2011年03月17日
しばらくブログをお休みさせていただいておりました
大震災の影響です
私に出来ることはなにか、そんなことを考える日々でした
もちろんそれは限られたことかもしれませんが、今できることを自分なりに行ったつもりで、それを継続していかなくてはなりません
ブログをお休みさせていただいたのもその一環です
関係ないのかもしれませんが、インターネット回線の少しでも空きを作ることができれば、そんな思いでした
また、時期が時期だけに、デリケートな問題に対して意見の多くは必要ないとの自分なりの判断でもありました
しかし、あれからしばらくの時が経ち、また自分のできることを見直す時期なのかもしれない、そう思い筆を執った次第であります
多くの人が綴っているように、僕自身もまた、僕自身の歩みを、前進を留めることは得策ではない、そう思えるようになりました
被災していない我々までもが、暗い、打ち沈んだ気持ちになっている場合でない
前に進まなければ
僕の精神のバイブルである「万人幸福の栞17ヶ条」から第十四条を転載させていただきます
「 希 望 は 心 の 太 陽 で あ る 」
- 心 即 太 陽 (しんそくたいよう) -
夜が明けたから、日が出るのではない。日が出たから夜が明けて、天地が明るく、万物が眠りからさめて、生々と活動をはじめるのである。夜になっても、太陽はなくなったのではない。地球はいつも太陽の光明の中につつまれ、温熱の胸にいだかれている。ただその半分だけは、しずかに休ませて、明日の働きを一段とかっぱつにさせるために、黒のヴェールでつつんでいるのである。
希望は心の太陽である。つごうがよいから希望をもつのではない。一生に2度と出くわすことの出来ぬ仕事だから希望をもつのである。天から与えられた命、親からいただいた体、世界にたった1つのこの肉体だから、その前途にもえるような希望をもつのである。
一時の苦しみ、しばしの痛み、それは更に大きく、いよいよ健康に進み高まるための、しばしのくらがりである。これが去ったとき、夜あけのような光明の舞台が開ける。雨後のような晴ればれしさがめぐってくる。夜になったといって、だれが悲しむ者があるか。休みの時がきたのだ、すでに明朝が近づいたのだ。必ず明日がくる。
悲観は、雲である。憂いは、霧である。さわやかな希望の薫風で吹きはらおう。燈火をあかるくしよう。そして高く掲げよう。燈を太くしただけ、高くかかげただけ、必ず前途は打ち開ける。
今日に希望をもとう。明日に希望をもとう。前途にようようたる希望をもとう。仕事に、研究に、又身体に、日に月に新たな希望にもえていこう。
うまく行かぬから、望みを失うのではない。望みをなくするから、崩れて行くのである。みかけがよく見えたり、悪しく見えたりするのは、ただ表面の変化であり、一時のきまぐれで、かえっておもしろい事である。それは、すでに大きくのびるための、一時の屈曲であり、高くのぼるためのふんばりである。
常に心の燈火を高くかかげ、希望を強くもやし、仕事に情熱をこめよう。友に光を分とう。家の、村の、町の希望のみなもととなろう。
国の発電所となろう。民族の太陽となろう。
太陽の光と熱とが無限であるように、希望はいくら燈しても尽きる日はない。いくら高めても高すぎることはない。
あなたの仕事に、無上の希望をもちましょう。
あなたの体を、無限の希望でつつみましょう。
あなたの人生は、不断の希望の燈火でもえ立たせましょう。
太陽の焔、天日の輝き。
希望は常に若々しい。
希望は永遠の光である。
Posted at 2011/03/17 13:45:05 |
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