2011年04月24日
昨日のお話です。
※実際に被災地の状況をお知らせする為、不謹慎な内容、ご気分を害する内容が盛り込まれますがご了承頂きたいと思います※
朝から宇都宮を出て宮城県石巻市の海岸沿いを視察してきました。
案内人の詳細については、当日のご本人様の精神状況、現在も被災者であり、生活状況が不安定等々の理由が複数ある為、お名前等々の公開は割愛させて頂きます。
予めご理解下さい。
さて、被災地の状況はと言うと…、衛生状況はかなり悪く、地盤が沈下し冠水し、海水が残っている場所は腐敗臭が漂い、道路等も所々地盤白線がどこなのかすら解らない状態で、信号機も根こそぎなぎ倒され残骸が残っていただけです。
津波に押し流された瓦礫はそのままになっている場所が多数あり、津波に飲み込まれ行方不明者の方々が今だに瓦礫の中や土砂の中に埋もれたままの状態です。
学校と思われる建物も全焼した形跡も見られました。
車も形を留めている物から、もはや鉄の固まりなみに形を留めていない物まであり、建物火災に巻き込まれ炎上した車、海水を浴びて赤錆が出た車も放置になっています。
13tの4軸の大型車ですらキャビン部分だけが吹っ飛ばされ原型を留めていません。
そんな中、仮埋葬場も通過しました。
被災地の現状では火葬が出来ず、土葬をしているのかもしれません。
ご冥福をお祈り申し上げます。
実際に、テレビや新聞は原発を重点に置いた報道をしていますが、もっと原発より北側の土地の状況も沢山取り上げて行くべきではないだろうかと感じました。
確かに被災地の皆様は復興へ向けて前向きで必死です。
しかし、苦しい生活を強いられ精神的にも、体力的にも、衛生的にも全てが荒れ果てています。
物質はまだまだ行き届いていない場所も沢山あると思います。
中には、被災者だからと甘えて物質を受け取らず、今だに物質が行き届いていない地域へ回して欲しいと物質受け取りを断る被災者もいらっしゃいます。
実際に受け取りをお断りした被災者にお話しを聞きました。
やはり、そう言った小さい事もメディアが注目しないから解らない事なのかも知れません。
自分自身、被災地を視察し、正直案内人の方に何てお声を掛けて良いものか解らなくなりました。
宇都宮を出る時は、テレビの報道よりも状況は悪いはずだと頭に叩き込み覚悟して被災地入りしましたが、それよりも状況の悪さは遥に上回っていたのです。
正に絶句。
それでも被災者の皆さんは前向きで明るく、これから街を作り直していくぞと言う気迫に満ちていました。
最後は、案内人を買って出て下さった方に、ご家族揃って弾末魔の中、よく生きていてくれたと本当に感じました。
案内人様も最初は元気に笑っていました。
確かに笑っていたけど、町を車で案内して頂いている最中も、案内人様の車を見ながら会話をされている時に、時より涙目をしていた事を忘れる事はないでしょう。
大切な愛機を失って辛かったよな?。
目の前にあるのに動かないのは苦しいよな?。
のどかな街並みがいきなりひっくり返された様な弾末魔の風景になったんだから…。
今の生活も気を張り詰めていないと人として倒れてしまう位の衝撃を震災は深い爪痕として残していったんですね。
風景も、町も、建物も、自由も、人の精神面にもです。
まだまだやらなくてはならない事は沢山あります。
それは公にもそうですが、町だけが整備されるだけでなく、被災者の方一人ひとりの精神面のケアも同じタイミングで回復を図ってあげないといけない。
被災者の方全てが一日でも早く自分の事を優先出来るように、震災という重圧や生活面での苦しみから解放され震災前の状態に戻るまでが復興だと感じました。
これから先も自分に出来る事はしていく事を約束し被災地を後にし帰路につきました。
帰り道に考えたのは、自分は被災地で被災者の方々や被災者である案内人様に何も出来なかったし、何も考えられなかった。
何ろくな事を言ってやれなかった。
自分は無力で無様…。
そんな自分自身が普段唱える謳い文句や、主義主張が無力で無様な戯れ言と感じました。
それだけ、今回の大震災は大きい衝撃であり、暗く重い陰、爪痕を残したんだと思います。
そして弾末魔の中を生き残った人間達は私が思う以上に強かった。
そしてたくましかった。
自分も落ち込んでいる暇はない。
そんな落ち込んでいる暇があるなら前に進む事を考える事が先。
教科書に書いてある事だけじゃ解らない様な目の前に広がる現状、現実を被災地に赴いて被災地と被災者に教えてもらった気がします。
当日案内し下さった案内人様ありがとう。
そして頑張ろう東北。
また近々石巻の土を踏む。

Posted at 2011/04/24 20:58:11 | |
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