
山本常朝『葉隠』(冒頭)
甲(底本)国立国会図書館蔵餅木鍋島家本
葉 隠 聞書 一 教訓
武士たる者は、武道を心懸(こころがく)べき事、不レ珍(めずらしからず)といへども、皆人(みなひと)油斷と見へたり。其子細(しさい)は、「武道の大意は何と御心得候哉(や)」と問懸(といかけ)たる時、言下に答る人稀(まれ)也。兼々(かねがね)胸に落着(おちつき)なき故也。偖(さて)は、武道不心懸(ふこころがけ)のこと知られ申候。油斷千萬の事也
武士道と云(いう)は、死ぬ事と見付(みつけ)たり。二つ二つの場にて、早く死方(しぬかた)に片付(かたづく)ばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也。圖(ず)に當らず、犬死などいふ事は、上方風(かみがたふう)の打上(うちあがり)たる武道なるべし。二つ二つの場にて、圖に當るやうにする事は不レ及(およばざる)事也。我人(われひと)、生(いく)る方がすき也。多分すきの方(かた)に理が付(つく)べし。若(もし)圖に迦(はず)れて生(いき)たらば、腰ぬけ也。此境(このさかい)危(あやう)き也。圖に迦れて死(しに)たらば、氣違にて恥には不レ成(ならず)。是が武道の丈夫也。毎朝毎夕、改めては死々(しにしに)、常住死身に成(なり)て居る時は、武道に自由を得、一生落度(おちど)なく家職を仕課(しおお)すべき也。
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(底本)国立国会図書館蔵『葉隠』(山本常朝述・田代陳基記・中村郁一編、東京:丁酉社、明治39年3月発行)
葉 隠
武士たるものは、武道を心掛くべきこと、珍らしからずといへども、皆、人、油斷と見えたり。其の仔細は、武道の大意は、何と御心得候か、と問ひかけられたるとき、言下に答へ得る人稀なり。そは平素、胸におちつきなき故なり。さては、武道不心がけのこと、知られ申し候。油斷千萬のことなり。
武士道と云ふことは、即ち死ぬことと見付けたり。凡そ二ツ一ツの場合に、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわりて進むなり。若し圖にあたらぬとき、犬死などと云ふは、上方風の打上りたる武道なるべし。二ツ一ツの場合に、圖にあたることのわかることは、到底出來ざることなり。我れ人共に、等しく生きる方が、萬々望むかたなれば、其の好むかたに理がつくべし。若し圖にはづれて生きたらば、腰ぬけなりとて、世の笑ひの種となるなり。此のさかひ、まことに危し。圖にはづれて死にたらば、犬死氣違ひとよばるれども、腰けにくらぶれば、耻辱にはならず。是れが武道に於てまづ丈夫なり。毎朝、毎夕、改めては死ぬ死ぬと、常住死身に成つてゐるときは、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。
武士道とは、死ぬことである。生か死かいずれか一つを選ぶとき、まず死をとることである。それ以上の意味はない。覚悟してただ突き進むのみである。「当てが外れて死ぬのは犬死だ」などと言うのは、上方風の軽薄な武士道である。生か死か二つに一つの場所では、計画どおりに行くかどうかは分からない。人間誰しも生を望む。生きる方に理屈をつける。このとき、もし当てが外れて生き長らえるならばその侍は腰抜けだ。その境目が難しい。また、当てが外れて死ねば犬死であり気違い沙汰である。しかしこれは恥にはならない。これが武士道においてもっとも大切なことだ。毎朝毎夕、心を正しては、死を思い死を決し、いつも死に身になっているときは、武士道とわが身は一つになり、一生失敗を犯すことなく職務を遂行することができるのだ。(『日本の名著17葉隠』奈良本辰也・駒敏郎訳より)
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2013/12/12 15:12:41