
お祭り気分なんでしょうか?
今日も神田では中国人経営の中華屋さんは普通に繁盛致しております。
日本人の度量の深さには本当に感心する・・・
日本では教科書にさえ載せられてなのですが
過去に中国人が日本人を皆殺しにした事件をごぞんじですか?
通州事件をはじめとして在留邦人が惨たらしく殺戮された事件はかなりの数、また多くの犠牲者を数えております。
しかもその多くは戦時中ではなく戦前、戦後に行われているのです。
下記は相当、長い引用ですが気の向かれました際にご一読下さい。
最後のYouTube動画に関しましては悲惨な画像も含まれておりますので、閲覧には覚悟が必要かと・・・
通州事件
保安隊、デマ放送に踊り反乱す
盧溝橋事件発生から3週間後の7月29日、北平(北京)東方の通州で中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生した。
世に言う「通州事件」である。
中国に気兼ねする余り、我が国の歴史学者が口を緘(かん)し、教科書も新聞も雑誌も一行すら書こうとせぬこの世紀の大虐殺―――。
恨みを飲んで殺された200数十名の同胞への鎮魂の気持ちを込めて、この事件を書き留めておこう。
通州の冀東(きとう)防共自治政府は、昭和10年、親日家の殷汝耕が南京政府から離脱して創設した政権で、1万余の冀東保安隊を有していた。
この保安隊は、昭和8(1933)年塘沽(タンクー)停戦協定に基づいて置かれたものであったが、所要以上の人員を有し、また銃と剣だけではなく、機関銃や野砲も持ち、保安隊と称し得る以上の戦闘能力があった。
さて通州の宝通寺に中国第29軍の1個営が駐屯していたが、7月25、26日廊坊、広安門の両事件が発生するに至って、通州特務機関も、この宝通寺部隊の処理を考える必要に迫られた。
この部隊は日中関係悪化と共に、去就(きょしゅう)すこぶる曖昧(あいまい)になり、放置しておくのは危険と判断されたのである。
そこで廊坊事件直後の26日、日本側は宝通寺部隊に対して北平(北京)への撤退を求める最後通告を行った。
だが中国軍からの回答はなく、遂に27日早朝、我が軍は攻撃を開始、正午までに宝通寺部隊は敗走、潰滅(かいめつ)した。
ところがこの戦闘で、支援のため飛来した関東軍の爆撃機が、誤って宝通寺兵営と隣接する冀東保安隊幹部訓練所に爆弾を投下し、数名の保安隊員が死亡するという不幸な事態が起きたのである。
保安隊は我が爆撃機が対地戦闘を開始するや、好奇心から隊員一同が訓練所校庭に飛び出して爆撃を見物していたのだが、飛行機には冀察と冀東の境界線も保安訓練所の位置も分からず、脚下で騒いでいる保安隊を29軍の一味と速断したのも無理のない事であった。
誤爆の報に接するや、細木特務機関長は直ちに冀東政府の殷汝耕長官を往訪(おうほう)し陳謝するとともに機関長自ら現場を視察、遺族の弔問(ちょうもん)に奔走(ほんそう)した。
更に翌28日には保安隊教導総隊幹部一同に対して誤爆について釈明し、慰撫(いぶ)に努めたのであった。
調度、事件の起こった27日頃、デマを流すので有名な南京放送(中国国民政府の御用放送)が「盧溝橋で日本軍は29軍に惨敗し、豊台と廊坊は完全に中国軍が奪還した。中央は陸続、華北の戦野んい兵を進めつつあり、日本軍の潰滅も旬日のうちであろう」と事実と正反対の放送を流した。
南京政府は最後に「軍事会議の結果、蒋委員長は近く29軍をもって大挙(たいきょ)冀東を攻撃し、偽都・通州を屠(ほふ)り、逆賊殷汝耕を血祭りにすることを決議した」と叫んでいた。
これは我が北平(北京)特務機関が聴取したのである。
このデマ放送が北京方面の実情に疎(うと)い通州の中国兵に相当の心理的動揺を与えたことは疑いない。
通州保安隊は張慶余指揮の第1総隊と張研田指揮の第2総隊であったが、早くから人民戦線運動の影響を受けていた。
「日本軍敗走」「冀東攻撃」という南京のデマ放送は、彼らの抗日態度を決定的ならしめ、日本側に付いているよりも29軍側に寝返った方が有利であるとの誤った判断を抱かせたに違いない。
折もおり、通州の日本軍守備隊は、主力が南苑攻撃に向かい、留守部隊は藤尾小隊40名、山田自動車中隊50名、それに憲兵、兵站(へいたん※補給の事)、兵器部その他を合わせて110名程度の微弱な兵力でしかなかった。
我が部隊の手薄なこの時期を狙(ねら)って、張慶余、張研田の両保安隊は日本軍民への襲撃を開始した。
夜影に乗じて長官公署を襲って殷汝耕を拉致し、主力は日本軍守備隊を襲撃した。
我が方の残留兵力は極めて僅少ではあったが、千数百を算する敵の攻撃に対して死力を尽くして戦った。
守備隊には軽機関銃、小銃、手榴弾があるのみで重火器は無かった。
保安隊の装備の方が遥かに優れていた。
守備隊は敵の集中砲火を浴び、死傷者の続出する中で撃退に努めたが、居留民や特務機関まで守る余裕は無かった。
鬼畜と化した中国保安隊の日本人居留民に対する暴虐は、この間に進行していた。
また通州特務機関は、1個中隊ほどの保安隊の襲撃を受け、2名の少年給仕(日本人)を含む機関員が死力を尽くして応戦したが、数十倍の敵には抗し難く、遂に全員が壮絶な最期を遂(と)げ、特務機関は全滅した。
悪獣も及ばぬ猟奇の惨殺劇
中国保安隊は我が守備隊や特務機関を攻撃したのみならず、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、無辜(むこ)の居留民(多数の老幼婦女子を含む)に対して略奪、暴行、凌辱(りょうじょく)、殺戮(さつりく)などおよそ残虐の限りを尽くした。
中国兵特有の猟奇的な殺害、処刑の場面が白昼堂々、各所で展開された。
その凄惨(せいさん)なること、かつての南京・済南両事件を上回り、我が軍の危惧(きぐ)した通り、尼港事件の再現となったのである。
東京裁判で弁護側は、同事件に関する外務省の公式声明を証拠として提出したが、ウエッブ裁判長はこれを却下した。
所謂(いわゆる)"南京事件"で裁判長が中国側の公式資料を証拠として採用した事を考えると、公平を欠いた裁判指揮であった。
しかし虐殺現場を目撃した証人の宣誓口供書は受理されたので、そこから惨劇の一端を拾い出してみよう。
当時、天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長で、7月28日の南苑戦闘に参加した後、30日午後通州に急行して邦人救援に当たった萱島高証人は凡(およ)そ次の如く証言した。
「旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。」
まさになぶり殺しではないか。
中でも悲惨を極めた旅館・近水楼での惨劇について通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述は次の通り。
「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」
(注)近水楼を襲撃したのは武装した黒服の学生団と保安隊であった。彼らは女中数名を惨殺、残る10数名の男女従業員・宿泊客に対して金品を強奪した後、全員を麻縄で数珠つなぎにして銃殺場に引き出し、処刑したのであった。
その凄惨極まる処刑場の情況については、当時だれ1人これを知るものもなかったが、当日近水楼に泊まり合わせた同盟通信特派員・安藤利男氏が命がけで銃殺場から脱走し、北京にたどり着いた結果、世界はその実相を知ったのであった。
安藤氏の手記は「続対支回顧録」に、体験談は寺平前掲書に収録されている。
安藤氏の体験記は「通州の日本人大虐殺」として「文藝春秋」昭和30年8月号に掲載され、その後「文藝春秋にみる昭和史」第1巻(昭和63(1988)年1月)にも転載されたが、それには、いかにも戦後のものらしい解釈がつけ加えられている。
支那駐屯歩兵第2連隊小隊長として7月30日、連隊主力と共に救援に赴(おもむ)いた桜井文雄証人によれば、
「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。「日本人はいないか?」と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここの埃箱(ゴミばこ)の中や壕(ごう)の中から続々出てきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」
実に悪鬼も目をそむける酷(むご)たらしい淫虐(いんぎゃく)の情景が次々と証言されて行った。それは正しく悪獣も及ばぬ極悪無道の所業であった。
(注)お決まりの虐殺方式 上の東京裁判証言に明らかな如(ごと)く、通州事件でも、頭部切り落とし、眼球抉(えぐ)り取り、胸腹部断ち割り、内臓引き出し、陰部突刺など支那軍特有の猟奇的虐殺が日本人に対して行われている。日清戦争以来、お決まりの惨殺パターンと言ってよい。
事件は保安隊の計画的行動(中国側新資料)
在留日本人380名中、惨殺された260名。
冀東防共自治政府2ヵ年足らずの歴史は、ここに通州事件という世紀の惨劇をもって幕を下ろした。
中国人が日本人を虐殺した数多くの事件の中でも、その凄惨なることで通州事件をしのぐものはない。
その残忍なること、悪鬼すらかくまではすまじ、と思われる極悪の所業であった。
通州事件は冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舎を爆撃され、疑心暗鬼になって起こした反乱であるとの説が我が国では流布している。
つまり誤爆した日本側に責任がある、とする例の日本悪玉論の亜流である。
だが、日本軍誤爆説は昔日のものであり、もはや中国でさえ通用しない。
誤爆があったのは昭和12(1937)年7月27日だが、誤爆を知った細木特務機関長は直ちに冀東政府長官・殷汝耕を往訪陳謝すると共に、自ら現場を視察し、遺族の弔慰に奔走、翌28日保安隊教導総隊幹部一同に対し、誤爆原因について釈明、慰撫に努めている。誤爆原因説では保安隊の反乱やその後の日本人大虐殺は説明し切れず、通州事件の説明はいま一つ釈然とせぬものが残っていたのだ。
ところが近年になって、通州事件は冀東保安隊第1、第2総隊の計画的行動であることが中国側史料によって明らかとなった。
例えば、張慶余(当時冀東保安隊第1総隊長)の「冀東保安隊通県決起始末記」(元国民党将領抗日戦争体験記叢書「七七事変」所載)や「戦火蔓延、平津陥落」及び「冀東保安隊の決起について」(武月星他「盧溝橋事変風雲偏」)等である。
詳細は割愛するが、要はこうである。
昭和10(1935)年11月に冀東防共自治委員会が成立して河北保安隊が冀東保安隊と改称されるや、第1総隊長・張慶余は河北省主席・商震に指示を仰いだところ、暫(しばら)く表面を糊塗(こと)すべしと言われた。
12月、冀東政務委員会が発足して宋哲元が委員長に就任すると、張慶余は第2総隊長・張硯田と共に哥老会(かろうかい、明代からの秘密結社)の首領・張樹声を通じて宋哲元と面会した(張慶余・張硯田ともに哥老会会員)。
宗哲元は両名の抗日決意を「政府を代表して」歓迎すると述べ、軍事訓練を強化して準備工作をしっかりやれと命じ、各々に1万元を贈った。
2人が「委員長に従って国家に忠誠を尽くす」旨(むね)を述べると、宋哲元は「素晴らしい、素晴らしい」と言った。
通州での決起はこの会見と関係がある―――こう張慶余は告白しているのだ。
翌昭和11(1936)年春には、張硯田の第2総隊内にすでに中共支部が結成されていた。
宋哲元との会見以後、冀東保安隊は29軍(宋哲元軍長)と秘密裡(ひみつり)に連携を保ったが、昭和12(1937)年7月盧溝橋事件が発生すると、張慶余は河北省主席・馮治安(ひょうちあん)に指示を仰いだ(宋哲元は北京に不在)。
馮は第29軍の開戦に呼応して通州で決起し、同時に一部保安隊で豊台を側面攻撃して狭撃の効果を挙げようと指示すると共に第29軍参謀長・張越亭と連絡せしめ、張越亭は直ちに冀東保安隊第1、第2総隊を戦闘序列に編入した。
他方、張慶余、張硯田両総隊長は、通州特務機関長細木中佐が、第29軍の通州攻撃を防ぐために開いた軍事会議の席上、密かに示し合わせて細木機関長を欺(あざむ)き、分散していた配下の保安隊を通州に集結させるよう提案した。
両名を信頼していた細木中佐はこれに賛成、かつ散在していた日本居留民を保護するため通州に集合させたのであった。
欺して準備が整うや、7月28日夜12時を期して通州城門を閉鎖し、一切の交通、通信を遮断して決起に移ったのである。
中国側の最新史料によれば通州反乱に至る事情は大要先の通りである「誤爆」などどこにも出てこない。
通州事件は2年間にわたる秘密裡の計画に基づく日本人襲撃事件だったのであり、日本機に兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となって保安隊が起こした事件などでは全然ない。
事件は先のごとく計画に基づく反日蜂起であったが、保安隊がその計画の実行に踏み切ったについては、誤爆のような突発事件によってではなく、別の、もっと打算的な原理によって動かされたと見るべきであろう。
既述のごとく、南京政府は「日本軍敗走」というデマを流していた。
「日本軍を破った」宋哲元の29軍が冀東に攻め込んできたら自分達の運命はどうなるのか。
この際、冀東政府についているのは甚(はなは)だ危険である。
機先を制して殷汝耕を生け捕りにし、これを宋哲元と蒋介石に献上するなら、必ず恩賞に与(あずか)ることが出来るに違いない。
これが南京のデマ放送を信じた反乱者の思惑だったのである。
そして、昨日まで友軍であった日本守備隊に対し、その兵力の最も手薄な時を見計らって蜂起、襲撃を敢(あえ)てしたのであった。
殺のために殺を好む
保安隊のこのような動機は、信義を踏みにじっても強者につくという、権謀述数渦巻く戦乱に明け暮れてきた支那民族特有の叛服なき性格に根ざすものであり、信義を重大なものと考える我が国民の到底理解し難いところである。
(注)通州人の特性 通州人は由来、軽佻浮華、計較の術に長じ、打算的で義侠心が無いと言われる。金、元、明、清各朝の興亡史に「通州陥る」「通州降る」などの文字が見えるのもこのためだと言う。通州に昔「渡橋降伏」という言葉があった。敵が八里橋(通州城西門から八華里にある橋で通州八景の1つ)を渡ってしまえば降伏するに如かず、の意味である。このように鼓騒城外に迫れば闘わずして通州人の心胆は氷のごとく冷たくなり、忽(たちま)ちにして腰を抜かしてしまう性向があると論ずる向きもあるが(中野江漢「事変と北支の風物」、「文藝春秋」昭和12(1937)年9月号)、通州事件を考える上で参考になるかも知れない。
斯(か)かる背信行為そのものが許し得ないことであるが、仮に百歩を譲って、日本守備隊に対する攻撃は、保安隊がすでに共産思想に染まっていたことからして理解出来る面があるにしても、無辜(むこ)の日本人居留民260余名の惨殺は全く殺のために殺を好む鬼畜の所業であり、天人共に許さざる蛮行である。
罪なく、抵抗力もなき幼児・婦人に対してさえ、一片の憐れみの情を示す事もなく、ただ日本人であるからという理由で白昼平然と犯し、掠(かす)め、凌辱し、惨殺して行った彼等支那保安隊は、人身を装う悪鬼悪獣と言わずして何と呼ぶべきであろうか。
通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)
日本人皆殺しの地獄絵
1937年(昭和12年)7月29日。73年前の昨日、北京の西の通州において、数百人の日本人居留民が虐殺されました。
大東亜戦争の一つのきっかけになったとも言われる通州事件です。
通州の日本人居留民は、日本軍守備隊の留守をねらった支那の保安隊、学生により、世界の残虐史上類例を見ないほどの残虐行為を受け、虐殺されました。さらに支那人達は、殺した日本人に対して一片の同情も哀れみの心もなく、その屍体までもいたぶっているのです。
かけつけた日本軍がそこで見たものは、言語に絶する惨状であったそうです。支那人は南京で日本軍が大虐殺を行い、妊婦の腹を裂き、胎児を銃剣で突き殺すなど、悪逆非道の限りをつくしたとデッチあげて日本を非難していますが、通州事件を見ますと、日本軍が行った行為と言っているのは、つまり、支那人自身が行ったことに他ならないことが解ります。
通州事件は、殆どの日本人から忘れ去られようとしていますが、日本人居留民の無情な殺され方を、そして支那人の持つ残虐性を私達日本人は決して忘れてはいけません。
通州における惨劇は、多くの人が証言していますが、実際の体験者であるSさんの話を、拙ブログで採り上げ、一人でも多くの日本人に知ってもらいたいと思っています。大変長い話ですので、何回かに分けて掲載させて頂きます。
Sさんの体験談
私は大分の山の奥に産まれたんです。すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんという支那人と出会ったのです。
このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に『Sさん私のお嫁さんにならないか』と申すのです。私は最初は冗談と思っていたので、『いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。』と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。そのときは全く驚きました。冗談冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。
でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。とYさんは強い言葉で私に迫ります。それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。支那の人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。
でも、無事結婚式が終わりますと、すぐに支那に帰るというのです。でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。それで仕方ありません。私はTさんに従ってその年の三月に支那に渡りました。
長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。それは昭和九年の初め頃だったのです。Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だったのです。しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。
通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、支那人の服装に替えておったのです。すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていました。それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。
そして、商売の方もうまく行くようになりました。Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。だから買う人にとってはとても便利なんです。Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。
ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。
只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。そして安重根という人の話を語りました。伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。
こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人
だけになりました。日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。
そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍が支那を立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。
行商に歩いていると日本人に出会います。私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」と支那人達に言うのです。最初の頃は支那人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、支那人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。私はあまり心配だからあるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。
それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうした支那人達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。それは支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。私はTさんには悪かったけれど、紙一杯に委しくこうした支那人達の動き、朝鮮人達の動きがあることを書きました。そして最後に用心して下さいということを書いておきました。この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。
これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。でも何も変わったことはありません。これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。
昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。日に日に日本に対する感情は悪くなり、支那人達の間で「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。その当時のよく言われた言葉に「日本時は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのは支那だ」という言葉でした。私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。支那の子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔を支那が滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。
三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。私はびっくりしました。それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いや支那という国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。しかし日本に帰るべくT山河にほんの状況をいろいろ調べてみると、日本では支那撃つべし、支那人は敵だという声が充満していたそうです。そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。
日本人の居住区にもよく行きました。この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。でもTさんはそれを許しません。それで日本人の居留区日本人と話すときも支那語で話さなくてはならないのです。支那語で話していると日本の人はやはり私を支那人として扱うのです。このときはとても悲しかったのです。それと支那人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人が支那人に対して優越感を持っているのです。ということは支那人に対して侮蔑感を持っていたということです。相手が支那人だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くの支那人が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。このことが大変悲しかったのです。私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいる支那人に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。こうした日本人の傲りと支那人の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。
Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。それだけにこの通州の支那人の日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、「困った、困った、こんなに日本人と支那人の心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」と言うのです。そして支那人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。いやむしろ支那人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。
しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。そして「危ない」「危ない」と申すのです。それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、支那人が殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。だからといって逃げ出すわけにもまいりません。そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。それが七月になると「日本人皆殺し」「日本時は人間じゃない」「人間でない日本人は殺してしまえ」というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。
(続く)