この記事は、
30年後のクルマについて書いています。
「走ること」
大地を蹴って、前に突き進むこと。
「走ること」
それは、
人類普遍の共通価値観であって、
人類普遍の歴史と共感性・正統性の拠り所である。
少なくとも、古代~現在に至るまでは・・・。
『シルシルミシル』で、スーパーボールを300km/hで、壁面に当てていて、
そりゃもう、一瞬、液体へと変形している、という現象を伝えてましたが、
タイヤについても、コレと全く同じ現象が、言えるわけであって。
高高速域で走るってことは、
はい、
タイヤも、もはや、一瞬一瞬、液体の如く変形しているわけですから。
(厳密には、高高速域でなくとも、そうである、というが)
突き詰めていえば、
高高速域を志す移動体にとって、
「車輪」特に「タイヤ」というのは、存在することそれ自体が、非効率極まりないのであって、
はい、
つまりですねぇ、
「究極の走り」、
少なくともそれが、「高高速域を志す」というのなら、
タイヤが、車輪が、
無いほうが、浮いている方がいいわけですねぇ。
そうすると、
「30年後のクルマはどうなっているか?」
という問いかけに対しては、
「・・・・飛んでるんじゃねーの?」
という回答が必然的に発生するわけで・・・。
しかし・・・私は、
「走り屋魂」が全ての中心にある私は、
コレに「大反対!!!!!!」である!
何故って?
ほぼ全てのドライビング技術が、クソの役にも立たなくなる!
ってゆーか、
「走り」じゃなくて、「飛び」になった時点で、
「走り屋」なるものは、
キレーーーーーーーーーーーーーーいに、
抹消されるしかない!
「30年後のクルマはどうなっているか?」
「・・・・飛んでるんじゃねーの?」
普通なら、
「・・・・飛んでるんじゃねーの?」
は、
希望的な言い方で語られる。
しかし、私は、コレに大反対だ。
クルマが車でなくなったとき、
「走り」は、「飛び」になってしまう。
必然的に、「走り屋」は消滅するしかない。
それだけじゃない。
間違いなく、
人類の歴史と価値観が、変わってしまう。
まあ、そういう人文科学的な話以前に・・・、
タイヤ無しで・・・浮く?
浮く・・・クルマ・・・。
浮くには・・・Gディフューザー機構(反重力あるいは、それに近いもの)・・・、
コレって・・・世に言う「UFO」・・・汗。
で、
「30年後には、クルマは、Gディフューザー機構を備え、今でいうUFOになっている」
のであれば、
逆算すると、
「UFOは、技術的に存在しており、それが隠蔽されている」
という話に行き当たる。
冗談じゃない!
まとめると、こうだ。
「30年後のクルマはどうなっているか?」
(最も、前衛的とされる答え)「・・・・飛んでるんじゃねーの?UFOってやつ?」
「飛んでいる、UFO化」について、
おおかたの多数意見は、たぶん、「いいんじゃない。飛んだって、クルマはクルマ」
「飛ぶ」ということについて、
おおかた近現代人の感覚は、「いけ!いいぞ!飛べ!」
しかし、
「私の魂」は、「走り屋」なので、
クルマに飛ばれてしまっては、「走り屋滅亡!」
だから、全力で、こう言わざるを得ない。
「飛ぶな!地を這い続けろ!クルマよ、走りつづけろ!」
言い方を変えれば、
「UFOは・・・きっと、あるだろう。既にあるのに、隠蔽されているのだろう。
・・・あってたまるか!
UFOなんてあってたまるか!
フイーンフィーンフィーンうぜーんだょ!!」
Posted at 2010/08/22 14:07:04 | |
トラックバック(0) |
463 | 日記