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420styleのブログ一覧

2013年06月10日 イイね!

FOR SALE

FOR SALEだれかインプレッサ買いませんか?

40万でFOR SALEです。
Posted at 2013/06/10 22:11:10 | コメント(18) | トラックバック(0) | 日記
2013年04月16日 イイね!

CS style front spoiler

CS style front spoilerリップ付けましたー!

USナローインプレッサ08乗りで三割ぐらいが付けてるんじゃないかぐらいの有名なCS style...

の、ホンモノ笑 CSとはCHARGESPEEDですね。

e-bayなんか見るとモロCHARGESPEEDのカタログ画像なんですが笑

普通はホンモノがいいんだろうが実はニセモノが欲しかった...ニセモノはウレタン、ホンモノはFRP

前にe-bayでスポイラー輸入したけどあまりにぐにゃぐにゃで使い物にならず、すぐ捨ててやりました( ̄Д ̄)ノ

そんなこんなでホンモノ購入して先輩に塗装してもらって。

艶消しで頼んだけど思ったほか光沢が落ちなかったのでまた塗り直すかーと話してた矢先!


バキ!ぐしゃ!

やっちまった...フェンダーまで...バンパーサポートまで




ベコベコフェンダーのままJOYRIDE参加しました!楽しかったー!


さて直します。泣
Posted at 2013/04/16 21:12:48 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記
2013年03月21日 イイね!

前回のブログ

前回のブログたくさんの閲覧&イイね&コメントありがとうございました。

去年と今年、感じたことは違いました。

風は相変わらず冷たい。

妻の実家の跡地には花畑ができていました。

あの日、ここはガレキだらけだった。

義父はこっから出てきてくれた。どんだけこの場所好きなんだ。

おい花よ。春になったらたくさん咲けよ。

みんなに綺麗な花、みしてやれ。

お彼岸、休みなくて行けなかったぶん、後で会いにいきます。

Posted at 2013/03/21 22:33:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2013年03月09日 イイね!

あの日の出来事は誰かに伝え続けなければならない

あの日から二年が経つ。とりとめのない文章だが書こうと思う。どちらかといえば忘れないために記そうと。あの忘れられない出来事を。こんなこと書いていいのかわかんないけど。
 
なぜみんカラだけに載せたかというと、会ったことのある人がほとんどいないから。知らない人に知ってほしいから。自分の東日本大震災を。

 最初に書くが私は被災者ではない。なぜなら帰る実家はあるし、実家の人間が犠牲になったわけでもない。私の地元は住田町という町で大船渡市や陸前高田市の隣である。現在は内陸の北上市にアパート住まいだ。住田の人間は大船渡や高田に依存しなければ生きていけないので小さなころから両市に行き来することは必至だった。自分は高校は県立高田高校であったし、友人は高田に多かった。何より妻の実家は高田の町中にあった。なので必然的に高田で遊んでいた。(ちなみに高田高校は2階まで浸水、体育館を流失し現在は取り壊された。)陸前高田市は人口の約10%にあたる1700人以上が亡くなった。

 あの日仕事休みの私は髪を切りに高田に帰りたかったのだが友人が休みなのでアパートでだらだら過ごしていた。14時46分、その揺れはあまりに強く、長かった。
 岩手は地震がとても多い。震災1週間前にも強い地震があったし、自分の人生でも宮城県沖地震、岩手宮城内陸地震、岩手北部地震などたくさん経験してきた。だがそれは、比べものにならないくらいの地震だった。

 揺れが収まり外に出るとたくさんの人が外に出てきた。すでに停電。信号はついていない。幸い妻や親父に連絡が取れ安否を確認。職場に行くことにする。信号が点かないので混雑。職場につくとすでにチェーンが張られていた。外に車を止めて中へ行く。みんな怪我はないようだ。そのとき車でみたワンセグニュースから、津波警報が出ていることを知る。妻の両親が心配になったので、事務員に高田へ帰ると告げる。まだ津波は到達していなかった。てか津波なんて小さいもんだろ、そう思っていた。

 岩手は内陸部も地震で結構ダメージを負った。道は落ちているし、倒壊している家もあった。冷静にいるつもりではあったが焦っていた。実家には婆ちゃん一人だし連絡もつかない。地震でできた段差で何度もバンパーやサイドステップをぶつけた。この時は自分の車が嫌になった。急いでいるのに飛ばせない車なんて、クソだなとも思った。
 
ようやく実家につくと婆ちゃんと親父が一緒にいた。母さんとも連絡が取れた。あとは妻の両親だ。インプレッサを走らせる。途中川が汚いことに気付く。たくさんのゴミ、木片、トタン…その時はわからなかったがそれは津波だった。けれどその時はわからなかった。なぜならそこは河口から10キロ以上も上流だったからだ。
 
竹駒まで来たがすでに道路に水が上がっていた。躊躇することなく進む。すると間もなく通行止めになっていた。津波で川の水でもあふれたのかなぁ、それぐらいしか思わない。迂回して砂利道を進むが渋滞で全く進まない。ここで立ち止まるわけにはいかない。いったん妻を迎えにいこう。また内陸の花巻市に戻る。妻と合流し再び高田へ進む。この時はまだ、事の重大性を理解していなかった。妻に「津波は来たみたいだけど、大したことないんじゃないかな」と言った。日はもう落ちていた。ただなんとなく、違和感だけが残った。
 
大東町を走っていると自衛隊の隊列と遭遇した。しばらく一緒に走っていると通行止めの看板が。「自衛隊がここ通るくらいだから行けるだろう」だが自衛隊は峠の頂上付近でUターンを始めた。しかし私たちはそのまま国道343号を進む。峠を降りて陸前高田市矢作までたどり着くと車を止められた。気仙川を渡る廻館橋は瓦礫で渡れないのだという。ガレキ・・・?ここであの川が汚かった意味に気付く。あれは瓦礫なのか・・・?そして自らの失敗にも気付く。ガソリンが内陸に帰る分しかないのだ。
 
また内陸へもどる。妻のワゴンRからインプレッサに乗り換え私の実家へ行く。国道397号江刺区米里で今度は警察が通行止めをしている。「これ以上は危険だ。迂回しなさい。」警察は言った。だが私たちは一刻も早く避難所になっているであろう高田一中に行かなければならない。免許を見せて懇願した。理解してくれたのか、警察は私たちを通してくれた。実家に着き母親のフィットを借りる。ガソリンは十分入っている。また住田から高田へ進む。また砂利道を通り、やっとの思いで高田一中にたどり着いた。時刻は午後11時ぐらいだったろうか。
 
想像通り高田一中にはたくさんの人が避難してきていた。外ではたき火をして暖をとっている人たちもいた。その中にお義父さんの友人がいた。聞いてみると高田一中でお義父さんを見てないという。おかしいな・・・家すぐそこなのに。体育館にもどり避難者名簿に目を通す。高田では珍しい苗字。あればすぐわかる。しかし何度も目を通しても名前はなかった。そして義兄夫婦の名前もない。義兄は高田市役所に務めているのだが、義兄どころか市役所の人間がいないことに気付く。これだけの人数がいる避難所なのに、だ。妻が「下の大石公民館にいるかも」というので坂を下る。明かりは実家から持ってきた懐中電灯のみ。電気のない町は真っ暗だ。坂を下りている途中、何気なく明かりをずらす。家が倒壊している。車がひっくり返っている。「あ・・・」そう言っただけなのに妻は何かを感じたようだった。「もうこれ以上行けないよ・・・公民館にも、たぶんいない・・・てか公民館は壊れているかもしれない。」私はこのとき、この家は地震で壊れてしまったのだと思った。海から離れた場所であったし。私はまだ津波という認識は薄かった。だが非常事態ということだけは感じ始めていた。そして違和感がどんどん強くなっていった。「このままこっちにいるか?」妻に話したが住田の実家に戻りたいというので高田を後にした。
 
ここらから私の記憶がおかしくなる。思い出せないとこが多くある。また記憶が前後している。
 
3月12日早朝、太陽が登る前に実家をでて高田一中に行く。道中また違和感が増した。昨日ってこんな感じだったっけ?焦って周りが見えてなかった?なんか…違う。
高田一中には前日よりも避難している人が多かった。辺りを探すが義両親はいない。増えている避難者名簿にも名前は無い。「もしかしたら避難しないで、家にいるんじゃないかな?」と妻が言うのでまた坂を下り始める。昨日懐中電灯で照らした家がある。なんとなく雰囲気で感じ始めていた。自分が思ってるより酷いんじゃないかって。そしてあの時感じた違和感は、降った坂の先で答えが出た。

絶句だった。何も言えなかった。人生で初めて膝から崩れ落ちた。
 
家が流されていた。たくさんの建物が重なり、瓦礫の山になってた。車も流され、ただの鉄のかたまりになってた。壊滅的じゃない。壊滅だ。僕が知ってる高田の面影など全くない。泥にまみれた茶色の世界だった。

それと同時に、今避難してない人は全員死んだろうと、心のどこかで思った。そんな景色だった。
 
立ちすくんでいると後ろから声をかけられた。竹駒で仕事をしていた友人だった。妻が泣き崩れた。友人に会えた涙なのか、高田がこうなってしまった涙なのかはわからないが、めったに泣かない妻がわんわんと泣いた。その友人も家族がどこにいるかわからないと泣いて言った。
 
高田一中に戻る坂で一人の男性が寝ていた。のんきに寝ているのかと思ったがすぐに理解した。それは遺体だった。そばに女性の遺体もあった。無造作に駐輪場に横たわっていた。妻はこわばっていた。
 
妻が家に行きたいと言った。「誰か死んでるかもしれないよ?」妻に言ったが私は大丈夫。と答えた。私たちは別の坂を下った。瓦礫を避け、よじ登り、家へと進んだ。

そこは地獄だった。たくさんの泥まみれの遺体があった。ガレキから上半身だけでた遺体。あらぬ方向を向いている。それがその辺にたくさん。はっきり言って直視できない。だめだ・・・こわばってしまいもうこれ以上進めない・・・
 
再び高田一中に戻る。すると市役所に服を来た人がいた。その人に義兄夫婦はどこですか?と聞くと二人とも無事と答えた。そして今中学校に来ていると、必死で探した。しばらくさがしてようやく再会できた。よかった・・・義兄は「親父たちは?」と聞いた。どこにもいないと答える。そして「多分逃げ遅れただろう」と話した。全てが飲み込まれ、流される瞬間を市役所の屋上でみた義兄。覚悟はできていたのだと思う。

それから二人で陸前高田市の全ての避難所を歩いて廻った。しかし義両親をとは会うことはできなかった。妻は高田にいるより、忙しく仕事をしていたほうがいいといい内陸の花巻へ戻った。同僚の家でかくまってもらうことになった。私は沿岸に残った。やるべきことはたくさんあるし、見つけるべき人もまた多かった。私は車で実家に戻った。もうガソリンはない。
 
次の日は自転車で高田まで行った。かばんにはおにぎりと、軍手をたくさん入れた。高田一中に自転車を止めて、また全部の避難所を廻った。行きたくなかったが、米崎中学校の遺体安置所にもいった。遺体を一人一人見てまわるが、ピンとくる顔はない。奥に進むと、警察に止められた。まだ綺麗にしてないから、遺体を見せれないのだという。まだ幼い遺体があった。全然知らない子だけど、無性に悔しくなった。それからまた中学校に戻った。自転車が盗まれていないか心配だった。実際盗難は少なからずあったと思う。津波に流された車の給油口が開いているシーンをよくみかけた。みんな生きるために必死だ。それから僕は意を決して妻の家へと向かう。遺体があろうが、行かねばならんのだ。妻の実家は新築したばかりだったので前に住んでいた古い家もあった。そちらから行ってみることにした。瓦礫をよじ登る。そして妻の古い家があっただろう場所に着いた。着いたといってもそこは瓦礫まみれだった。何人か人がいるので詳しい場所を教えてもらった。そのうちの一人、男性の方がお義父さんの同僚であり友達の方だった。だがお義父さんの居場所は知らなかった。男性は私に助けを求めた。瓦礫の下に埋まったシルバーのオデッセイ。これが男性の車であるという。その中に運転免許証と家族の写真があるというのだ。私は近くに落ちてたスコップを広い車内から泥を掘り出した。グローブボックスのなかにそれらはあった。男性はホッとした表情をして、私にがんばってお義父さんを探せと言った。古い家の辺りは瓦礫の山が高く積り妻の家のものがあるかどうかは判断できなかった。私は妻の実家へ向かった。瓦礫の山を越えると、自衛隊が重機で片付けをしていた。おかげで歩きやすくなった。新しい家には何度も行ったので場所はわかりやすかった。ただそこには家の土台しかなかった。私はそこでも何の手掛かりや、思い出のものも持ち帰れなかった。帰る途中、一人の男性がおにぎりを差し出してきた。聞けば米崎にある喫茶店の従業員だった。ここは震災前によく妻と行っていた。私は子供かお年寄りにあげてくださいと断った。その男性はニコッと笑って自転車で走り去った。僕は持っているおにぎりと軍手の存在を思い出す。子連れのお母さんがいた。手袋はしていない。呼び止めて私はいらないから使って。と言った。お母さんは最初断ったが泣きながらありがとうといって軍手をした。おにぎりは子供がおいしそうに食べた。しばらく高田一中にいたのだが誰も見つけれず、自分の実家に帰った。
 
私はガソリンを買うためにガソリンスタンドに並んだ。自分もGS店員なのに。やっとのことで2000円分を入れることができた。それから何日か高田を探すうち何人かの友達と再会することができた。みんな色々失ってしまった。家、職場、なによりも大切な家族の命・・・
 
仕事を休んで1週間くらいしただろうか。はっきりいってこれ以上何もできないし、ガソリンも危うい。内陸のアパートに戻ることにした。そして職場へ戻る。このころには内陸は、携帯の電波が復旧していた。たくさんの心配するメール。ごめん。返さなかったんじゃない。返せなかったんだ。職場に着くとみんな心配していたのか、生きていてよかったと言われた。確かにニュースが流れる前に職場を後にしたし、連絡もとれない。死んだと思われていた。
 
内陸に戻ってからも地獄だった。みんなガソリンを求めていた。近所のGSでは喧嘩もあったし、残念なことに、GSに並んでいる最中お亡くなりになった方もいた。私も隊列の誘導で客と言い争ってしまった。GSの近くに交差点があるのだが、そこで客同士がけんかをしていた。いいおとなが、やれこっちが先だ。いやこっちだと。私は温厚な性格で喧嘩とかしたことないのだがさすがに怒った。「あなた達いいかげんにしろ。内陸の人間がそんなんで争うんじゃない。被災なんてしてないのに恥ずかしくないのか。」客は言い争いをやめた。ガソリンはなかなか大変だった。そんな状態がしばらく続いた。
 
仕事が休みのたびに私は高田へ帰った。義父さん、義母さん、友達。まだ手掛かりのない人はたくさんいた。そして田舎特有なのだろうか、誰が地元にいて、誰が地元をでているのか情報がごちゃまぜだった。そしてたくさんのデマも流れた。福島は大変らしい。けど原発問題は頭に入ってこなかった。目の前のコトで精一杯だった。震災から1か月。まだ電気も電波もなかった。だが情報は伝わる。あいつは死んじまったらしい。あいつは避難した後家に戻ってそのままいなくなった。あいつは最後まで避難誘導してそのまま・・・あいつは、あいつはあいつは・・・
 
震災から1か月義母さんが、その1か月後、義父さんが見つかった
 義母さんの火葬は仕事の都合で行けなかった。行かなかったと言うべきか。身内のみで、とのことだった。義父さんの火葬は、義兄から来てほしいと言われたので仕事を休んでいった。遺体は住田町障害スポーツセンターという体育館に安置されていた。まさか自分の町の体育館が遺体安置所になると思わなかった。義父さんが身に着けていた服や車のカギ、ケータイを抱え車に乗り込もうとする。私はあんまりそういったのは信じないのだが、一匹の虫が私にくっついて離れようとしない。妻は言った。「あ、おとうさんだよきっと。」おばちゃんは言った。「娘頼んだよって言ってるんじゃない。」火葬してるあいだ、煙を見上げた。2回しか会えなかった。もっと接するべきだった。会うべきだった。いろんな話をしたかった。お父さんとお酒を酌み交わしたかった。お母さんの料理たくさん食べたかった。何より、「娘、頼んだよ。」と言われたかった。認められたかった。後悔だらけだった。

震災時はまだ妻と結婚していなかったのだが震災から1年が経とうとする2012年3月1日。私たちは陸前高田市に婚姻届を提出。はれて夫婦になった。義両親は認めてくれたかわからないが、義兄は喜んでくれた。心が救われた。ちなみに3月1日は、義両親の結婚記念日でもあった。


 
妻は震災の影響で適応障害と診断された。毎日薬を飲んだ。自殺未遂のようなこともした。私も相当悩んだ。どうすれば妻が元気になれるのか。震災から立ち直ってもらえるか。だがある日を境にコロッと明るくなった。そのきっかけが高田の七夕祭りを見に行ってからだ。あの日は色々な人と話ができたようだ。妻の中で何かが変わったのだろう。私もたくさんの人に励まされた。人ももちろん、音楽。陸前高田の「CENTURY」大船渡「ONE STAR」仙台の「THOUSAND BASE」音楽にはほんと助けられた。

今年も3月11日が来る。あの日以降震災の事を忘れた日はない。忘れたい。忘れちゃいけないの葛藤の中、不思議な感覚なのが「世界のどこかに高田が引っ越ししているんだ。」と思ってしまうこと。またあの町並みで、遊べるんだろうと。そんなの絶対ありえないんだけど。
 
俺は忘れない。全て。震災前も、震災後も、義両親。起きてしまったことも、大切なツレ達との思い出も、流された友達、知り合い、先輩後輩、先に逝っちまった同級生7人も、国道45号線も、駅前も、高田松原も、高校も、妻との思い出も。
 
俺は負けない。地震にも、津波にも、寂しさや辛さにも。
 
そしてまたみんなで自分の自慢の車を持ち寄って。海沿いで夜な夜な語り合うんだ。国道45号流して、駅前パトロールして、気仙沼ジョイフルでドリンクバーで粘って・・・最高だな。
昔も、今でも、地震や津波でぶっ壊されても・・・俺は陸前高田が大好きです。そして支援だったり復旧に携わったりしてくれた全てのみなさん、ありがとう。いつまでも東北を、岩手を、陸前高田を忘れないでほしい。

そしてこの出来事があったことによって、助かる命がちゃんと助かるような日本であってほしい。


悲しい思いは、ここだけであってほしい。


ただ、それだけ。

追記 2024年3月現在、奥州市の職場を退職、大船渡市にて仕事をしている。復興工事や復興需要もなくなり本当の正念場を迎えている気仙地方。少しでも地元の力になれるように頑張っています。
Posted at 2013/03/09 23:24:51 | コメント(11) | トラックバック(0) | 日記
2013年02月12日 イイね!

製作中。

製作中。目が疲れてきた(ーー;)
Posted at 2013/02/12 22:13:19 | コメント(5) | トラックバック(0) | 日記

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