
特に橋下氏を推しているわけではありませんが・・・少々気になったことを考察
---------------記事引用--------------
橋下市長、労組に闘争宣言「政治的発言許さぬ」
原稿に目を落とすことが多かった橋下徹・大阪市長が顔を上げて訴えたのは、
職員労働組合との「闘争宣言」だった。
橋下市長が就任後初の施政方針演説に臨んだ28日の市議会。
橋下市長は演説で
「大阪にふさわしい自治の仕組みをつくる」
「成長は広域行政、安心は基礎行政」
と大阪都構想を語った後、
「組合が、公の施設で政治的な発言を一言でもするようなことがあれば、断じて許さない」
と職員組合批判を繰り出した。
問題にしたのは、大阪交通労組(大交)など労組による市庁舎内の政治活動。
市長選で争った前市長の推薦者カードを、勤務時間に配布したなどとされる。
橋下市長は、労組側がこの問題で謝罪文を提出しようとしたことを明かし、
「組合は謝罪文1枚で済まそうとした。市民感覚とかけ離れている」とかみついた。
その後も「ギリシャを見てください。公務員の組合をのさばらしておくと国が破綻する」
と敵視する発言を繰り返し、最後は
「市役所の組合を改善することで、全国の公務員組合を改めることしか、日本再生の道はない」
と言い切った。
労組批判は用意した原稿にはなく、すべてアドリブで、約5分間に及んだ。
さらに、演説後の市の幹部会議でも批判は続き、橋下市長は「組合の言うことを聞かないと
人事で冷遇される、という手紙やメールが中堅、若手職員から来ている」と言い放った。
市の労組出身の民主系市議は苦々しい思いで演説を聴き、「組合を当面の敵役にして、
市民受けを狙ったんだろう」と漏らした。
(2011年12月29日11時59分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20111229-OYT1T00332.htm
----------------記事引用ここまで-------------
日本の労働組合はほとんどが企業別組合になっています。
世界的には産業別・地域別・職種別組合が見られますが、企業別組合は極めて少ない。
それではなぜに日本では職種別組合に特化しているのかといいますと、
それは「企業は誰のものか」ということに行きつきます。
日本では企業は例えば経営者のものであったり従業員のものであるという回答に対して
我々日本人は違和感を覚えないでしょう。
しかし、本来(というか日本以外では)企業は株主(出資者)のものです。
資本と経営は分離されているのです。
ただし、出資者自ら経営者である場合は少なくないので、その場合は株主が経営者と重なる
ということになります。
しかし、この場合であっても、その者の意識では「出資しているから自分のもの」であって
「経営しているから自分のもの」ではありません。
まして。そこで働いているから自分の(自分達の)ものなどとは到底考えません。
それが世界標準というか近代資本主義の標準。
企業とは出資者がカネ・トチを経営者に託して、ヒトを雇わせ、産業を興して合理的に
経営させて、利益を生み出させて、出資者に還元させ、(できれば)さらにあたらな出資へ
と連綿と連らなるようにするものです。従って出資者が企業の持ち主。所有者。
だから例えば出資者が「もう辞めた」という気になったら経営者だって従業員だって
束にになっても逆らえない。処分の権限は出資者にあります。これが近代資本主義で
最も大事な「所有の絶対」。
ところが、日本では「そこで働いているから自分の(自分達の)もの」と考える
人が大多数です。強くあるいはなんとなくそう考えています。所有の絶対という意識は希薄です。
だから成果(利益)の配分についても株式配当が多いとブーブー文句を言いたがる。
利益だって自分たちのものだと思っているからです。
配当が多いということが本来の近代資本主義の企業におけるプライオリティであるとは
考えませんw
で、世界的なものと日本的なものとでどちらが良いかという評価は敢えてしません。
皆さんのお好きなほうが良いほうなのでしょうw
さて、それでは「企業は自分達従業員のもの」と考えるのは何故かというと、どうやら
日本人が会社勤めをする所謂サラリーマンであるときの「帰属」意識の表れのようです。
教育熱心な母親が子供を激励するときになんて言いますかってえと、大抵
「勉強して、いい学校行って、『いい会社に入りなさい』」ですw
このとき決して「いい学校行って、『いい職種に就きなさい』」とは言いませんw
つまりどの会社に勤めるかに最大の価値があるのであって、そこに入りさえすれば
何の業務に就こうと知ったことではない・・・と。
また一般の日本人に「ご職業は?」と訊いたときの返事は例えば「会社員です」「公務員です」「自営業です」
であって、「事務職」ですとか「SEです」とか「清掃員です」とかと自ら答える者は極めて少ないでしょう。
で、会社員であった場合、次に訊かれるとしたら「どんな職種ですか」と訊かれることはまずありません。
「どこ(の会社)にお勤めですか」と訊かれます。
それを当然としているのが日本人です。
で、そういう帰属意識に囚われるのはなぜかといえば、
それが日本人サラリーマンのアイデンティティ だからです。
自分は誰か、何者であるかを表現するときに「どこ(の会社)に所属しているか」という
ことが決め手であり、あるいは全てであるのですね。
・・・これを踏まえて元の記事に戻ります。
あれ?公務員は会社勤めのサラリーマンではないぞとお思いの方、その通りですが甘いw
特に中央官庁の役人に見られるのですが、自分の居る省庁を会社でもないのに「我が社」と呼ぶ。
中央に限らず地方公務員も、企業人よりもずっと自分の所属にアイデンティティを強く感じるものです。
ですから「よそ者」である新市長を排除しようとする。
本来は
出資者=納税者
市長 =納税者に経営を付託された経営者
役人 =ただの従業員
です。お役所だって企業の構図と同じです。
しかし、大阪市職員は出資者の「所有権」を無視して、あたかも自分達が所有者であるかのごとく考える。振舞う。
それを経営者に糾された。
ということです。
>市の労組出身の民主系市議は苦々しい思いで演説を聴き、「組合を当面の敵役にして、
>市民受けを狙ったんだろう」と漏らした。
上記で私は、企業の場合は「どちらが良いかという評価は敢えてしません。」と書きました。
それは私企業には市場での競争があって「倒産」「減収減益」「淘汰」という荒波に洗われるので
あるからこそ「どちらが良いか」などの判断はする必要がないからです。
しかし役所はそうではありません。「倒産」「淘汰」はなく「減収」は「予算要求すればよし」「増税すればよし」
という考えです。
従って、公務員が帰属意識の点で企業と同様であってはなりません。
出資者=納税者
市長 =納税者に経営を付託された経営者
役人 =ただの従業員
を徹底しなければなりません。
例えば「それがイヤなら役所を去れ」というのは極めて当然のことだと思います。
公務員を辞めて企業に入ればよいのです。
但し、但し、公的企業は役所と同じですので、公的企業ではいけませんぞw
>市の労組出身の民主系市議
この者の勘違い、甚だしw