
49:1:2011/10/28(金) 13:57:22.37 ID:gFhiTwhy0
父が入院中の時の事
酸素マスクを着けなければいけない状況だったんだけど
少し元気になってくると、「家に帰る!」と言い出して
酸素マスクを外してベッドから起き上がろうとする。
で、母に「だめでしょ、お父さん、酸素マスク外したら
死んじゃうよ?大人しくして早く直して退院しようね」
と言われると、とりあえず大人しくなる。
でも30分ぐらいすると「家に帰る!」と、起き上がろうとする。
で、母が「だめでしょ、お父さん(ry
で、また30分ぐらいすると「家に(ry
そんなことを何回も繰り返して、母にたしなめられるたびに
(´・ω・`)な顔をしてた父に萌えてしまった。
・・・ってことを退院したらこのスレに書こうと思ってたのに
なんで死んじゃうんだよ。元気になったら一緒に
好きなカツ丼を食いに行こう、って約束したじゃないか。
父ちゃん・・
50:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/28(金) 13:57:58.37 ID:5Eh2Jywi0
幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。
学もなく、技術もなかった母は、
個人商店の手伝いみたいな仕事で生計を立てていた。
それでも当時住んでいた土地は、まだ人情が残っていたので、
何とか母子二人で質素に暮らしていけた。
娯楽をする余裕なんてなく、日曜日は母の手作りの弁当を持って、
近所の河原とかに遊びに行っていた。
給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。
ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。
俺は生まれて初めてのプロ野球観戦に興奮し、
母はいつもより少しだけ豪華な弁当を作ってくれた。
野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。
母がもらったのは招待券ではなく優待券だった。
チケット売り場で一人1000円ずつ払って
チケットを買わなければいけないと言われ、
帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは、
外のベンチで弁当を食べて帰った。
電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、
母は「母ちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。
俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学が
とことん嫌になって、一生懸命に勉強した。
新聞奨学生として大学まで進み、いっぱしの社会人になった。
結婚もして、母に孫を見せてやることもできた。
そんな母が去年の暮れに亡くなった。
死ぬ前に一度だけ目を覚まし、思い出したように
「野球、ごめんね」と言った。俺は「楽しかったよ」と言おうとしたが、
最後まで声にならなかった
52:1:2011/10/28(金) 13:59:23.12 ID:gFhiTwhy0
私には、兄がいました。 3つ年上の兄は、妹想いの優しい兄でした。
ドラクエ3を兄と一緒にやってました。(見てました。)
勇者が兄で、僧侶が私。遊び人はペットの猫の名前にしました。
バランスの悪い3人パーティ。兄はとっても強かった。
苦労しながらコツコツすすめた、ドラクエ3。
おもしろかった。 たしか、砂漠でピラミッドがあった場所だったと思います。
とても、強かったので、大苦戦してました。
ある日、兄が友人と野球にいくときに、私にいいました。
「レベ上げだけやってていいよ。でも先には進めるなよ。」
私は、いっつもみてるだけで、よくわからなかったけど、
なんだか、とてもうれしかったのを覚えてます。
そして、その言葉が、兄の最後の言葉になりました。
葬式の日、父は、兄の大事にしてたものを
棺おけにいれようとしたのを覚えてます。
お気に入りの服。グローブ。セイントクロス。
そして、ドラクエ3。
でも、私は、ドラクエ3をいれないでって、もらいました。
だって、兄から、レベ上げを頼まれてたから。
私は、くる日もくる日も時間を見つけては、砂漠でレベ上げをしてました。
ドラクエ3の中には、兄が生きてたからです。
そして、なんとなく、強くなったら、
ひょっこり兄が戻ってくると思ってたかもしれません。
兄は、とっても強くなりました。
とっても強い魔法で、全部倒してしまうのです。
それから、しばらくして、ドラクエ3の冒険の書が消えてしまいました。
その時、初めて私は、泣きました。 ずっとずっと、母の近くで泣きました。
お兄ちゃんが死んじゃった。やっと、実感できました。
今では、前へ進むきっかけをくれた、
冒険の書が消えたことを、感謝しています。
53:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/28(金) 14:00:44.72 ID:w7En60w7O
先週母さんと喧嘩してから話してない
帰ったら謝ろう
54:1:2011/10/28(金) 14:03:54.93 ID:gFhiTwhy0
だめだ、涙で画面が見にくい…
55:1:2011/10/28(金) 14:06:22.68 ID:gFhiTwhy0
232 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/04 09:56:54 ID:qvhak+dx
俺は高校までずっと都立で給食だったし、
大学も学食やらコンビニやらで済ませて来た。
母親の手作り弁当の記憶なんて、
運動会か遠足、それも遠すぎて覚えてない。
就職しても、社食が当たり前で妻も俺に弁当を作ったことはない。
俺自身も、弁当箱持って歩くのも荷物になるし
弁当への思い入れも何もなかったある日
今年中学生になった娘が、「はい。オヤジさん(←娘は俺をこう呼ぶ)」と
バンダナで包まれた弁当箱を手渡した。
「なんじゃ?これ?」と俺が言うと
「だって、今日オヤジさんの誕生日じゃん」と・・・・。
俺、絶句。
「何だ、お前弁当作ってくれたのかよ。食えるのか?」と、
恥ずかしさのあまり悪態をついてしまった。
だが、娘は「一生懸命、早起きして作ったよ」と笑顔だった。
素っ気無い顔しときながら、
気になって弁当箱の中身を会社について確認したら
ご飯には、鮭フレークでハートが描いてあった。
おかずはハンバーグと、ウインナーと、ベーコンポテト。
俺の好きなチーズも入っていた。
胸が詰まった。
2450グラムと小さく生まれてきた日のこと、
夜中熱を出して夜間診療所に駆け込んだこと
運動会の徒競走で転んだこと、父の胸に幼い日の娘の姿がよぎる。
あいつ、こんなに大きくなりやがって。
食べた弁当の味は、しょっぱい、勿論俺の涙の味だ。
56:1:2011/10/28(金) 14:08:23.36 ID:gFhiTwhy0
俺は小さい頃、家の事情でおばあちゃんに預けられていた。
当初、見知らぬ土地にきて間もなく当然友達もいない。
いつしか俺はノートに自分が考えたスゴロクを書くのに夢中になっていた。
それをおばあちゃんに見せては
「ここでモンスターが出るんだよ」
「ここに止まったら三回休み~」
おばあちゃんはニコニコしながら、
「ほーうそうかい、そいつはすごいねぇ」と相づちを打ってくれる。
それが何故かすごく嬉しくて、何冊も何冊も書いていた。
やがて俺にも友達ができ、そんなことも忘れ友達と遊びまくってた頃
家の事情も解消され、自分の家に戻った。
おばあちゃんは別れるときもニコニコしていて
「おとうさん、おかあさんと一緒に暮らせるようになってよかったねぇ」
と喜んでくれた。
先日そのおばあちゃんが死んだ。
89歳の大往生だった。
遺品を整理していた母から「あんたに」と一冊のノートをもらった。
開いてみみるとそこにはおばあちゃんの作ったスゴロクが書かれてあった。
モンスターの絵らしきものが書かれてあったり、なぜかぬらりひょんとか
妖怪も混じっていた。
「おばあちゃんよく作ったな」とちょっと苦笑していた。
最後のあがりのページを見た。
「あがり」と達筆な字で書かれていた、その下に
「義弘(俺)くんに友達がいっぱいできますように」
人前で、親の前で号泣したのはあれが初めてでした。
おばあちゃん、死に目にあえなくてごめんよ。
57:1:2011/10/28(金) 14:10:25.60 ID:gFhiTwhy0
俺んち母子家庭で貧乏だったから、ファミコン買えなかったよ。。。
すっげーうらやましかったな、持ってる奴が。
俺が小6のときにクラスの給食費が無くなった時なんて、
「ファミコン持ってない奴が怪しい」なんて、真っ先に疑われたっけ。
貧乏の家になんか生まれてこなきゃよかった!って悪態ついたときの
母の悲しそうな目、今でも忘れないなぁ、、。
どーしても欲しくって、中学の時に新聞配達して金貯めた。
これでようやく遊べると思ったんだけど、
ニチイのゲーム売り場の前まで来て買うのやめた。
そのかわりに小3の妹にアシックスのジャージを買ってやった。
いままで俺のお下がりを折って着ていたから。
母にはハンドクリーム買ってやった。いっつも手が荒れてたから。
去年俺は結婚したんだけど、
結婚式前日に母に大事そうに錆びた ハンドクリームの缶を見せられた。
泣いたね、、。
初めて言ったよ「生んでくれてありがとう」って。
58:1:2011/10/28(金) 14:12:26.48 ID:gFhiTwhy0
今日は兄の誕生日だ。私より10才年上の兄は、
私が10才の時に両親を事故で失って以来ずっと私を育ててくれた。
兄は私を育てるために大学をやめ、働きながら私を育ててくれた。
口癖は「お前は俺の半分しか父さんや母さんとの思い出がないんだから」だった。
授業参観にも学校祭にも体育祭にも三者面談にも、いつも兄が来てくれた。
周囲のおばさま方の中で、明らかに兄は浮いていたが
それでもいつも兄は会社で休みをもらって学校に来てくれた。
初めて作った料理とも言えないようなものを、美味しいと言って全部食べてくれた。
仕事で疲れているだろうに、家に帰ってきてから私の学校での話を聞いてくれたり
宿題を見てくれたり、学校への連絡ノートも毎日欠かさず書いてくれた。
土日も私と遊んでくれて、色々なところへ連れて行ってくれた。
そんな兄には自分の時間なんてなかったように思う。
友達のを見て、お団子ヘアにして欲しい、友達のお母さんならやってくれたと、
わがままを言った時慣れない手つきで一生懸命作ってくれたのに、
こんなんじゃない、お母さんに会いたいとと兄をなじってしまった。
兄はそれを聞いてごめんと泣き出してしまった。あの姿を思い出すたびに、
兄も両親を事故で失った子供だったんだと今でも泣きそうになる。
60:1:2011/10/28(金) 14:14:27.21 ID:gFhiTwhy0
続き
その兄が、一年前両親と同じように事故で突然この世を去った。
兄が死んだ時、私は兄が両親を失った時よ り一才年上だった。
兄はこの状態でまだ小学生の私を育ててくれたのかと思うと、
それがどれだけ大変だったかと思って涙が出る。
兄は私がいたせいで友達と遊びにも行けなかった。
恋人も、出逢う暇さえ私が奪ってしまったんだ。
たくさんたくさん、ごめんなさいとありがとうも言えないままだった。
「ちゃんと幸せになれ」っていつも言ってくれたけど、
兄の幸せはどこにあったのだろう。今も考えてる。
もう兄に何も返すこともできないけど、兄のおかげでここまで来れた人生、
恥ずかしくないように生きられるように頑張ろうと思う。
お兄ちゃん、天国で見ててね。
今からでもお父さんとお母さんに甘えてるといいな 。
62:1:2011/10/28(金) 14:17:30.92 ID:gFhiTwhy0
母は、僕を女手一人で育てた。
僕の幼かったころに、亡くなった父は、マンションの10階を母に残した。
そのマンションからは、夏に花火をみることができる。
父と母が過ごした街の花火。
毎年花火の時には、窓際にテーブルを移動して、母と一緒に父を偲んだ。
花火はいつもきれいで、母はうれしそうだった。
父は、母に素敵なものを残したなっと思った。
でも、それは長くは続かなかった。
僕が高校の時に、うちのマンションの前に、もっと高層マンションが建設されたのだ。
僕は、景観が悪くなるなぁって、思ってた。
その年の花火の日、いつものように、テーブルを移動して準備してた。
花火みれるかな?って、心配だった。
花火みれなかった。見事にマンションで見えなくなってる。
音だけの花火。
あんなに悲しそうな母の横顔を見たことがない。
僕は、母を連れて、川辺に歩いていった。
母と見上げた初めての花火。
父さん、心配するな。これからは僕が母さんを笑顔にする。
63:1:2011/10/28(金) 14:19:34.68 ID:gFhiTwhy0
この前飼い猫が病気になったんですよ、末期のね。
で、生まれて初めてペットロスを経験したわけですわ。
正直最初はペットロスって軽いもんだと思ってたのよ。
動物飼いならみんな普通に経験してるからさ。
あのね、俺が間違ってた。あれは人が経験するもんじゃない。
冷血人間だね、冷血人間だけが耐えられるものだよ。
最初に「安楽死承諾書」出された時さ、
めちゃめちゃびびってペンそろ~って持ってそろ~っと名前書いたのよ。
10秒くらいかけてさ。でなんか怖くなって消すどころか承諾書破り捨てちゃったのさ。
そしたら飼い猫がさ「苦しいよ」とか目で訴えてくるの。
同じ過ちは2度繰り返さないのが俺よ。だから名前書いたのさ。
えぇ、そりゃもう書きましたとも。全てを忘れて書いたよ。
家に迷い込んできた時のヤツの心もとないほどガリガリだった体とか、
初めて膝で寝てくれたときにホントに嬉しかった事とか、
エサをねだる時の愛らしい顔とか
色々思い浮かんでくるのを頭から振り払ってね。
だってヤツが苦しいって訴えてたからね。
そしてらエライ事になった。
もうすごい即死。そして俺のすごい涙。幅3cmくらい。
昔の漫画だけど星飛雄馬やはだしのゲンにも負けない。
それで横見たら飼い猫がすごい安らかな顔を俺の方に向けてんの。
ホントごめんなさい。
正直「飼い主なら苦しみから救ってやるのが義務だぜ!」
なんて見栄張らないで素直に最後まで悪あがきしてやればよかった、
せめて自然に任せて死なせてやればよかったと思ったよ。
心の底から承諾書にサインした事を後悔したね。
でも埋葬が終わって友達に「猫はさっさと死んじまうな!これだから猫は。
今度は長生きするカメでも飼うか」とか言っちゃてんの。
ホント俺ってダメ人間。
64:1:2011/10/28(金) 14:21:35.00 ID:gFhiTwhy0
猫視点
この前病気になったんですよ、末期のね。
で、生まれて初めて飼い主との別れを経験したわけですわ。
正直最初は別れって簡単なもんだと思ってたのよ。
野良猫時代は普通のことだったからさ。
あのね、俺が間違ってた。あれは猫が経験するもんじゃない。
冷血動物だね、は虫類だけが耐えられるものだよ。
最初に動物病院に入った時さ、
めちゃめちゃ痛くて脚そろ~って動かしてそろ~っと尻尾ひきずったのよ。
10秒くらいかけてさ。でなんか体が動かなくなって診療台の上でへたりこんじゃったのさ。
そしたら飼い主がさ「苦しいのか」とか目で訴えてくるの。
同じ過ちは2度繰り返さないのが俺よ。
だからニャーンて鳴いたのさ。えぇ、そりゃもう鳴きましたとも。
全てを忘れて鳴いたよ。家に迷い込んだ時のヤツの暖かいまなざしとか、
初めて膝で寝たときにホントに気持ちよかった事とか、
エサをくれる時の呼び声とか色々思い浮かんでくるのを頭から振り払ってね。
だって長引くと飼い主がつらいだろうって思ったからね。
そしてらエライ事になった。
もうすごい即死。そして飼い主のすごい涙。幅3cmくらい。
昔の漫画だけど星飛雄馬やはだしのゲンにも負けない。
それで横見たら飼い主がすごい悲しそうな顔を俺の方に向けてんの。
ホントごめんなさい。
正直「飼い主を苦しみから救ってやるのが義務だぜ!」なんて
見栄張らないで素直に最後まで悪あがきしてやればよかった、
せめて自然に任せて死ねばよかったと思ったよ。
心の底から承諾書にサインさせた事を後悔したね。
でも埋葬が終わって天国で「飼い主って寿命ありすぎるよな!
これだから人間は。今度は長生きするカメにでも生まれるか」とか言っちゃてんの。
ホント俺ってダメ猫。
…もう泣かないで下さい。
66:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/28(金) 14:23:48.89 ID:wWabPCa10
小2で母親が死んで三年経ったとき、
テレビでお母さん特集みたいなの見てたら親父が
「なあ、お前新しいお母さん欲しい?」って言ってきた。
俺は親父に彼女ができたんだと思って、
本当はいらないって言いたかったけど、
とっさに「わかんない」って変なこと言った。
そしたら親父が「いらないよな。そうだろ?
俺もいらねえよ。
周りは結婚し直せってうるさいけど冗談じゃねえってんだよ。
俺の女房はあいつだけだよ。
お前のお母さんもあいつだけだ。そうだろ?」って答えたんだ。
俺はこれ聞いて涙声で「うん」って答えて
自分の部屋行って母親の写真眺めながら号泣した。
その一年後、親父はフィリピン人と結婚した。
67:1:2011/10/28(金) 14:24:02.33 ID:gFhiTwhy0
126 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。[1/3] 投稿日:2007/10/26(金) 18:02:19.38 ID:Y1O2bH6d0
皆さんのお話を読み、
俺が高校生の時に逝った爺ちゃんの事を思い出しました。
乱文かと思いますが綴らせてもらいます。
俺は爺ちゃんにとって4番目の孫でしたが他の孫達は皆地方に住んでいて、
自営業の寿司屋を継いだ親父の子である俺を爺ちゃんは内孫として
特に可愛がったそうです。
でもまだ俺が小さい頃は、爺ちゃんが苦手でした。
小学生の時、俺は少年ラグビークラブに通っていて毎週日曜日の練習後は
仕事で迎えに来れない両親の代わりに爺ちゃんが迎えにきてくれました。
けど昼飯でたまにファミレスなんかに入ると爺ちゃんは昭和初期からの
職人気質で(寿司屋の板前です)中々届かない料理にウエイトレスを
度々呼んではいつも怒っていました。
その時の爺ちゃんは子供ながらに
怒らせちゃいけない存在なんだと思っていました。
ある時、赤いファイアーパターンが自慢のMTBを爺ちゃんが勝手に真っ黒に
塗ってしまったことがありました。爺ちゃん曰く、
『赤い自転車なんて女の子の乗り物だぞ!』
らしく、流石に両親に泣き喚いて親父が爺ちゃんをこっ酷く注意したそうです。
普通の祖父なら新しい自転車を買うのかもしれません。けど爺ちゃんは
俺を地元の馴染みの喫茶店に連れてってこう言いました。
『俺が死ぬまでお前は此処でアイスくりぃむ食べ放題だぞ!』
あの恐い爺ちゃんがアイスって、可笑しかったのを覚えています。
いつも額に皺を寄せて恐い顔をした爺ちゃんでしたが甘いモノは大好きで
その間だけ笑顔になるのが俺自身とても嬉しかったんです。
それと癖なんですが俺は小さい頃から皺などの柔らかい部分を
撫でるのが好きで爺ちゃんに逢った時はよく顎下辺りを撫でさせてもらいました。
この時も爺ちゃんは嬉しそうに笑ってくれたんです。
68:1:2011/10/28(金) 14:26:22.16 ID:gFhiTwhy0
127 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。[2/3] 投稿日:2007/10/26(金) 18:03:02.50 ID:Y1O2bH6d0
中学に入る頃、爺ちゃんは足を怪我して歩かなくなりました。
家族に甘えていたんだと思います、リハビリをしっかりすればまだ歩ける
可能性はあったのに爺ちゃんは全然リハビリを受けませんでした。
日に日に身体も衰弱し、入退院を繰り返しました。
俺自身、中学生になってからは色々忙しくなり、
あまり爺ちゃん家にも顔を出さなくなりました。
高校の入学式、久々に爺ちゃん家に行った時には
爺ちゃんは身体も小さくなり、
一歩もベッドから出れない状態になっていました。
自宅療養を願い、もうあまり時間も無いと医者も言ったので
週2でヘルパーを頼み、婆ちゃんと一緒に介護をしていました。
あまり喋ることも出来なくなっていて
名前を呼ぶのが精一杯という感じです。
それでも爺ちゃんの好きな苺ジャムパンや
アンパンなんかを持っていくと、
爺ちゃんは笑顔になって顎下を指で指してきました。
俺はやるせない気持ちで爺ちゃんの顎下を撫でました。
もっと、もっと撫でてあげたかったよ、爺ちゃん。
春、爺ちゃんの好きな桜が咲いた日の夕方、爺ちゃんは天国に逝きました。
親父に呼ばれて急いで駆けつけて、死に目には逢えませんでしたが
その顔はうっすらと、口端を上げて笑っていました。
婆ちゃんが泣きながら俺の手を握っていました。とても、とても強く。
皆で身体を拭いてあげました。
上着を脱がして背中、胸、腕…。俺の番になりました。
その時、初めて俺は涙を流しました。嗚咽も無く、ただひたすら涙だけが
頬を伝っていました。俺は握ったタオルを顎の下にもっていきました。
皆が泣きました。俺がその部分を好きだというのは皆知っていました。
俺は涙で前が見えないのにゆっくりと、
優しく、あの柔らかい部分を撫でてあげました。
まだ暖かく、爺ちゃんの顎下はとても柔らかかったです。
葬式は自営業の店で上げる事にしました。
戦後の焼け野原から築いた場所で還してあげたかったんです。
白袴も断りました。
生前爺ちゃんのお気に入りだった茶色のジャケットとストライプの入った
パンツを履かせてあげました。死化粧を施してジャケットを着こなした
爺ちゃんは、あの頃の元気な爺ちゃんに戻ったようでした。
70:1:2011/10/28(金) 14:28:23.98 ID:gFhiTwhy0
129 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。[3/3] 投稿日:2007/10/26(金) 18:03:38.03 ID:Y1O2bH6d0
沢山の人が通夜に来ました。親戚、近隣住人、数少くなった友人達、
若い頃世話になったというヤクザ者まで、本当に沢山の人が集まりました。
遺影はまだ爺ちゃんが元気な頃に撮ったと思われる写真が使われました。
どうも爺ちゃん自身が用意していたものらしく棚に封筒で包んで
しまってあったそうです。ただ何故か荒画質の荒さが目立っていました。
それでも爺ちゃんの表情は、俺の大好きだったあの笑顔でした。
それから数日後、後片付けをしていたオカンから電話があって爺ちゃん家に
行きました。するとそこには涙を流したオカンと婆ちゃんと親父が
いました。親父が俺に何かを差し出しました。
『見てみろ、お前が、あの爺さんの笑顔を作ったんだ』
俺は差し出されたものを見ました。写真のようでした。
ジャケットを着た爺ちゃんが写ってました。袴を着た幼い俺が写っていました。
俺の七五三の写真でした。爺ちゃんの顔の部分に印がついていました。
遺影に使われた笑顔は、俺の七五三で笑った笑顔でした。
俺は写真を見た瞬間、初めて人前で声を上げて泣きました。
息が出来ませんでした。息の仕方も忘れてただ泣きました。
婆ちゃんが抱きしめてくれました。オカンが手を握ってくれました。
爺ちゃん。俺、出棺の時コンビ二に走ってジャムパンとアンパン
買ってきたんだ、天国で売ってるなんて限らないからさ。
爺ちゃん。あの後、喫茶店に行ったんだ、爺ちゃんと一緒に食べた
同じ席に座って同じ抹茶アイスを2つ頼んでさ、美味かったろ。
爺ちゃん。最後、あまり行けなくてご免な、優しくない孫でご免な。
爺ちゃん。それでもあんたは、最高の爺ちゃんだったよ。
爺ちゃん。本当に、本当に、有難う。
71:1:2011/10/28(金) 14:31:01.86 ID:gFhiTwhy0
2年付き合った彼に振られました。
それはもう、彼が言ったとは思えないほどのひどい言葉で。
どんなにまだ好きだと言っても復縁はかなわず、
音信不通になってしまいました。
そんな彼の友達から、彼が亡くなったことを聞き、
彼が書いた日記をもらいました。
『入院二日目、昨日は周りのモンがめずらしくて
初体験ばっかだったけど、 今日からヒマなんだよな~。
こうやって日記つけてみたわけだけど、
オレのことだから続かんだろなぁ。
N(私のことです)は今頃元気にしてるかなぁ。
最後傷つけちゃったけど、新しい男でも見つけてくれんかなぁ』
最初、私は彼が病気をしていたことも、
入院していたことも知らず夢中で日記を読んでいました。
日記には彼の私への想いがたくさん書いてありました。
『今日テレビでディズニーランドの特集やってた。
Nと行ったことを思い出した。
あいつ買い物大好きだったから、
あの時は疲れていい加減にしろとか思ってた。
でも帰りにこっそり買っといてくれたミッキーはうれしかった。
今枕元にあるわけだけど、
友達なんかにからかわれるから皆が来るときだけは隠してる。
別れちゃったしなぁ・・・好きなんだよなぁ』
『夢にNが出てきた。半年会ってないよなぁ。
別にたいした夢じゃないけど喋った。それだけで幸せだなぁ。
なんで目、覚めちゃったんだろ。
今ごろ誰と喋ってんだろ。宇多田の歌みたいだ』
それは日記では無く、私のことばかり書いてありました。
『やっぱりNが好きだぁぁぁ忘れられねぇぇぇぇぇ。
日常の一つ一つにNが出てくるんだよう。
ばかやろぉぉぉぉぉぉ』
75:1:2011/10/28(金) 15:00:15.32 ID:hUANwWtH0
そして、次のページが最後でした。
『オレはもうすぐ死ぬらしい。
医者ははっきりとは言わんけど、わかるモンだなぁ。
思えば治らない病気(病名は伏せ)だって聞いてからもう1年だ。
結構長く生きた方だし、充分な人生だったんじゃねぇ? って
思おうとしたけどやっぱりダメ。
もっと生きたい。 Nともっと一緒にいたかった。
入院してる間、振ったことを、
あんなひどい 言葉を言ってしまったことをずっと後悔してきた。
でも、完治なんて可能性が無い。
Nはキレイだし性格いいんだからすぐ次に男ができる。
オレのために人生棒に ふらせるわけにはいかん・・・って
何回も納得したはずなのに。
Nと喋りたい。今から電話したい、会いたい。 まだ死にたくない。
まだフォアグラ食べてないし、USJ行ってない。
大学卒業したかったし、母さんに親孝行もしたかった。
ベタでも父さんと酒飲みたかった。
Nをもっと抱きたい。結婚して子ども欲しかった。
おじいちゃんおばあちゃんになっても
手とつなぐような夫婦になりたかった。Nにあいたい。
でももう叶わない。後悔してばっかりだった。
死ぬときは笑っていきたいけど、 本音は辛すぎる。
N、やっぱりまだまだ愛してる。オレのこと忘れて幸せになれよ』
涙が止まりませんでした。
彼は私のことを常に考えてくれて、
でも私は彼の体のことなんてまったく気付かずに
自分のことばっかり考えていました。
何で死んじゃったんだろう。私には彼しかいないのに。
友達はこの日記を病院のゴミ箱で見つけたそうです。
私に見つからないようにだと思います。
私のことをここまで想ってくれる人はもういません。
お葬式には行けませんでした。
明日は彼の一周忌です。
最初は自暴自棄な私でしたが、
彼の遺志を尊重するために幸せになろうと思います。
77:1:2011/10/28(金) 15:08:25.60 ID:hUANwWtH0
「1番は1番いいけど1番大変だよ。2番目くらいがいいんじゃないかねぇ」
僕は聞いた
「でも2番は2番目に大変なんでしょ」
ばあちゃんは言った。
「そうだね。でもね2番には1番になるって目標があるからね、頑張れるよ」
そんなばあちゃんが病気で倒れたとき僕はばあちゃんに言った。
「ばあちゃん、僕、ばあちゃんのことが世界で1番好きだよ。早く元気になって。
僕をひとりにしないで」
ばあちゃんは一生懸命笑って言った
「こればっかりはやっぱり1番が1番嬉しいねぇ」
ばあちゃん、覚えてますか?
その1番はばあちゃんがずっと持っていてください。
僕は1番になる目標を持った2番でいいんだ。
ばあちゃんが好きだった2番が大好きなんだ。
ばあちゃんに届け!2ゲット!
78:1:2011/10/28(金) 15:13:52.07 ID:hUANwWtH0
小1の秋に母親が男作って家を出ていき、俺は親父の飯で育てられた。
当時は親父の下手くそな料理が嫌でたまらず、また母親が突然いなくなった
寂しさもあいまって俺は飯のたびに癇癪おこして大泣きしたりわめいたり、
ひどい時には焦げた卵焼きを親父に向けて投げつけたりなんてこともあった。
翌年、小2の春にあった遠足の弁当もやっぱり親父の手作り。
俺は嫌でたまらず、一口も食べずに
友達にちょっとずつわけてもらったおかずと
持っていったお菓子のみで腹を満たした。
弁当の中身は道に捨ててしまった。
家に帰って空の弁当箱を親父に渡すと、
親父は俺が全部食べたんだと思い
涙目になりながら俺の頭をぐりぐりと撫で、
「全部食ったか、えらいな!ありがとうなあ!」
と本当に嬉しそうな声と顔で言った。
俺は本当のことなんてもちろん言えなかった。
でもその後の家庭訪問の時に、
担任の先生が俺が遠足で弁当を捨てていたことを親父に言ったわけ。
親父は相当なショックを受けてて、
でも先生が帰った後も俺に対して怒鳴ったりはせずにただ項垂れていた。
さすがに罪悪感を覚えた俺は気まずさもあってその夜、
早々に布団にもぐりこんだ。
でもなかなか眠れず、
やっぱり親父に謝ろうと思い親父のところに戻ろうとした。
流しのところの電気がついてたので
皿でも洗ってんのかなと思って覗いたら、
親父が読みすぎたせいかボロボロになった料理の本と
遠足の時に持ってった弁当箱を見ながら泣いていた。
で、俺はその時ようやく、
自分がとんでもないことをしたんだってことを自覚した。
でも初めて見る泣いてる親父の姿にびびってしまい、
謝ろうにもなかなか踏み出せない。
結局俺はまた布団に戻って、
そんで心の中で親父に何回も謝りながら泣いた。
翌朝、弁当のことや今までのことを謝った
俺の頭を親父はまたぐりぐりと撫でてくれて、
俺はそれ以来親父の作った飯を残すことは無くなった。
親父は去年死んだ。
病院で息を引き取る間際、
悲しいのと寂しいのとで頭が混乱しつつ涙と鼻水流しながら
「色々ありがとな、飯もありがとな、
卵焼きありがとな、ほうれん草のアレとかすげえ美味かった」とか
何とか言った俺に対し、
親父はもう声も出せない状態だったものの微かに笑いつつ頷いてくれた。
弁当のこととか色々、思い出すたび切なくて申し訳なくて泣きたくなる。
81:1:2011/10/28(金) 15:33:00.94 ID:hUANwWtH0
182 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。[1/5] 投稿日:2007/10/26(金) 18:32:38.28 ID:Y1O2bH6d0
Saga2は思い出のソフトなんだ……
今でもよく思いだしては切なくなってます。
俺さ、産まれた時から酷い小児喘息だったのよ。
夜中にかーちゃん起こして病院連れてってもらうなんてしょっちゅうだったし、
小学校あがって更に病状が悪くなって。
もちろん体育なんかでれないし、
みんなと外で遊ぶ事すらできなかった。
んで、小五になってからほぼ毎日病院行って
吸入するくらいまで悪化しちゃって、
そのまま3週間入院する事になって。。。
んでね、そん時4人部屋の病室だったんだけど
二人はおばあちゃんとおじさん、
んでもう一人は俺と同い年くらいの女の子だった。
俺、昔からすげぇ人見知りが激しい上に物凄い照れ屋で、
なかなかその同室の人達と仲良くなれないで
一人で勉強してるかゲームボーイやってるかだったのよ。
そん時家から持ってきたソフトが「Saga2」で、
もう一回クリアしたやつだったんだけど
ヒマだしもっかいやるかな、って毎日やってたワケさ。
83:1:2011/10/28(金) 15:40:58.24 ID:hUANwWtH0
184 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。[2/5] 投稿日:2007/10/26(金) 18:34:25.08 ID:Y1O2bH6d0
んで入院して一週間立った頃、俺がゲームボーイやってる時は
なんかその同室の女の子がじーっとこっち見てる事に気づいたんよ。
俺が彼女の方みると慌てて目逸らすんだけどね。
もしかしてやってみたいのかな?と思って、
「良かったらコレ借そうか?」って聞いたのよ。
そしたら目ぇ輝かせて「いいの?」っていうもんだから、
「もう飽きたからな」とか照れ隠しして借してあげたさ。
でも案の定操作が分からないらしく、画面とずっとにらめっこしてるもんだから
俺が操作教えながら一緒にゲーム進めることにしたんよ。
パーティーは人間・男の主人公「リョータ(俺の名前)」で、
仲間は人間・女「さやか(彼女の名前)」
あとはエスパーガールとロボットに
それぞれ同室のばあちゃんとおじさんの名前つけたっけ。
それからどんどんそのコと仲良くなって、
二人でゲームボーイやるだけじゃなく、色んな話もするようになった。
学校の事、家族の事、好きな音楽の事、近くに迫った夏休みの事…
84:1:2011/10/28(金) 15:43:58.31 ID:hUANwWtH0
186 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。[3/5] 投稿日:2007/10/26(金) 18:34:57.46 ID:Y1O2bH6d0
それからの時間はあっという間だった。
すぐに俺が退院する時がやってきた。
看護婦や同室のおじさん、ばあちゃん達が口々に
「おめでとう」って言ってくれてる中
彼女だけ泣いてた。それ見て俺も泣きそうになったさ。
でもグッと堪えて「オマエ退院するまでコレ借してやるよ。
退院したら連絡くれよな」って
そのままゲームボーイとSaga2置いていったのよ。
それから何回もお見舞しに行こうと思った。…
でもいざ行こうかと思うとなんか照れくさくて行けなかった。
連絡がないまま1年半が過ぎて、
俺も小学校を卒業する頃になった。
せめて卒業前にもう1度会っておきたいな、
と思って意を決してお見舞に行く事にしたんよ。
85:1:2011/10/28(金) 15:47:11.30 ID:hUANwWtH0
188 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。[4/5] 投稿日:2007/10/26(金) 18:35:36.97 ID:Y1O2bH6d0
病室に行ったけど彼女はいなかった。
病室入口の名前欄にもない。
もうとっくに退院してたのかな…?
と思ってとりあえずナースセンターで聞いてみた。
「遠い所にいった」とかうまくはぐらかされたけど、
俺も小6だったし、そこまでバカじゃない。
その場の空気や後ろの看護婦が泣き出したのを見ても明らかだった。
俺がショック状態で呆然としてる中、その看護婦が
「ああ、そういえばさやかちゃんから、
リョータ君が来たら渡しといて、って言われた物があるのよ」
と言って俺にそれを渡してくれた。
借してあげたゲームボーイとSaga2だった。
俺はそれを受けとって家に帰った。
帰るなりメシも食わないで、
暗い自分の部屋でゲームボーイのスイッチを入れた。
87:1:2011/10/28(金) 15:50:54.15 ID:hUANwWtH0
189 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。[5/5] 投稿日:2007/10/26(金) 18:36:09.40 ID:Y1O2bH6d0
もう一つのデータはやたらレベルの低いデータだった。
最初から始めてすぐ飽きたんかな?
と思ってそのデータをロードしてみた。
パーティー四人の名前がこうなっていた。
「リョータ」
「いろいろ」
「ありがと」
「バイバイ」
…今でもSaga2のOPの曲を聞くと涙が出るよ。
お見舞行ってあげられなくてゴメンな…。
89:1:2011/10/28(金) 16:00:56.52 ID:hUANwWtH0
母ちゃん、いい加減ビデオ録画のやり方覚えろよ
母ちゃん、オーマイ・リットル・ガール♪じゃねえよ
母ちゃん、悩むなよ その服リバーシブルだよ
母ちゃん、びっくりすんなよ それ湿度計だよ
母ちゃん、金無いくせに大学なんか行かせんなよ
母ちゃん、母の日はアンタの為にあるんだよ これっぽっち受け取れよ
母ちゃん、「男子たるもの人前で泣くべからず」なんて家訓作るなよ
母ちゃん、笑いながらブッ倒れんなよ ギャグかと思っただろ
母ちゃん、余命宣告されて爆笑すんなよ 反応に困るよ
母ちゃん、休んでろよ 俺に任しとけよ 良くなるに決まってんだろ
母ちゃん、だから大丈夫だって 大人しく病院で寝てろよ
先生、なんでもするから母ちゃんを助けてやってくれよ!
母ちゃん、痛いの我慢して変な顔になってんよ 笑えねえんだよ
母ちゃん、人沢山いるのに俺泣いちゃったよ
母ちゃん、母ちゃん、産んでくれてありがとよ
93:1:2011/10/28(金) 16:09:47.23 ID:hUANwWtH0
548 :水先案名無い人:2006/06/23(金) 18:39:57 ID:8qJ8h9f00
俺のかーちゃん、俺が高3に上がったときに
いきなり倒れて入院した。
検査をして入院が決まったが
俺は内容を詳しくきかされなかった。
夏頃から受験勉強もあって
かーちゃんに会いにいく時間も取れなくなっていった。
俺は決して頭が良くはなかった。かーちゃんは立教大学出身
俺は小さい頃良く「かーちゃんと同じ大学にいく」と言ったものだ。
実際に受験となると、ハードルは高かったけれど
立教を目指してがんばった。
冬になり、かーちゃんは次第に痩せていった。
飯も食わなくなり、俺の手を良く握るようになった。
かーちゃんは俺に色々話をさせた
学校 進路 夢
思えば何であのとき気がつかなかったんだろう…
涙が…ちょヤバ…
最後の模試の結果が出た。
努力の甲斐か、立教大B判定が出た。
俺からすれば奇跡に近い判定
おれは帰りに病院に行き結果を見せた。
俺「かーちゃん、おれ立教大いくよ。判定もホラ」
得意げに模試を見せた
かーちゃん「がんばってるのね
タケシ(仮)が後輩になってくれたらかーちゃん嬉しいよ」
その日もかーちゃんは俺にたくさん話をさせた
俺の手を握りながら…楽しそうに
94:1:2011/10/28(金) 16:11:55.37 ID:hUANwWtH0
260 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。[2/4] 投稿日:2007/10/26(金) 19:24:05.37 ID:Y1O2bH6d0
それからすぐ、俺は大学入試を迎えた。
大本命の日、朝早く起きて下に降りるとかーちゃんが台所にいた
俺:何やってんだよかーちゃん、寝てなきゃ
母:今日は本命の日でしょ、お弁当持ってきなさい
一年ぶりのかーちゃんの弁当だった
俺は涙が出るのをこらえながら準備をして出かけようとしたとき
かーちゃんが急に苦しみだした
俺は急いで病院に電話し、救急車がきた
家には俺しかおらず、付き添って行った。
意識が飛びそうになるくらい
混乱しながら苦しむかーちゃんの手を握った。
病院についてすぐ親父も駆けつけた。しばらくして担当医に呼ばれた。
最期になるかもしれないのでついてあげて下さい
俺と親父が病室に入ったときかーちゃんは無惨なほどだった
血の気は引き、やせ細り…しばらくして意識が戻った
かーちゃんはいつもみたく手を握った
病人とは思えないくらい強く 俺は子供みたいに泣いていた…
かーちゃんは声にならない声で何かを呟いていた。
俺は耳を近づけて聞き取ろうとすると確かにこう言っていた
「うけてきなさい」
そしてかーちゃんは俺から手を離した
95:1:2011/10/28(金) 16:14:34.96 ID:hUANwWtH0
261 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。[3/4] 投稿日:2007/10/26(金) 19:24:45.80 ID:Y1O2bH6d0
そんなの無理に決まっている。
かーちゃんを置いて受験に行くなんてしかももう8時を回っている
間に合うとしてもギリギリだった。困惑した俺に親父が声をかけた。
「行ってきなさい、母さんもそうしなさいと言ってくれてるんだ」
俺はかーちゃんのてをもう一度握ると弾けたように病室を飛び出していた。
そこからどうやって来たかはおぼえていない。
走って…乗り換えて…池袋駅を疾駆して
何とか一限の筆記を受けたときやっと正常な時間の流れに戻った気がする。
昼休み、何も食べる気がしなかったがかーちゃんの弁当を思い出した。
俺は中庭でそれを広げた時
何とも言えない懐かしさと何かこみ上げるものを感じた。
それは俺が中高5年間食べたかーちゃんの弁当だった
おいしい…涙をこらえ食べた かーちゃん…
それからは流れるように時間がたち手応えも何も感じないまま
フラフラと地元まで帰った…
病室に入ると、かーちゃんは居なかった
看護婦さんに聞いて霊安室につれていってもらった。
数名の御遺体の中、変わり果てたかーちゃんを見つけ
俺は叫びともつかない嗚咽をし、かーちゃんを抱きしめた。
担当の看護婦さんに連れられてラウンジで落ち着くまで色々な話を聞いた。
かーちゃんは俺が来た数日は本当に機嫌がよかったそうだ
看護婦さんや医者、同じ病室の人にも よく俺の話をしていたらしい。
逆に俺が来ない日が続くと元気がなく、泣いている日もあったという。
帰り際に、一枚のメモをもらった。
病院備え付けの薄っぺらいメモ用紙には
震えた力無い「お疲れさま」の文字があった。