それにしても、厄介なモンだ。
やっぱり、今時、そんなのは流行らない。そもそも、出歩くことなく、人は動かず。
だって、PCの前でマウスを動かせば、なんだって買えるし、宅急便が届けてくれる。
こんな時代に、クルマに乗ろう、なんて思うのは常軌を逸した人間の所業なんだと、
言わんばかりの世の中だ。都会なら殊更なんだろうが、それはもはや、田舎にも
当てはまろうとしているんだから始末が悪い。
ちょっと前でも、クルマは「高価」であれば良い、という意見が支配しようとしていた。
どう考えても、それはオカシイ!と思うのはもっと古い人種の様な気がしてくる。
ただ、「高級車至上主義」の人間と「趣味車愛好家」のマイノリティの落しどころも、
実は存在していたわけで、NS-Xなんかがその例と言えるだろう。
好きではない、むしろ「アンチ」を掲げる者とて、その根源にある「素晴しいもの」への、
嫉妬感は否めない。数字上のスペック、そして目の当たりにしたときの「風圧」なり、
「威圧感」に、「やっぱりクルマはオカネなのかね。。。?」と言わずに居れなくなる時がある。
世の中には「美しいもの」がたくさん存在している。そしてそれは「常に変化する」ものである。
かつて美しさを「美度」という数字で表そうとした芸術家/研究者まで存在するのだが、
仮に当時の「美度」で示された評価は、1世紀近く経過しようとしている今では、「絶対性」は薄れ、
無用の長物になっているかもしれない。事実、美度は測れなかった。恐らく、
「美しいは絶対ではない」という、人間のいい意味でのいい加減差に彼は気付いたんだろう。
だが、クルマにおける「絶対的な美度」は、若干ながら存在し、しかも絶対的?と言えるかもしれない。
それは「地上高の低さ、タイヤとフェンダーの隙間の小ささ」と言っていいだろう。
なぜそうなったか?はあまりにも膨大な理論が必要なので割愛するが、フェラーリ、アストン、
ポルシェ。。。思いつく限りの高級メーカーから、トヨタやダイハツに至っても、一貫するのは、
デザイン段階での「低さ」をいかに維持しつつ市販化するか?である。あの「86」だって、極論的には
「低さ」の寵児である。早い話「低い=カッコイイ」のである。
逆に(そんなことする人は極稀だが)、低い車高のクルマの車高を上げてみよう。
。。。各自の想像に任せるが、実に奇怪なものとなる。スポーツカーなら、
"程度の悪い"SUVへと成り下がっていくだろう?
「低い」を維持すること、それはやはり苦労するということである。
例えば、駐車場だって選ぶ必要がある。果てには「アソコのコンビニには入れない」など、
不断のフィールドワークを必要とする。これを逐一記憶する。
「低い」を維持しようとすると?
全然関係ないときでも、妙な段差やスロープでも「この坂は入れる!」なんて、新しい発見と
喜びに満ちた世界で生きていくことだろう。これは逐一記憶せずとも刻まれる。
散歩をしていても、常にそういうことを考えて、果てには写真やメモを取り出す始末となる。
ほんっとに極小さな「坂ペディア」が大脳やノートに構築されて行くのである。
しかしこれは「必要悪」である。たとえダメージ自体は少ないと解っていても、
「もう、ゴリっ!って言うあの音は聞きたくない。。。」
単純にそれだけなのだが。。。「完璧」ではない諸兄は、そこまでやっても、
「ゴリっ」を繰り返す。。。時期、場所、交通量、そしてタイヤの具合なんかでも、
変化する。常に更新が必要なシステムで、クラウド化も出来ないのだ。
しかし、現在に適合した「クルマなど不要」と真に思う者はこういうだろう。
完全に正解で「合理主義」であるためそもそも運転などしないんだろうし、
「美しさ」以外の「低さ」を説明したとて「釈迦に説法」。そして、
「。。。車高、上げなよ?」
結局、堂々廻りなんだろう。そもそも、出歩く必要なんてなくなっていくのが、
今の社会なんだから。