
柴田よしきの「ゆきの山荘の惨劇」から始まる「猫探偵正太郎」シリーズ再読しました。
発端は「三毛猫ホームズ」のシリーズ第一作を読んで思い出したから。
この作品は猫探偵正太郎シリーズの一作目です。
「正太郎」という名前の猫が活躍する推理小説です。
三毛猫ホームズとの一番の違いは、この作品は(このシリーズは)猫の視点の物語なんです。
三毛猫ホームズと共通しているのは、どちらも猫が主役であること。
そして、これは一番肝心な事なんだけど、ホームズや正太郎君が謎を解いても、猫だから犯人を指摘したくても出来ないので、それをホームズの場合は片山刑事もしくは妹の晴美に伝え代弁させるのであるが、正太郎君の場合は飼い主(正太郎君いわく同居人)である女流推理小説作家の「桜川ひとみ」に必死になって訴えるのであるがそれが全然通じない。(これは本作以降の作品でもそうだったりする。というより、本作以降の方がその傾向が強い)
本作の場合は別の人(正太郎君が親父さんと呼ぶ人間)が推理し、謎を解いちゃったりしている。
そんな飼い主(正太郎君いわく同居人)だから、正太郎君は実力行使に出るのである。(第二作目である「消える密室の殺人」では猫の集団脱走をやってのけた)
我が家に君臨していた白猫(名前はポケ。この猫の事を思い出すと未だに涙が出てくる)が天に召されるまでは、ニャンコやワンコ(いずれも死別。そのどれもが最後の前に、別れの挨拶をしてくれた)と生活を共にしてきた私と家族なんだけど、共通した意見は「絶対、人間の言葉理解しているって!!」だったんです。
ニャンコとワンコ、種別は違うのに、傍から見ればちゃんと意思の疎通はしている。
それにくらべて人間は、ニャンコやワンコが何かを訴えていても土壇場にならなければ理解出来ない。
我々が理解したつもりでもニャンコやワンコが本当に言いたかった事は全然違うのかも知れない。
地球という惑星で動物達は共通の言語を持っているのに対し、人間だけは英語だ日本語だと言っているのかもしれない。
といった事を、考えさせるような作品ではありません。
でも、そう言った事を思い出させてくれる作品だと思います。
個人的にはこの作品のような長編よりも「猫探偵正太郎の冒険」「猫は聖夜に推理する」「猫はこたつで丸くなる」「猫は引っ越しで顔あらう」といった短編集の方が好きです。
理由は、その短編集の中で飼い主(正太郎君の言うところの同居人)が正太郎君のことを理解しているんだよ~という作品があるから。
余談だけど、親父さんの相棒のワンコ(名前はサスケ)良い味だしているな~
Posted at 2011/05/29 12:43:45 | |
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