
まず始めに先日のオフ会終了報告ブログでも書きましたが、私が企画したオフ会で一部の方に多大なご迷惑お掛けしてしまいまた残念な結果にもなり申し訳ありませんでした。
長文でショ~もない話になるかもですが私のこともっと知って頂くためにも最後までお付き合いくださいませ。
ちょっと重い部分や引いちゃう部分もあるかもですが・・・^^;
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それは昔むかし、その昔~のお話。。。
今はじぃちゃんとなったTAMが若かりし頃の話、幼少時代まで遡ります。
1960年代前半生まれの私は物心ついた頃からミニカーで良く遊んでました。(
この方の甥っ子ちゃんみたいな感じかな?)
ミニカーと言っても今はメジャーな
トミカが世の中に誕生したのが1970年ですから当時は
「マッチボックス」と言うモノでした。
そんなちっちゃな頃からクルマに興味あったんですね~。
小学校時代から読んでいた少年ジャンプには過去にスーパーカーブームを生んだ池澤さとし先生の「サーキットの狼」、少年チャンピオンでは「750ライダー」読んでたり「よろしくメカドック」←コレはだいぶ後かな?とかも好きで読んでたな~
中学生となったTAMは
フラッシャー付きの自転車で通学開始。
弄りもこの頃からでしょうか。




(↑↑↑全部2ch拾い画なのであしからず^^;)まぁココまで激しく弄ったのはまずナイけど丁度映画で菅原文太のトラック野郎流行ってた頃なのでラッパやら電装系チューンが友達の間で流行ってました。
でもこの中学時代、私にとって
人生1番目となる最悪の事態がwww
ウチのばぁちゃんと母ちゃんが中1ん時たった2ヶ月の間に2人続けて癌で逝っちゃうという信じられない出来事がありました。ばぁちゃんの方は以前から胃が悪くちょっと前から何となく判ってましたが母はばぁちゃんの葬式終わったとたんに調子を壊し入院したら既に転移していて完全に手遅れ。ばぁちゃんの事もあって相当我慢してたのだと思います。私にとってとても優しい最愛の母ちゃんがこんなにも早く逝ってしまうとは・・・43歳の若さでした。
その頃仕事が合理化でリストラ食らった父ちゃんは単身赴任になって月に一度ほどしか帰って来なくなるし、この頃は年8つ離れた姉ぇちゃんと二人暮らし。
そんな姉ちゃんも私が高校に入ると結婚し、ついに一人暮らしとなってしまいました。
高校に入ると自由気ままにツレとやりたい放題!!!


バイクやらライブやら酒、タバコ・・・寂しかったんでしょうね、いつも仲間と一緒にいる事が楽しくて夜通し遊んでました。。。
あ、ちゃんと部活にも入ってたんですよ。工業高校なので自動車部ってのがあったんで(笑
こんなTAMでしたがなんとか無事に3年間で卒後し、、、
免許も取り~ので最初に買ったクルマがS48年式のダルマのセリカGTV!

でもこのクルマ、1年と持たずお山で撃沈。ご臨終(TωT)/~~~
2台目は友人からS48年式三菱ギャランFTO 1600GSRを購入

内装はフルバケ、4点式ロールバー、4点式ベルト。LSD、強化サスなども入ってた。
でもこのクルマで
人生2番目の大ゴトが、、、
まだ若干20才ソコソコでいきがってた私にはまだこのクルマを乗りこなす技能を持ち合わせて無かったんでしょうね。
それはある日のこと。
夜、私は小学校の頃から大の親友だったツレ助手席に乗せてドライブしてました。
ツレ: 行けいけ~
TAM: お~ブッチギリ行っちゃるで~
ツレ: でもそんなシートベルトしとって窮屈じゃね?カッコだけじゃん。
*当時シートベルト着用義務など無い時代でしたので
TAM: それもそうじゃの~
と言ってベルト外してしばらくするととあるコーナーに差し掛かり、そこも調子こいてオーバースピードで侵入~
思わず変なタイミングでブレーキ踏んでしまい車は完全にコントロール不能な状態に・・・2回程スピンするほんの少しの時間はスローモーションのような感覚で右に突っ込んだら5m以上落ちて川、左は崖???
で、詳しく判らんけど結局運転席側斜め前?からズゴーンと崖に激突www
瞬間シートベルトしてなかった私はフロントガラスと一緒に宙を飛んでました。
でも相当運が良かったのか母の助けがあったのか?落ちた先が土の上。
何とか生きとる! でも何かすげー痛いぞ。。。Fガラスと一緒に左腕から落下したので肩の骨が外れ腕が変な方向にむいてるわガラスの破片であちこち切れてるわ破片は突き刺さってるわ。。。でも心配なのは同乗してたツレ。何とかはい上がって車にたどり着き車内を覗くとツレも意識はしっかりしてました。
TAM: おい、大丈夫か?ごめん、エラいことしてしもーた。
ツレ: お前こそ血まみれじゃん。絶対死ぬなよ。
二人とも泣きじゃくってた所に後続車が呼んでくれた救急車が来て助かったのですがツレも顎の骨と前歯3本折ったりで2ヶ月の重症。
後で聞いた話、車周辺は血の海、車は運転席側がグシャでハンドルも折れてたので絶対死亡事故だったと思われてたらしい。あの時もしツレがシートベルトの事言わずにそのまま着けてたら車内に残されて・・・それにロールバーが無かったら…と思うとゾっとします。
こんなこと起こしてしまった訳ですからツレの親も相当私が友達だったこと相当怨んだことでしょう。
ま、悪友ですから私が誘うからこの子は、って思うのフツーですよね。
でもそのツレとは切っても切れないクサレ縁ですからそれから30年近く経った今もずーーっとマブダチで盆と正月には毎年会って麻雀してます。いつも負けてばかりですが・・・^^
そのツレの親も何年か前に亡くなりましたがずっと友達でいることが償いになると信じてます。
それ以降は走りにこだわる事を止め、


こんなんや・・・ こんなんにも乗り・・・
24才でできちゃった婚してからはお金もないしKの初期型トゥディ ド・ノーマル仕様に乗り出しました。
子供も出来たその頃から車からはちょっとずつ遠ざかり、他に好きだった釣りを始めました。
釣りと言えば大自然の中でのんびりとってイメージ有りますが釣りも釣れなきゃ面白くないので静より動の釣り。特に川釣りが中心でこちらもどんどんハマっていき、競技会とかに参加するようになり気がつきゃクルマも四駆のスズキエスクード買ってたり高っかい鮎竿買ったり鮎釣り選手権とか渓流釣りとかで岐阜の長良川までも行ったりしてました。
この釣りで色んな事を学びました。
自然の偉大さも怖さも。少しでも多く釣る為には如何にして自然を味方にするか。
例えば雨が降れば雨を味方に、風が吹けば風を味方に、要は如何にマイナスをプラスにするかって感じで。
あ、ちょっと難しい話になるんでここらで… ^^;
四駆で河原や山奥の道走るのも楽しかったなぁ~
30代になると腰椎椎間板ヘルニアになって摘出手術したり母ちゃん死んでから糖尿とアルコール依存症となってたオヤジが腎臓悪くして逝っちゃったりとまたもや荒波が・・・これも大ゴトだったのですが更に40歳も少し過ぎもう一回ヘルニアなって入院、腰椎ブロック注射でなんとか治癒した頃である日のこと。。。
仕事していた時急に胸が苦しくなり立っても居られなくなり一時倒れ込むんですが20分ほど休めば何も無かったかのような状態になりました。
一応病院にも行ったのですが何も異常は見つかりません。
でも何故か同じ症状が2~3ヶ月に一回ほど起こるようになり何度か県北の大きな病院で検査もしたけど逆流性食道炎が起こってるって事で薬飲んでたけど酷くなるばかり。
少し歩くだけでも息切れ、目眩がし、会社も行けれない状態が続きました。いよいよ苦しさの我慢も限界となり何日も寝れない日が続きました。
友達に心配掛けたく無かったから誰にも言ってなかったけど昔の友達に消防署で救急隊員してる人いたから相談してみた。
帰ってきた回答は 「県北に大きな病院あっても専門的には良いトコ一つも無いからね。県南の大学病院とかに総合診療内科ってのがあるから行ってみたら」ということでしたので今までの経緯や岡山大学病院に行ってみました。
初診ではやはり問題見つからず、次の週に診察受けたところ、ちょっと貧血の数値が下がっているのが気になるのでその原因を探す為にも検査入院してみますか?と言われたのですがベット一杯で空くまで数日掛かるとのこと。仕方ないなと思って帰ってたらなんとその日のうちに病院から電話がありました。「明日朝すぐ入院の用意して来てください。身内の方もご一緒に」…と。
奥さんは外せない仕事があったのでその日は私の姉と一緒に行きました。
何か変な予感が???と思っていたのですが予感は的中。
「白血病の疑い」との事でした。
あまりのショックで何も考えれませんでした。
入院したのは他の病院でしたが精密検査の結果「成人急性リンパ性白血病」との事。
最近では朝のテレビでおなじみだった大塚さんが掛かったものと同じでした。
急性リンパ性は子供に多い白血病ですが成人で発生するのは50歳以上で一年間に10万人に1人の確立。その中でも特に厄介なフィラデルフィア何とかかんとかってヤツでした。これは自分の病気の事もっと知るために色んな文献をかき集めて調べたのですがフツーの化学療法(抗がん剤治療)だけでは極めて予後が不良、移植を行なっても治癒させるのは困難とのことでした。
今まで書いてきたようにずっと波乱万丈の人生だったけど何度も波を乗り越えてきた私ですが今回ばかりは死を覚悟してました。
でもたまたまかも知れませんが同じ血液の病気で入院されてる方にはとても明るい方が多く自分を勇気づけてくれました。
で、入院してからは死との戦いが???
抗がん剤も色んな種類のヤツを3クール行い、その度に吐き気、味覚障害、口内炎に悩まされ、髪の毛どころか全身の毛という毛はほとんど抜けて無くなりました。
白血病は血液の癌。血液中の白血球はケガを治したり体に侵入した悪い細菌などを殺菌したりする作用があります。この血液細胞がガン化するのですから免疫が無くなり、普通に暮らしている空気吸ってるだけで肺炎になったりします。
その為にも特別な無菌室って病室で暮らすのですがそれでもどこからか菌が入って肺炎になることもしばしば。周りには肺炎が悪化して亡くなる方もいたり、、、
先程書いたようにこの抗がん剤だけでは治らないということで臨床試験で新薬投入とかもしたのですが助かる方法は骨随移植をすることが第一条件と言うことでした。
輸血には必要な赤血球はA,B,O,AB型、Rh型が合えば良いのですが骨随移植するには白血球の型HLAというのがあってこのうち6つの型が一致する必要があります。
一致する確立は血のつながった兄弟で25%、両親や親戚で1%以下。その中に居なければ骨随バンクなどに登録されている何十万人の中から探す必要があります。
私には2人の姉がいるのですがたまたまその内1人の姉とHLAが合致し、移植する事が出来ました。
移植時には放射線照射やらほぼ致死量にあたる大量の抗がん剤投与とかでほんま生きた心地しなかった。
姉とは血液型も一緒だったので血液型が変わることもなく、相性もぴったりだったのか抗がん剤や放射線照射の副作用、合併症も最小限で治まることができました。
皆さん見ての通り今ではほとんどナニも問題なく普通の生活が送れていますのでご心配なく。
入院してる時から「幸せと不幸せ」って何なんだろ?って思って考えてみました。
その時はすぐに答えが見つからなかったのですが良くなってみてつくづく感じたのは「普通」の素晴らしさでした。
普通に歩くことが出来る。
普通に美味しいモノが食べれる。
普通にみんなと楽しく話が出来る。普通に・・・
私なりの答えは「この世に生まれたこと」が幸せで「死」が不幸せ。でした。
で、更に妄想を膨らませてくと生命というものは微生物、細菌、細胞から植物、動物、果ては地球、太陽系、宇宙全てのモノが生命体でどこかで生まれ、どこかで死んでいくのが事実です。
こうやって色々と宇宙のコトまで考えてたら人間なんてほんとちっぽけなものなんだなぁって思いました。
100歳まで生きれるとしても宇宙から見たらカスみたいなもんじゃしね。
死ぬまでに思いっきり楽しんで悔いは残さないようにしたいものです。
でも楽しむ為には家族も仕事も友達も全部楽しまなきゃ、そのためには自分が精一杯努力しなきゃ、後ろに向いちゃダメなんです。しっかり前むいていったらマイナスもプラスに変えることが出来るんですから。
でで、長々と私のくだらない人生を語ってきましたがここからやっとたどり着いた本題の件、、、フゥ~
なんでコペンを買ったかって?
そりゃもう二度と無い人生を楽しく明るく生きるためってだけでしょう。
オープンで自然と一体感を味わえるだけでなく、走っても絶対楽しそうだし何とも可愛いい姿だし。足腰弱くなってて釣りももうできんしな~。子供ももうすぐ巣立つしなぁ~。
って感じで購入したのが5年前。
始めは一人でフツーに乗ってたんだけど勇気を振り絞っておはきびに初参戦したのがたまたまpapa-tanshinさんやQ6さん来岡して幸兎さん率いる30台カルガモの時。めちゃくちゃ衝撃的でした。
今までコペンって弄っても楽しいし見ても楽しい、走っても楽しいってトコまでは判ってたけど同じ仲間と集まりゃこりゃもう楽しさは何十倍にもなるからね。ハマるわ。
みんなの楽しい笑顔を見ることでいつも元気をもらうし元気な人は応援したい、そんな元気な人に自分もなりたいっていう気持ちも湧いてきます。なのでもっともっとあっちこっちに行ってみたい。みんなの元気をもらいたいと思っています。
なので皆さん明るくて楽しい場を大切にしてみんなで盛り上げていきましょ~!!!
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訳わからんようなブログになりましたが最後まで読んでいただいた方、ありがとうございます。
今年は春に東日本大震災が発生しその直後にも関わらず行動を起こしたのもこのような想いがあったからなんです。
これからも「今」を大切に生きていきたいと思っています。
こんなしょうもないTAMですが理解して頂ける方、また遊んでやって下さいませ。
でわ!