昨晩LINEで、カメラマンをしている
義妹と来月県立美術館で
ドワノーの写真展があるぞというところから写真の話になり、毎年応募している営業写真コンテスト(人物限定)ににゅうしょうできひんのはなぜか~?ライティングやら加工技術の差やわーとのたまうので、俺はそれは違うと言ってやった。
若いころプロと組んで仕事をしてたので一応の写真の心得はある(つもり)ものとして、写真というコミュニケーションの特異性を考えてみたら、と言った。
あたりまえだけど、写真には「撮る側」と「とられる側」が存在するところからスタートするわけで、隠し撮りじゃない限り、撮られる側は撮る側が自分にフォーカスしていることを暗黙の上でもそうじゃなくても了知している。
つまり、撮られるために「構えている」状況下におくわけです。
さらにその上スタジオ撮影で「はいとりますよ」なんて状況で、「自然体な写真」が撮れるか?
絶対撮れるわけないやん~。キメ顔しちゃうっしょ!というか、構えるでしょ普通。
サシで対面して自然な写真てどんだけ難易度高いと思うてんの?
眼で見て頭で描いてる像はそのまま写真にはならない。
眼で見る相手はファインダーを通す限り被写体になる。被写体は被写体になった瞬間から
それこそカメラの眼を通して「撮られる自分」を意識する。
静物写真や風景写真はその点自分の好きなようにできる。
人物写真は、その点は相手にゆだねられている。
話は飛ぶけど、物語のクライマックスはクライマックス以前、クライマックス以後があって初めて事後的にクライマックスだった、と認識されるものであって(内田樹がそう言うてる)、ブレッソンの決定的瞬間というのも、事後的に決定的瞬間(というタイトル)になった。
何がいいたいかというと、写真にも撮影前(のコミュニケーション)と撮影中(のコミュニケーション)との関係性が事後的産物としての写真になるわけで、もうそなってくると写真の技術云々ではない。
僕の好きな写真家に牛腸英雄という人がいてるのだけど、確か10年くらい前何かの機会で彼が子供を写した写真をみることがあり、ハートを打ち抜かれました。
彼の写真集「SELF AND OTHERS」は僕の宝物のひとつですが、ぶっちゃけ何のテクニックも感じられない、普通のスナップ写真ばっかり。インパクトゼロ。
でも、俺はこんな写真撮れないよなーと思う。
写真はげいじつだから絶対的評価であるべきだと思う。コンテストとかもいいけど、相対的評価じゃん、あんなの。
そんなことより、撮った人から「いい写真撮ってくれてありがとう」といわれるほうが何倍も価値があるともう。
長いブログついで、もうひとつ。
グラビアカメラマンとグラビアアイドルの撮影、に参加したい(笑)のではなく、あれこそは参考にすべき理想的撮影手法だなあと思う。海パンカメラマンの人もそうだし。
あれはエッチみたいなもんだと誰かが言ってた気がするけど、写真撮影というよりなんやかや絡んでたらいつのまにか写真撮られてました、というまさに事後的副産物。
もちろん撮られるアイドルも被写体としての「撮られよう」をわかってるとは思うけど、カメラを意識させない撮影はプロの仕事というしかない。
それはつまり、撮影前、中のコミュニケーションの濃度なんだな、きっと。
最近は露出失敗しても補正が利くし、お肌だって美白にもできる。
でも事後的なものなので自然な写真ではない。
僕はあんまり写真のうまい下手をいうのは好きじゃない。
機材でも、アングルでも、技術的なものでも当然差は出るし、見栄えのいい写真は今日日誰でも
撮れる。
でもそんなのおもしろくないので、僕は撮りたいものを撮りたいようにしか撮りません。
だから面白い写真の撮れるRICOH GR DIGITAL以外のカメラは使いません。
コンテストとかも興味ないし、なんせ人には見せられない写真が盛りだくさん(笑←盗撮ではないので、念のため)
ちなみに、ブレッソンはこんなことを言ってます。
『ひとの写真を撮るのは恐ろしいことでもある。なにかしらの形で相手を侵害することになる。だから心遣いを欠いては、粗野なものになりかねない。』 wikipediaより。
木村伊兵衛や森山大道、そして牛腸英雄の写真集あたりを観察してみたらヒント得られるんじゃないでしょうか。
カメラ素人が偉そうなこといいました。大甘でみてやってくださいませ。
Posted at 2012/06/28 00:40:21 | |
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