
画像は、コブラ機動するスホーイ。
10月13日時点で、みんカラ注目タグに、何ゆえに、「ブルーインパルス」が出ていたのかは不明だ。多分、航空祭があったとか、そういう理由なのだろうけれども。
フィギュア・・・、動的で、しかも、散華の可能性を多分に含んだ危険な美、昨日私はこういうことを書いたが、ブルーインパルスの「アクロバット飛行」による「演技」は、まさに、そうした「美」、「動的な美」の世界の象徴だ。それは、人間の感性を、直接揺さぶるのである。
(もちろん、あれは、編隊飛行の要素が多分にあるから、相当に綿密な計画と機械的な技術トレーニングの成果なのだから、「数的要素」に近いわけであるけれど。)
まさか、世の中に、フィギュア的な波動が満ちて、私も、それに影響されている・・・ということはないだろうけれど、科学的に証明できないだけで、因果関係があるかもしれない。
そう、今日の話でブルーインパルスであるとか、アクロバット飛行を取り上げることが、凄く好都合なのだ。
「ソリスト」。
この単語が「耳慣れない」。
人から、そういう指摘をしょっちゅう受ける。
ブルーインパルスの搭乗員も、正確には、「ソリスト」と表現した方がよい気がする。
通常、アメリカ空軍等では、戦闘飛行隊の搭乗員のことを、
「イーグルドライバー」であるとか、「ラプタードライバー」であるとか、
「ドライバー」という名称で呼ぶ。
(海軍用語から生じたといわれる、航海士の最高位である「水先案内人」になぞらえた、「飛行士」という意味での「パイロット」という敬称については、わが国には、海軍航空隊の戦闘飛行隊に類似する集団は現存しないため、割愛せざるを得ない。)
これは、淡々と任務をこなし、航空優勢や制空権を確保・維持し、時に撃墜スコアを出すという、空軍の作戦の特性からは、そう呼ぶのが適当だともいえよう。
ところが、航空ショーにおけるアクロバット飛行は、人の心を揺さぶる「美の世界」演技である。
だからして、これにおいて、飛行機を操る搭乗員は、シンクロナイズドスイミングの泳者やフィギュアスケーター、ピアノ奏者などと同じく、「ソリスト」という呼称を用いるのが適切なのである。
ただ、言っておくが、「ソリスト」と呼称するからといって、それが、「戦い」や「芸術世界への没頭」を意味するものでは決してない。
1989年のパリ航空ショーでSu-27テストパイロットのヴィクトル・プガチョフの手によって初めて公開された、「プガチョフ・コブラ(Pugachev's Cobra)」がその有名な例だ。
これは、戦闘機マニアだけでなく、現代小説をよく読む人(私も含めて)は知っていると思う。
水平飛行中に機首を90度持ち上げ、その状態のまま水平飛行・大減速を行うという、ストールターンの一種で、後に「コブラ」と呼ばれる機動なのだが、これが与えた衝撃は凄いものがあったといわれている。
実際のところ、空戦中にコブラを使って大減速を行い、追跡してくる敵機をオーバーシュートさせ、後方を取って迎撃するという方法を考え付く人は多い。しかしながら、実際は広い機体背面を一瞬であれ敵機に見せる上、運動エネルギーを大量に失うためリスクが大きい。故に、航空優勢の確保を第一目的とする戦闘機乗りの多くは空戦での使用に否定的だ。
さて、自分は空戦術については門外漢で、現代小説を差し障り無く読める程度の知識しかない上に、
ジェット戦闘機関連の個人的体験については、「トムキャットに対するマイナスの感情」(こう書いただけで、相模地区の人にはこの上なく伝わる。)しかない起こらないので、この辺で、空戦技術の話はやめにしておきます。
しかし、この「演技」が世界中に与えた「波紋」は大きい。
少しこのブログにも書いた作品名を揚げると、2008年の映画『スカイクロラ』もこのひとつで、主人公の函南君とティーチャーはコレ系の動きを、「必殺技」として用いることが、しきりに強調されている。ただ、この作品は、あくまで、昭和21年頃の技術水準で、しかも昭和21年くらいの技術水準なのに、「ジェットなし」「ロケットなし」「核も存在しない平和的戦い」が行われている設定だったり、函南機(どうでもいいが、あの散香は彼にとって3機目なのか、最初に乗ってきた機体なのか?)が、ティーチャーによって粉砕されるシーンも、わざとらしくカメラアングルをグルグル回していたりするので、何かに必死になっている人間には、鈴木君だの走り屋としての私だの、そういう以前の話しとして、空虚感とか、嫌がらせめいたカンジに映るのだけれど。
(『スカイクロラ』の他にも、今思いつくだけでも、鳴海章氏の小説であるとか、「スターフォックス64」とか。「エスコン」については言及不要でしょう。
ただ、ひょっとすると、『スカイクロラ』の「技」の出典は、1989パリ航空ショーではなく、西沢広義エースの「秘技」の方が正解である可能性もある。『大空のサムライ』など、大東亜戦争期のストーリーを、私はあまり読んでいないので、ひょっとすると、基本的な「技術的誤認」をしているかもしれない。)
とはいえ、航空優勢の確保という作戦達成、あるいは、撃墜スコアを伸ばすことからすれば、実際は否定されている動き方であっても、「人の心を突き動かし、影響を与える」、また、あえてそれを目的とした「美を追求する世界」においては、大きな意味を持つのだ。1980年代の「衝撃」が、2000年代の文芸界等にも影響しているのだから、それは凄まじいものである。
さしずめ、レシプロ、スーパーチャージャー、ターボ、ロケット、ミサイル、レーダー、ステルスなどの「戦力としての有形物」が「生もの」であるのに対し、「美」は半永久的な要素を多分に含んでおり、ヴィクトル・プガチョフやユルギス・カイリスはじめ、ブルーインパルスのメンバーたち、「ソリストとしての操縦士」は、「撃墜王」に勝るとも劣らない、リスペクトされるべき存在だと心底思う。
さて、「ドライバー」であるとか、「ソリスト」であるとかいった呼称表現の話は、走り屋の世界にもそのまま当てはまる話であって、「美を追求する者」としてのドリフト演技者は、「ソリスト」と表現することが適切だろう。
対して、淡々と速さを向上させようとする「速さ」「数」を追求する者には、やはり「ドライバー」の呼称が適切である気がする。
ほかにも、「ファイター」という言い方も考える必要があるが、
それを考えると、「制空権」・・・「日本に制空権はほぼ無い」とかいう話になってしまって、私の中の日本人意識によってハラワタが煮えくり返り、話の収集がつかなくなってしまうので、このへんでやめておこう。
さて、
舞台は、県道70号線。
いわゆるヤビツ峠の宮が瀬湖側の話だ。
このエリアに集うドリフト族の攻め方は半端なかったという。
極限の美を求めて、ガードレールぎりぎりまでを、その走行ラインとしていた。
この動的な美の限界を求める行為に宿る魂は、峠という場所と結びつき、時として信仰と評するのが適切な、崇高なる領域まで高められるのである。
「美の世界」「フィギュアの世界」の場合、「限界を攻める」ことを避けて人の心を突き動かすことは、とても難しい。
だからして、限界ギリギリのライン取りが、ここのドリフト族にも必要不可欠心であったのだけれども、山岳道路の道の端は、落ち葉によって、意図せぬ滑りを誘発させ、クラッシュの原因となる。
だから、このステージでドリフトを行うソリストたちは、落ち葉拾いをやっていた。
この行為は、この宮が瀬エリアのドリフト族の、「信仰形態」のひとつでもあったわけだ。