
少々長文ですがそのまま引用させていただきます<(_ _ )>
---------記事引用
(ニューズウイーク誌日本版2011年5月18日号から)--------
世界の鏡に日本はどう映っているのか。自国の現状や問題点を語る際、日本メディアは長年、こんな発想を出発点にしてきた。
この基本姿勢の延長には、日本が「世界に劣っている」「世界から取り残される」というたぐいの主張があった。
それはさまざまな形で表現されてきた。
毎年のように総理大臣が代わる状況に世界は「あきれている」という外国人識者のコメントを引用する新聞。
サムスンをはじめとする韓国企業の勢いにソニーなどの日本勢が「取り残された」と主張するビジネス誌。
スポーツの国際試合で日本が負けると「世界の壁は厚かった」とおきまりのせりふを絶叫するアナウンサー。
こんな具合に日本人は常に「世界」を意識してきた。
「追いつけ追い越せ」という合言葉が叫ばれた明治の開国期や戦後復興期のように「世界」の背中を追いかけることが日本を突き動かす原動力であり、メディアにとってある種の筋書きあるいは「物語」であり続けた---これまでは。
実はこの記事の冒頭の一行目は25年前の本誌創刊号に掲載された特集記事での書き出しだ。
今その一文を読んでも違和感が無かったとすれば、日本人の意識は25年前から大して変わっていないことになる。
これまで「世界」に自らを照らし合わせ、その影を追い続けた裏には、進んでいるのは「世界」のほうであり、遅れているのは「日本」だという前提があった。
つまり、日本は「進んでいる世界」の一部ではないという認識だ。
「世界の鏡に・・・」というコピーは「国際化」が流行語のように叫ばれた25年前にはある程度時代に即したものだったのかもしれない。
しかしその後日本は変わり、世界も変わった。日本と世界の関係も変わったし、世界が日本を見る目も変わった。
そして今3・11東日本大震災は日本人にとって国の等身大の姿を見つめなおすきっかけになった。
未曾有の国難を前にこの国は「がんばろう!日本」というムードで一色だ。それは復興への決意でもあると同時に日本の底力を世界に示そうという意思の表れでもある。
震災後、繰り返しテレビで流された公共CMは「団結力」が日本の強さだという。「日本の力を信じている」と訴えかけるものもある。
<優位さを実感できない原因>
しかしこうした曖昧な言葉だけで日本の強みを片付けてしまっていいのだろうか。
「がんばろう」や「団結力」といった表現だけではこの国の本当の力はわからない。日本の底力を見直そうとするムードもいずれ消えうせ、風化してしまいかねない。
国家的な悲劇に見舞われた今こそ、これまでこの国に閉塞感をもたらしてきた原因と真剣に向き合い、それを清算する機会にしなくてはならない。
これまで日本は経済でも文化でも先進的な国だったにもかかわらず、それを自覚することなく「進んでいる世界」の一員でないと思い続けていた節があった。
一見、世界から学び続けようという真摯な姿勢に見えるが、この時代ではもはや日本人に自己卑下のメンテリティを刷り込むゆがんだ考えでしかない。
この有害無益で不健全な発想をいいかげん「卒業」しておいいはずだ。
そもそも日本は言われてきたほど「劣った」国ではなかった。昨年本誌の「世界成長力&幸福度ランキング」で日本は9位だった。
人口が5千万以上の国の中では1位で、医療保険制度の質の高さや暮らしやすさが評価された。
また本誌のエコ企業ランキングでは上位25社のうち実に7社が日本企業で、国別では最多だった。
にもかかわらず、当の日本人がその優位を認識できずに居た。
原因はおそらく2点に集約される。
第1に、世界との対比に明け暮れてるあまり、自国を客観視できず自己卑下にメンタリティが染み付いていること。
経済的には押しも押されもせぬ先進国になっていたのに精神的にはいまだに「追いつけ追い越せ」という途上国的な発想から世界を見てきた。
第2に、外国からどう見られているかを気にするわりには、この国が世界でどんな役割を果たしてきたかをはっきりさせてこなかったこと。
本当に考えるべきなのは外国からどう見られているかではなく、日本が何をしたいのかということのはずだ。
国内外のメディアの一般論としてこの国は衰退に向かっていると言われてきた。確かに毎年のように総理大臣が代わり、いまだ景気低迷から抜け出せていない。
先進国の中でも最悪水準の公的債務を積み上げているし、外交面では領土問題で周辺国に付け入る隙を与えている。さらに震災後の復興という果てしなく思い課題を背負っている。
もちろんこうした状況から目を背けて現実逃避するべきではない。だが日本のポジティブな側面に目を向けないこともまた現実を見ていないことにほかならない。
ではこの国の本当の実力とは何か。
技術やものづくり、文化が世界的に評価されていることは既にさまざまなメディアで指摘されている。アートや建築、食文化まで絶賛されているし、映画、音楽で権威ある賞を取った日本人は大勢いる。今回の災害でも、日本人の我慢強さや秩序を守る国民性が世界から称賛された。
しかし、日本の強みはそれだけではない。バブル後遺症の「失われた20年」や少子高齢化問題など多くの課題を抱えてはいるが、発想を変えればこういう見方もできる----むしろ日本は世界に先んじてさまざまな課題に取り組んできた国だ。と。
この国の経済は長年たたかれ続けきたが、戦後、日本が90年代初めにバブル崩壊を経験するまで、どの国もあれほどの経済危機に遭遇したことはなかった。
90年代当時、欧米のエコノミストらは威勢よく日本の経済政策をこき下ろし、この国は「世界の反面教師」と揶揄された。
だが08年に世界金融危機が起こると状況は一変した。世界はそれまで日本が取り組んだ課題の難しさを理解していなかったのだ。
90年代当時の経済政策に不充分や迷走は確かにあったものの、ここ数年は前代未聞の危機に対する試行錯誤の時代だったとする声が出てきた。
日本批判の急先鋒だったノーベル賞経済学者のポール・クルーグマンは「日本に謝らなければならない」と「謝罪」した。
<日本は課題解決先進国>
少子高齢化も同じだ。「ジャパン・シンドローム」とも呼ばれるこの問題の解決策を見いだせていないのは事実だし、福祉、年金システムの再建も進んでいない。
だが同時に日本には高度な医療制度があるし、世界的にも優れた社会保障制度を誇っている。
一方で他の先進国でもこの問題を解決した国はない。
台頭が著しいともてはやされている韓国や中国にも日本の比ではないほど深刻な少子高齢化問題が待ち受けている。アメリカは日本ほど高齢化が進んでいないにしても社会保障に深刻な問題を抱えている。ジャパン・シンドロームは世界の問題になりつつあるのだ。
こうした問題の解決策を日本がリーダーシップをとって提示していけば、日本は世界の「反面教師」ではなく「課題解決先進国」という手本になり得ると三菱総合研究所の小宮山宏理事長は言う。
「公害問題からエネルギー問題まで、日本は技術力と市民の力でどの国も解決したことのない世界的な課題を克服し前に進んできた」と小宮山は言う。
日本のメディアはあまり伝えていないが、21世紀型の国際問題はGDPや軍事力といったハードパワーを競い合うものから、気象変動や核不拡散エネルギー資源などの全世界に関わる問題に重点が移り始めている。
日米関係や北朝鮮の脅威といった狭いレベルの国際問題ではない。こうしたワールドワイドな課題に関して日本は十分に指導力を発揮できるポテンシャルを持っている。
まず日本には豊富な経験値がある。
70年代にオイルショックでエネルギー効率の改善を迫られた日本は省エネ化を進め、世界屈指のエコ大国へと進化した。
開発援助や復興でも同じだ。日本の国際貢献に懐疑的な意見もあるが、それは事の本質を見誤っている。
「カネは出すが人は出さない」と酷評された湾岸戦争時代からのトラウマを乗り越え、日本は国連PKOを地道に続け、民生支援で人的貢献を果たし、丁寧な仕事で世界の信頼を勝ち取ってきた。
元外務次官の薮中三十二(みとじ)が『国家の命運』で指摘しているように日本のアフガニスタン支援は量も質も国際的に突出している。
震災後、各国がすぐさま支援を用意したのも日本から受けてきた恩を返したいと思ったからにほかならない。
こうした経験を経て日本は世界が共有できる普遍的な「価値」を生み出した数少ない国の1つだ。
欧米が民主主義や資本主義という「価値」を生み出してきたように日本も環境力やものづくりといった世界的な価値を創造してきた。
一言でそれは「経済力と環境の調和」に集約される。
これは今後の世界が一層必要とする価値だ。
中国政府が2月、環境問題が経済に与える影響に懸念を表明したことはまさに経済と環境保護の両立の難しさを示している。
<「自画像」を描ける国へ>
新しい世界環境の中、どうすれば日本は本当の実力を発揮し、存在感を高められるのか。
この国は確かに経済大国だが、国際政治の舞台では決して大国ではなかった。この「ねじれ」を自覚してこなかったため日本は世界でどんな役割を果たすべきか自画像を描けずにいた。
慶応義塾大学の添谷芳秀教授(国際政治学)はこの状況を「国家像の分裂」という。「分裂していることを自覚的に踏まえて、そこから意味のある外交論や体系的な戦略論をあまり考えてこなかった」
これを克服するには、この国が等身大の自画像を描き何をしたいかを明確にし、それを世界に向け発信しなければならない。
そのためには今まで以上に世界をより正確に知り、日本がどんな立ち位置にいるのかを知る必要がある。
1つの答えは、日本の得意分野や開発援助、核不拡散といった「ミドルパワー」外交を展開することだと添谷は言う。いずれも日本が長年取り組んできたことだが、国家戦略としての認識が不足していた。
「この資源と日本人の自意識を集約して戦略論を打ち立てれば日本は生き返るだろう」
決して敗北主義的な発想ではない。この国の 潜在力を認識すれば日本は再び活力にあふれた国になれるし、それは夜郎自大になることとは違う。
現政権の体たらくや震災のダメージを考えると当面は難しいかもしれない。それでも諦める理由など無い。
日本が世界屈指の大国になったのも個性的な1人のリーダーの指導力があったからではない。むしろ国民が底力を見せボトムアップでこの国を焼け野原から復興させ、世界屈指の経済大国へと成長させた。
今回の震災でも頼りない政権の代わりに国民が自ら立ち上がっている。
元カーネギー財団研究員で日本関連の記事や論文を多く執筆したデビン・スチュワートは周囲から「なぜそこまで日本について悲観的なのか」とよく言われてきた。ある大手銀行のエコノミストにもそう聞かれたスチュワートはこう答えた。「私が日本を悲観視するのをやめるのは、日本人自身が悲観的な考えを捨てたときだ。」
この震災から立ち直ろうとしている日本人にとって、それは決して難しいことではないはずだ。
---------記事引用ここまで---------
危機感を煽るだけの「ダイヤモンド」や「エコノミスト」や「アエラ」等には出来ない、というか、出てこない発想と視点で書かれていますねw
国家観をもつにはどうしたらよいかの提言ですね。
本来、存在するから存在するのだという理由だけで国家の存在価値は十分なのですが、日本人の美意識では、国家の存在に何かご利益(りやく)がないと存在価値を感じとれないのかもしれません。
>私が日本を悲観視するのをやめるのは、日本人自身が悲観的な考えを捨てたときだ
自虐的と言っても良いでしょう。絶望を自ら招き入れるなど愚の骨頂です。絶望はキルケゴールの言うところの「死に至る病」。個人のみならず国だって国民の自虐は絶望を呼び、国の滅亡に直結します。
日本人が自虐的意識を感じやすいのは、明治から昭和に至るいわゆる帝国主義時代の残渣に触れる瞬間です。
「戦争犯罪」なんて言葉(その言葉は負け戦だったから多用されたのですが)を言われたら反射的に縮み上がるように染められています。
戦争犯罪は戦争後に「こじつけられた」ものがほとんどですし、そもそも戦争犯罪があったとしても、それを行ったのは現代の日本人ではありませんし、当時の日本人の多くが「行え」と命じたわけでもありません。
しかし現在その残渣はあまりに着色が酷くて、触れたものを黒く染めようとする力が強すぎます。着色した者が込めた思念が強すぎるのですね。
なぜ強いかといえば、最初に米英に染められたときの色よりも、その後60年をかけて内外から不断に染直しを図られたことによります。長く幾度も繰り返し戦争犯罪を連呼しているのは誰かということです。
早くはコミンテルン、その作り出した日本共産党、あるいは全闘共、いまでも尾を引く革マル・中核。その隠れ蓑の一部労組。日教組、社会党、マイノリティを武器に特権を欲しがる団体。
それらの勢力を裏から応援する特ア。それらの勢力を支持基盤とする政党。彼らは常に染め色を濃くしようとしています。どこまでも日本を貶めそうと止まる事を知りません。
過去の歴史を現代の価値観でのみ捉えようとすれば誤解を生むだけです。その誤解を左巻きは意図的につくりだそうとします。それに耳を傾けてはいけません。
お詫びすれば関係が良くなる。そんなことは対左巻きや対特アではありえません。彼らが欲しいのはより多くの「特権」ですから。
例えるなら、止血剤を塗っているつもりでヒルジンを塗っているようなものです。
誤解することをを防ぐには、出来るだけ当時の価値観がわかるように当時の客観的な資料に幅広く触れるしかないのでしょうね。当時を知っている年寄りの話は戦後60年超となった今ではもう聞くことは困難になりました。
左巻きの毒デムパの解毒剤は今も昔も「常識」でしかありません。当時の「常識」を見に着けるように努力するのですね。
そういった当時ものの資料は、古書店に多くあったものが、いまでは特ア系と思しき者が買い漁っていくという危機にあるそうです。
さて、上記記事の提言も抽象的なきらいがありますのでいまひとつパンチに欠けますが、すくなくとも国家観や前向きな国民意識を作り出そうとする意気込みは感じ取れます。
国家観なきところに善政も興隆もありえません。
少なくとも現政権よりもちゃんとした国家観と、常識と、常識的な歴史観をもつ者への政権再交代を急ぐべきです。