• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

猛走峠のブログ一覧

2009年10月16日 イイね!

ソリストの魂と散華(さんげ)の美

ソリストの魂と散華(さんげ)の美まず、近況の機械整備の話。
画像は取り外したプラグ。
新車時から装着。
つまり、純正品でNGKのものが使われていた。
交換日に至るまで、約72,250km使用。
見た目、焦げている。かなり焦げている。
ただ、残念ながら、この焦げが、どういう意味を持っているのか、詳しく現象解析・チューニング方向の決定ということをする能力は、残念ながら、今の私にはない。
「熱価の高いものに交換すべし」
「5B=5番?→じゃあ、6番くらいにすべき?」
このくらいのことしか考えることができていない。
どうか、諸先輩方、プラグの知識をご伝授下さい。


では、宮が瀬の話。

「君も、ドリフトをやっていたなら、落ち葉拾いはする気だった?」
「ええ、もちろん。自分が、ドリフト族なら、ドリフト族として、限界の美を求めるソリストになるために、オレは絶対にやってましたよ。落ち葉拾い。」

舞台は、県道70号線。いわゆるヤビツ峠の宮が瀬湖側の話で、このエリアに集うドリフト族の攻め方は半端なかったということ、極限の美を求めて、ガードレールぎりぎりまでを、その走行ラインとしていたこと、この動的な美の限界を求める行為に宿る魂は、峠という場所と結びつき、時として信仰と評するのが適切な、崇高なる領域まで高められるのであることを書いてきた。


ともかく、現実問題として、
「美の世界」「フィギュアの世界」の場合、「限界を攻めること」、これを避けて人の心を突き動かすことは、とても難しい。

これは、ドリフトに限ったことではなく、美の世界一般にいえることだ。
だからして、「美の世界の住人」、特に「動的な美を表現する者たち」には、「極限」「限界ぎりぎり」を攻めようとする者が多い。
「フィギュアスケート」は、「4回転ジャンプ」を以って、「凄い!」という賛辞を受けられるわけだが、それこそ、あの手のスケーターの選手寿命は・・・。
また、モデルの世界でも、「痩せていること」「ギリギリまで、貧血寸前まで痩せていること」が、脂肪のムダさを寸分も感じさせない、線形美の極限の形だといわれていたわけで、それに伴う「痩せすぎモデル」の弊害話は有名だし、一説によるとファッションモデルの「モデル寿命」は・・・。

だからといって、これを調和のとれた「ありがちな普通の美」のレベルに落としこむことは、決して許されない。
多数の人はそれで許容できても、
少なくとも、我々のように、現在進行形で、魂が何かを求めている者の心を撃つことはない。
だからして、こうした「美の世界の住人」の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想なのであるし、そうでなくては、表現される動線を見たとき、私の魂が揺さぶられることがない。

この「傍から見ても痛々しく、また儚いこと」は、ドリ車そのものにはまさに言えることであるし、ドライバーであるソリストたちに対しても、それは言える。
だからして、限界ギリギリのライン取りこそが、
我々、ドリフト族以外の走り屋の心をも撃つのである。

多くの方は、限界ギリギリのライン取りをしたドリフトの美しさを見たことがあるだろうか?
とある峠にて、それを披露してくれたソリストの方には、私は今も、心から感謝している。


「君も、ドリフトをやっていたなら、落ち葉拾いはする気だった?」
「ええ、もちろん。自分が、ドリフト族なら、ドリフト族として、限界の美を求めるソリストになるために、オレは絶対にやってましたよ。落ち葉拾い。」


「美の世界の住人」の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想なのであるし、そうでなくては、表現される動線を見たとき、私たちの魂が揺さぶられることもない。
「美の世界」の動線は、「散華(さんげ)の美」と表裏一体で、
動的な美を表現するソリストたちは、この刹那的にして危険極まりない段階を踏み越えなくては、その奥にそびえる普遍的にして安定的な美を表現する境地には辿りつけないのだと思われる。
しかし、その途中で、多くのソリストたちが、挫折、散華、玉砕してしまう。
しかしながら、上記のような理由から、
「美の世界の住人」の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想なのであるし、そうでなくてはならないのだ。

このように書くと、
「70~80%の力しか出さない、その70~80%の力を如何に向上させるか」という、
「環状高速的技術論」を説いてきた私が、とてつもなくイヤな奴に見えてくるだろう。

「自分は70~80%の力しか出さないで、生きながらえておきながら、
他人の命は、傍から見ても痛々しく、また儚いことが理想なのである・・・最悪だなコイツ。」
と。

しかしながら、残念無念。
本当は、こんな「最悪な奴」でありたいところなのだけれど、
自分の現状は、「美の世界の住人」を「ひとごと」と言い切れない自身の現状がある。
これが、「自身の現状」あるいは「自分のひ弱さ」を原因として「自分の中から出てきた私の特性」「個体の癖(悪癖)」なのか、
あるいはまた、「ポテンシャルを引き出すこと」とか「レスポンスを向上させる」とは、「そういうこと」で、単に私が「技術的誤解」をして、「個体の癖」と感じているのか、それもわからない。
が、その辺の具体的話は、さっき起こった「馬鹿馬鹿しい出来事」を叩き台にして、次回書くつもりでいる。
Posted at 2009/10/16 02:03:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月15日 イイね!

少し別のルートの可能性と、ちょっとした・場合によっては重大な誤謬の可能性

少し別のルートの可能性と、ちょっとした・場合によっては重大な誤謬の可能性●まずは、「補足事項」

昨日、「西沢広義エース」と書いたが、これこそまさに、「文学的」「文芸的」な視点の権化である。
西沢氏は、「若き伝説的エース」ということであり、実際の「撃墜王」ではないようだ。
西沢氏が戦闘機乗りとして、短期間のうちにあげた戦果は凄いものがあったというが、搭乗員となったのが、大東亜戦争開戦以後、また、24歳で散華(さんげ)している点からも、彼の記録が「最多」ではないことは、ほぼ確実であるとのこと。
日本軍で最多の「撃墜王」、「真のエース」は、搭乗年数から考えても、岩本徹三氏であろうというのが、通説とされており、たぶん、それで間違いないのだろう。
ただ、帝國海軍には、スコアの個人認証システムがなかったというから、「エース」とか、「撃墜王」とかいう称号、およびそういった考え方自体が、
特にわが国では後の時代になって出てきたようである。

「そういった称号、およびそういった考え方自体が、・・・後の時代になって出てきた・・・・」
この話は、実は、走り屋の世界にも、まったく以って当てはまることで、
いずれ、そう遠くないうちにしなければいけない話なのだけれど、
今日、今の時点で、この話をするつもりはない。
今、この状態でこの話をすると、
たぶん、その瞬間、私は、このブログを書く気力が失せて、継続困難になる気がするので、話をもう少し続けてからにしよう。


●それと、備忘録。

オイルとスパークプラグの交換距離数は、10/12時点で、72,250kmだった。
ちなみに、現時点までの走行距離は72,943km。
メーターには、とある理由で1万キロの差がある。
これは、機会があれば後日。


●では、宮が瀬の話。

「ドリフトがこんなにモテるようになるって、昔からわかってたんなら、オイラだってドリフトやってたぜ!」
元峠族の40代男性がこうした叫びを上げることは珍しいことではない。
「走り」を、「ウップンばらし」として行っていた方々の場合、この思考プロセスは、至極真っ当だ。

では、「走り」を「天職」・・・「必ずしも生計を立てることを意味しない仕事」として行っていた場合はどうか。

私は、「数の世界の住人」だ。何度も強調した。

だが、わたしがもし、「美の世界の住人」であったのなら、どうだろう?
もっと具体的な言い方をするなら、
絵描きとか、
デザイナーとか、
(精神身長155cmなのだからありえないけど)
モデルやボディービルダーのような仕事をしていたり、志していた、
かつ、
自動車を生活の道具として使うために免許を取得したのなら、
私は、「生活道具としての車」というだけでは収まらないのは当然として、
免許取得後の早い時期にFR車を入手して、
ドリフトの練習に繰り出していたことだろう。

わたしがもし、「美の世界の住人」であったのなら、私は絶対にドリフトをやっていた。

ドリフトを始めていたことであろう。
常に、美を志す存在であるからだ。

走りというもの私がなぜ「仕事のひとつ」「天職」という、その根源的理由は定かではないが、
「自分」を「○○の世界の人間」とか、「××を使命として生きる」とか、そういった宿命付けが大好きで、「自分の人生の全ては~達成のために、全ての現象が有機的に結合している」とか、そういう価値観が真ん中にあることは、自覚している。


「君も、宮が瀬でドリフトをやっていたなら、落ち葉拾いはする気だった?」
「ええ、もちろん。自分が、ドリフト族だったなら、オレは絶対にやってましたよ。落ち葉拾い。」
Posted at 2009/10/15 02:26:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月14日 イイね!

フィギュアの衝撃の不滅性

フィギュアの衝撃の不滅性画像は、コブラ機動するスホーイ。
10月13日時点で、みんカラ注目タグに、何ゆえに、「ブルーインパルス」が出ていたのかは不明だ。多分、航空祭があったとか、そういう理由なのだろうけれども。

フィギュア・・・、動的で、しかも、散華の可能性を多分に含んだ危険な美、昨日私はこういうことを書いたが、ブルーインパルスの「アクロバット飛行」による「演技」は、まさに、そうした「美」、「動的な美」の世界の象徴だ。それは、人間の感性を、直接揺さぶるのである。
(もちろん、あれは、編隊飛行の要素が多分にあるから、相当に綿密な計画と機械的な技術トレーニングの成果なのだから、「数的要素」に近いわけであるけれど。)
まさか、世の中に、フィギュア的な波動が満ちて、私も、それに影響されている・・・ということはないだろうけれど、科学的に証明できないだけで、因果関係があるかもしれない。

そう、今日の話でブルーインパルスであるとか、アクロバット飛行を取り上げることが、凄く好都合なのだ。

「ソリスト」。
この単語が「耳慣れない」。
人から、そういう指摘をしょっちゅう受ける。

ブルーインパルスの搭乗員も、正確には、「ソリスト」と表現した方がよい気がする。
通常、アメリカ空軍等では、戦闘飛行隊の搭乗員のことを、
「イーグルドライバー」であるとか、「ラプタードライバー」であるとか、
「ドライバー」という名称で呼ぶ。
(海軍用語から生じたといわれる、航海士の最高位である「水先案内人」になぞらえた、「飛行士」という意味での「パイロット」という敬称については、わが国には、海軍航空隊の戦闘飛行隊に類似する集団は現存しないため、割愛せざるを得ない。)
これは、淡々と任務をこなし、航空優勢や制空権を確保・維持し、時に撃墜スコアを出すという、空軍の作戦の特性からは、そう呼ぶのが適当だともいえよう。

ところが、航空ショーにおけるアクロバット飛行は、人の心を揺さぶる「美の世界」演技である。
だからして、これにおいて、飛行機を操る搭乗員は、シンクロナイズドスイミングの泳者やフィギュアスケーター、ピアノ奏者などと同じく、「ソリスト」という呼称を用いるのが適切なのである。
ただ、言っておくが、「ソリスト」と呼称するからといって、それが、「戦い」や「芸術世界への没頭」を意味するものでは決してない。

1989年のパリ航空ショーでSu-27テストパイロットのヴィクトル・プガチョフの手によって初めて公開された、「プガチョフ・コブラ(Pugachev's Cobra)」がその有名な例だ。
これは、戦闘機マニアだけでなく、現代小説をよく読む人(私も含めて)は知っていると思う。
水平飛行中に機首を90度持ち上げ、その状態のまま水平飛行・大減速を行うという、ストールターンの一種で、後に「コブラ」と呼ばれる機動なのだが、これが与えた衝撃は凄いものがあったといわれている。

実際のところ、空戦中にコブラを使って大減速を行い、追跡してくる敵機をオーバーシュートさせ、後方を取って迎撃するという方法を考え付く人は多い。しかしながら、実際は広い機体背面を一瞬であれ敵機に見せる上、運動エネルギーを大量に失うためリスクが大きい。故に、航空優勢の確保を第一目的とする戦闘機乗りの多くは空戦での使用に否定的だ。

さて、自分は空戦術については門外漢で、現代小説を差し障り無く読める程度の知識しかない上に、
ジェット戦闘機関連の個人的体験については、「トムキャットに対するマイナスの感情」(こう書いただけで、相模地区の人にはこの上なく伝わる。)しかない起こらないので、この辺で、空戦技術の話はやめにしておきます。

しかし、この「演技」が世界中に与えた「波紋」は大きい。
少しこのブログにも書いた作品名を揚げると、2008年の映画『スカイクロラ』もこのひとつで、主人公の函南君とティーチャーはコレ系の動きを、「必殺技」として用いることが、しきりに強調されている。ただ、この作品は、あくまで、昭和21年頃の技術水準で、しかも昭和21年くらいの技術水準なのに、「ジェットなし」「ロケットなし」「核も存在しない平和的戦い」が行われている設定だったり、函南機(どうでもいいが、あの散香は彼にとって3機目なのか、最初に乗ってきた機体なのか?)が、ティーチャーによって粉砕されるシーンも、わざとらしくカメラアングルをグルグル回していたりするので、何かに必死になっている人間には、鈴木君だの走り屋としての私だの、そういう以前の話しとして、空虚感とか、嫌がらせめいたカンジに映るのだけれど。

(『スカイクロラ』の他にも、今思いつくだけでも、鳴海章氏の小説であるとか、「スターフォックス64」とか。「エスコン」については言及不要でしょう。
ただ、ひょっとすると、『スカイクロラ』の「技」の出典は、1989パリ航空ショーではなく、西沢広義エースの「秘技」の方が正解である可能性もある。『大空のサムライ』など、大東亜戦争期のストーリーを、私はあまり読んでいないので、ひょっとすると、基本的な「技術的誤認」をしているかもしれない。)

とはいえ、航空優勢の確保という作戦達成、あるいは、撃墜スコアを伸ばすことからすれば、実際は否定されている動き方であっても、「人の心を突き動かし、影響を与える」、また、あえてそれを目的とした「美を追求する世界」においては、大きな意味を持つのだ。1980年代の「衝撃」が、2000年代の文芸界等にも影響しているのだから、それは凄まじいものである。

さしずめ、レシプロ、スーパーチャージャー、ターボ、ロケット、ミサイル、レーダー、ステルスなどの「戦力としての有形物」が「生もの」であるのに対し、「美」は半永久的な要素を多分に含んでおり、ヴィクトル・プガチョフやユルギス・カイリスはじめ、ブルーインパルスのメンバーたち、「ソリストとしての操縦士」は、「撃墜王」に勝るとも劣らない、リスペクトされるべき存在だと心底思う。

さて、「ドライバー」であるとか、「ソリスト」であるとかいった呼称表現の話は、走り屋の世界にもそのまま当てはまる話であって、「美を追求する者」としてのドリフト演技者は、「ソリスト」と表現することが適切だろう。
対して、淡々と速さを向上させようとする「速さ」「数」を追求する者には、やはり「ドライバー」の呼称が適切である気がする。

ほかにも、「ファイター」という言い方も考える必要があるが、
それを考えると、「制空権」・・・「日本に制空権はほぼ無い」とかいう話になってしまって、私の中の日本人意識によってハラワタが煮えくり返り、話の収集がつかなくなってしまうので、このへんでやめておこう。

さて、
舞台は、県道70号線。
いわゆるヤビツ峠の宮が瀬湖側の話だ。
このエリアに集うドリフト族の攻め方は半端なかったという。
極限の美を求めて、ガードレールぎりぎりまでを、その走行ラインとしていた。
この動的な美の限界を求める行為に宿る魂は、峠という場所と結びつき、時として信仰と評するのが適切な、崇高なる領域まで高められるのである。

「美の世界」「フィギュアの世界」の場合、「限界を攻める」ことを避けて人の心を突き動かすことは、とても難しい。

だからして、限界ギリギリのライン取りが、ここのドリフト族にも必要不可欠心であったのだけれども、山岳道路の道の端は、落ち葉によって、意図せぬ滑りを誘発させ、クラッシュの原因となる。

だから、このステージでドリフトを行うソリストたちは、落ち葉拾いをやっていた。
この行為は、この宮が瀬エリアのドリフト族の、「信仰形態」のひとつでもあったわけだ。
Posted at 2009/10/14 03:15:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月13日 イイね!

宮が瀬湖へのアプローチ

宮が瀬湖へのアプローチまず、昨日オイル交換とスパークプラグ交換をしたショップについて、誤解が無いように記しておこう。
ここは、東京都某市で、Y氏が経営する、三菱車のチューニングパーツに特化した、新進気鋭のショップである。Y氏はチューナーとしてカリスマ的な人気を誇っているらしく、ランエボのコアなユーザーで、この店の存在を知らない者はいないかもしれない。

一方、「英子先生」のショップは埼玉県H市にあり、以前では過激なチューンに、現在では落ち着いて、板金方面において、30年以上に渡る歴史と、その美しい仕上がりの仕事ぶりに定評のあるショップだ。
師曰く、「昔はねー、うちには、そっち系のクルマが多くてねー」とのことで、
埼玉県H市在住で、走りを志していた、あるいは志す者達で、彼女の名と、このファクトリーの存在を知らない者はいないことであろう。

さて、
宮ヶ瀬湖(みやがせこ)は東丹沢にある宮ヶ瀬ダム建設によってできたダム湖である。神奈川県愛甲郡愛川町、同郡清川村、相模原市の3市町村にまたがる大きな人造湖だ。
宮ヶ瀬ダムは中津川をせき止め2000年12月に完成したのだが、宮ヶ瀬湖自体は宮ヶ瀬ダム完成前の試験湛水によって1998年にできていた、とされる。
宮ヶ瀬湖は、その水を、生活用水、農業用水、工業用水などとして、主に神奈川県に供給するためにつくられた。上水道は横浜市・川崎市・横須賀市等神奈川県全体の2/3の地域、県人口の実に90%に供給している重要性の高い人造湖である。

完成が2000年とあって、最も新しい湖である。
私にあてはめていえば、ちょうど、10年ほど前のことだから、「自身の走りのミス」によって、左腕が「障害者状態」となっていたときのことだ。
多摩湖が、近代の中で最も古い人造湖であるのに対して、
宮が瀬は、最も新しい人造湖なのである。

掲載した画像をよく見ると、緑の山腹を白くズバっと横切って続いている筋が見えるだろう。湖岸に造られた周回道路だ。(解像度は大丈夫だろうか?)
これが、湖面から一定の高さを維持して周回していることもよくわかるだろう。
つまり、ここのコースもおおむね、「人造湖の特徴」が出ており、おおむね、勾配が存在しないといってよい。
そういうことだから、宮が瀬湖を対象材料としてみると、いままでの自分の軌跡が、多摩湖道が、よく見えるようになる。言い換えれば、「走り屋としての私」の「多摩湖道でついた癖」「技術的思考・傾向整理」の「媒介物」として、このエリアが最適なのである。

したがって、宮が瀬エリアの走りも、中心部である、湖を周回する道路については、「運動場のトラック的特徴」、「サーキット的特長」、「環状高速的特徴」を、当然に示すのである。

ただ、ここの宮が瀬エリアについていえば、「伝説のステージ」ではなく、「現在形の有名ステージ」であるため、それこそ、現在、宮が瀬をホームコースとしている方々がいうところの技術的話の方が、ステージにベストマッチした技術論であろう。

しかし、この宮が瀬を全く知らない人々にとっては、「(自称)走り屋の視点での宮が瀬の案内」になるであろうし、
それよりもなによりも、「走り屋としての私」の「多摩湖道でついた癖」「技術的思考・傾向整理」の「媒介物」として、このエリアは最適だ。

昨日のブログでは、私の技術論から、「数の世界」にして「速さを求めるステージ」の周回道路が中心、周辺の「美の世界」「ドリフトの美を求めるステージ」を周辺として話していった。
確かにそれは技術的なアプローチなのだけれど、主観的かつ自己中心的なことを好む私の性格の悪い部分が過剰に出ており、むしろ正確でない。

宮が瀬エリアで、「中心」だの「周辺」だのを語るなら、それこそ「宮が瀬湖」を「中心」と据えて、この「周回路」にアクセスするための道を「周辺」とする。
これが一番素直であろう。
一番理科的で、理法にかなった捉え方である気がする。
無論、走り屋の集団、走り屋個人に目を転じると、個々のグループ、個々のマシン、個々人それぞれの、「走りの魂」が中心なのであるのはいうまでもない。

宮が瀬湖へとアプローチするルートは、「ざっくり言って5個だ」というのが適切だろう。
多分、地図を見ればそう感じるのが、おおかたの反応だろうし、それでいいと思う。
ただ、走り屋の感性と、「分布」を考えると、もう少し細かく分かれるのだけれど。

「今を、近未来を、速く!上手く!美しく!走りたい。」
そう考えている私が、自分の技術を「周辺」からチェックしながら、宮が瀬湖に、「速さ」を求めにアプローチするには、「美」の世界を感じながらアプローチしてゆくのが適切だろう。

ここでいう美は、決して、美人画のような、落ち着いた静的美ではない。
フィギュア・・・、動的で、しかも、散華の可能性を多分に含んだ危険な美なのだ。
ドリフトだ。

このエリアに集うドリフト族の攻め方は半端なかったという。
極限の美を求めて、ガードレールぎりぎりまでを、その走行ラインとしていた。
この動的な美の限界を求める行為に宿る魂は、峠という場所と結びつき、時として信仰と評するのが適切な、崇高なる領域まで高められるのである。
Posted at 2009/10/13 05:51:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記
2009年10月12日 イイね!

点検

点検ステージを宮が瀬へと移すのであるから、思考・技術を点検してみなければならないだろう。

車両についても然り。
本日、東京都の某ショップ(「英子先生」のところではない。あちらは埼玉県。)
にてエンジンオイルとスパークプラグを交換。
この車両の走行距離も70,000キロを越えているのだから、交換が妥当でしょう。
DENSO社のIRIDIUM-POWER。コルト用のイリジウムスパークプラグの強化品かつ汎用品はこれくらいしかないので、これで妥当ではないかと思う。この、スパークプラグに関する話は、また後日。


多摩湖道が、フルに一周しても14km、比較的ゆっくり走っても20分程度で一周できてしまう比較的コンパクトなステージであるのに対して、
宮が瀬湖は、多摩湖よりも大きな湖面を中心部に頂き、周回道路の規模・速域も、大きく・高い。

また、勾配の少ない周回道路の周りには、いくつもの「峠」があり、それぞれのポイントにおいて、様々な「走り屋」たちが、さまざまな活動を行っている、多様性に富んだエリアなのだ。
故に、様々な「走り屋」の活動に触れなければならないわけだが、
ここに登場するストリートファイターたちをはじめとする、走り屋的逸話や体験談、技術論は、自らに誇りを持ち、かつ、ステージに愛着を持っているもの、つまり「走り屋」という種族として、そこにアイポイントを置きながら論じてよいと思える人々に限定したい。
つまり、いわゆる「暴走族」といわれる種族の人々に、アイポイントを置いて話すことは、極力除外したい。

では、具体的な話に入っていくに当たって、書いておきたいことがある。
私は、「数の世界」の住人だ。
「美の世界」の住人ではない。
だが、一方で私は、「速く!上手く!美しく!走りたい」そう書いている。
「美の世界」については、「横目でみておく」状態なのであり、「周辺の存在」として自らの進もうとする方向が曲がっていないかを確かめておく意味を持っている。

「周辺」と書くと、ドリフトなどのフィギュアを志す方々から反感を買ってしまいそうであるが、気になさらなくて結構であると思う。
スケート界を見れば明らかなように、スピードスケートとフィギュアスケートを対比させると、現在のわが国で注目を集めているのはフィギュアの方であるわけだし、こうした、フィギュア重視のムーブメントは、D1人気に代表されるように、自動車での走りの世界でもこの傾向は明らかである。

ただ、自分は、「数の世界の住人」であるため、当面、積極的に目標とするのは、「速さ」であり、速さを支える技術を磨くことを考えている。その「考え」を「点検」する意味においての「周辺」なのだ。
ここにおいて「周辺」は極めて重要な意味を持つ。
ひょっとすると、それが「次」に進むための重要なヒントだったり、
私にとっての「周辺」こそが真ん中だったりする。
Posted at 2009/10/12 23:58:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | 宮ヶ瀬 | 日記

プロフィール

「omnes viae Romam ducunt」
何シテル?   09/26 04:50
今を、近未来を、速く!上手く!美しく!走りたい。どこの歴史上の、どこの伝説の誰よりも。 「数の世界」を愛する者のひとりとして、いつの日にか「私」が「最速」の象...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

ブログカテゴリー

リンク・クリップ

本日の復旧作業はここまで… 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2012/02/04 19:31:14
今日の測定結果@静岡 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2012/02/04 19:27:31
群馬県測定教育施設線量マップ 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2012/02/04 19:24:25

愛車一覧

三菱 その他 三菱 その他
Ob's stürmt oder schneit, Ob die Sonne uns l ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation