭痛もちでしたのでそれのひどいものだとばかり思っていましたが、昼頃に判明し、緊急手術からの緊急入院。
幸い、手術もうまくいったようで翌日からは意識が朦朧とした中ですが話ができました。
3月10日 卒業論文提出
一年間の成果をまとめ上げた論文を提出しました。
題目は「ER流体を用いた携帯型点字システムにおけるER流体の詰まりに関する検討」
母も見る見るうちに回復し、普通に話ができるような状態になっていました。
3月11日 東日本大震災
卒論がひと段落し、今日一日はゆっくり過ごそうと思っていました。
私物を取りに研究室に向かおうとしたその時、それは発生しました。
強くて長い地震で、初めて屋外退避をしました。
米沢は震度5強でしたが、家はそれほど被害もなく、水槽の水がこぼれた程度で済みました。
停電も断水もなく、ただインターネットにつなげないというだけでしたので、ただ単に「大きな地震」くらいの意識しかありませんでした。
結局研究室には行けずじまい。本来なら18時から研究室の離散会があったはずなのですが中止。
TVでは津波による被害が甚大と。
仙台にいる友人知人、大船渡にいる友人の安否が心配で、携帯のネットで安否を確認するも連絡取れず。
その夜は母のお見舞いに行って、無事を確認し、取りあえずR2に給油だけして寝ました。
その後3日間くらいは、原発について調べたり、緊急時の対処法を調べたりしました。
「買占め」によるものなのか、物流の麻痺によるものなのか、現実を知りました。たまごも納豆もガソリンもなくて困りました。
被害が軽微だったので、普段の生活と変わらないんです。だけど、物がない。
車にガソリンはあったものの、いつ入るかわからない不安でいっぱいでした。
3月15日
友人や知人全員の無事が確認できました。本当にホッとしました。
食材は品薄ながら普通に暮らす分には問題ないくらいはそろいます。ただ、まだGSには長い行列。
GSの友人も愚痴をこぼしていました。
また、卒業式中止のお知らせが届きました。仕方がないことだとは思います。だけど、むなしい感じがしました。
3月18日
母の術後の観察、対処をするためにつけていた脳槽ドレンが外されました。心配していた脳血管攣縮もなく、後遺症も残らいないだろうという判断でした。安心しました。早ければあと一週間くらいで退院できるそうです。本人も自分から起き上がって食事もできますし、車いすを使ってトイレにも行けてます。
3月19日
学位記をいただきました。人より1年多い5年間の集大成。学生支援の事務室で学位記を読み上げるだけの簡単な授与式。それでも、感動しました。長いようで短いようで、たくさんのことがあった大学生活も終わりです。なんか、言葉にしがたいですね。
これからのこと
社会人としての生活が始まります。その前に研究室の片づけ。
太平洋側のみなさんのことも、よくいっていただけに心配でなりません。
ただ、この地震があって、日本は大きな進展をすると予感しています。
こんな時だからこそ、情報に左右されずに全力で生きるべきなんだと思います。
私も、新社会人として生産活動に従事することで被災地の復興を支援していきたいです。
、
Posted at 2011/03/20 01:25:14 | |
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2011年03月12日
自分は無事です。家の被害も水槽の水が少しこぼれただけで済みました。
米沢は停電もなく、比較的落ち着いてるんじゃないかなぁ。ネットも朝起きたら復旧していました。
Posted at 2011/03/12 08:34:51 | |
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