
三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。
今回ご紹介する遺構は三原城の二の丸南東部に位置する
船入櫓の石垣です!
いや〜、ついにここをご紹介する日が来ました…!
長かった…。
実に長かった…。
今までマニアックな痕跡をたくさんご紹介してきましたけど、今回の船入櫓跡は三原城の遺構の中では天主台石垣に次ぐメジャーな分かりやすい遺構といえるでしょう!
このシリーズを連載することにした時から、ここは後半戦にとっておこうと決めておりました(^^)
場所はとても分かりやすく、城町公園のところにあります!
三原郵便局の前から見るとこんな感じ。
一方、幕末慶応年間の城絵図ではコチラ!
そのまんまですね。
以前にも船入櫓跡について少しだけ触れましたが、元々は三原の沖に浮かぶ大島と小島を繋ぎ合わせて築かれたという三原城の小島だった場所がこの船入櫓だと言われています。

この石垣の下から覗いている岩礁がその証拠。
それにしても、よく考えてみると岩礁を根石に海から直接石垣を立ち上げるだなんて、すごいことしてるなぁ…。
それでは、この石垣について色々と検証していきましょう!
○特徴
まずは、船入櫓跡の石垣について、
前回の記事にも登場した
広島県埋蔵文化財調査センター調査報告書第156集『三原城跡』(1997 財団法人広島県埋蔵文化財調査センター発行)
という資料にて『三原城跡の石垣について』という内容で広島大学大学院教授で寺社や城郭研究の専門家である三浦正幸先生が解説されていて、大体、以下のようなことでした。
・横矢掛りのために細かく屈曲
→石垣が屈曲せず一直線な天主台より軍学的に進んだ手法。福島時代の縄張り。慶長6(1601)年~慶長14(1609)年頃のもの。
・石材…大きさの揃った割石を用いた打ち込みはぎ。横目地の通らない乱積み。
・隅部は算木積み。
→福島時代に新設された石垣と推定するが、海に面する厳しい立地条件からすると、浅野時代に積み直しを含む修復が加えられた可能性あり。
とのこと。
確かにいくつも石垣に屈曲が見られます。横矢掛かりとは、以前にもご紹介しましたが攻めてきた敵兵を正面からだけではなく側面からも攻撃するための工夫です。
そして、確かに隅石は形の整った石を使った算木積み。
使われている石も同じような大きさで、かつ、目地の通らない乱積みという手法になっています。
こうした特徴から、どうやらここの石垣は、関ヶ原の戦いの後に芸備二国の領主となった福島正則の時代に築かれたもののようです!
あと、石垣が修復されたらしき痕跡も。
これは1708(宝永5)年に幕府へ石垣修復の申請をした際の絵図なのだそうですが、船入櫓付近を拡大すると、
修復箇所がこのように記されています。
どうやら、船入櫓の石垣には福島氏、浅野氏の技術が入っていそうです。
ただ、このあたりの石垣、スカスカになってしまっていて、いつか崩れてしまうんじゃないかといつも心配なんですよね。。
石垣を直すのも相当なお金がかかるので、簡単には修復できないんでしょうが、すぐ隣が子どもたちが遊ぶ公園ですし、危ないので何とかして欲しいです。。
○形状
次に、この石垣の形がそのまんま残っているということを検証です!
とりあえず絵図に番号を振ってみました。絵図と現場の写真を対比しながら見ていきます。
まずは城町公園の西側出入口にある①の石垣の角。一回折れて、さらにその先に石垣が続いているのがお分かりいただけるかと。
お次は②の角。この最南端の角の上に船入櫓(ふないりやぐら)と呼ばれた二重櫓が建っていた模様。
イメージはやはりこんな感じ?
③は先ほどご紹介した岩礁が顔を覗かせる石垣。その奥が④の出っ張った石垣。堀はかなり狭められ、辛うじて残っている感じ。
広島銀行三原支店の裏に石垣と細い堀は続く。
④の北西方向には⑤、そして⑥の石垣が続く。
そして、この⑦の石垣。
おそらく、この⑦の石垣は、東札門があった場所の石垣が残っているのだと思います。
こうして歩いてみると、三原城の石垣って結構残ってるじゃん!って思います(^^)
○実際に登ってみた
さて。
このように、三原城の船入櫓の石垣って結構そのまんま残っているよねってことがお分かりいただけたかと思います。
そうそう、忘れちゃいけない。船入櫓に実際に登ってみたのをレポートせねばなりません。
行き方は、三原駅の南口から南東方向、整形外科の松下クリニックの近くに石碑が建っていて、そこが入り口になります。
道なりに進んで行くと…
質素な門が拵えてありますが、本来はどうだったのかは不明です。
パッと見、石垣の上は特に何もありません(笑)
でもよく見ると小さな建物があり、その中には…
井戸がありました。
残念なのは、ここの絵図!雨ざらしで色が落ちまくっています!現在の三原と城絵図を重ねたとても良い資料なのにこれじゃあわかりにくいので何とかしてほしい!
と思っていたら、築城450年事業で新しくなっていました!よかった!
そして、船入櫓の石垣から南を眺めるとこんな景色。今でこそ埋め立てられて街になっていますが、築城から明治の初め頃まではここから見える景色は海だったのです。
さて、そんなわけで、近代化の過程で破壊されてきた三原城の中でも貴重な遺構である船入櫓の石垣をご紹介してまいりました!
皆さまもお時間があれば、実際に行って歴史に触れてみてください(^^)
つづく
Posted at 2018/08/15 18:35:09 | |
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