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まっつん.のブログ一覧

2018年08月15日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十九 二の丸編⑤船入櫓跡】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十九 二の丸編⑤船入櫓跡】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

今回ご紹介する遺構は三原城の二の丸南東部に位置する船入櫓の石垣です!

いや〜、ついにここをご紹介する日が来ました…!

長かった…。

実に長かった…。

今までマニアックな痕跡をたくさんご紹介してきましたけど、今回の船入櫓跡は三原城の遺構の中では天主台石垣に次ぐメジャーな分かりやすい遺構といえるでしょう!

このシリーズを連載することにした時から、ここは後半戦にとっておこうと決めておりました(^^)

場所はとても分かりやすく、城町公園のところにあります!




三原郵便局の前から見るとこんな感じ。


一方、幕末慶応年間の城絵図ではコチラ!




そのまんまですね。

以前にも船入櫓跡について少しだけ触れましたが、元々は三原の沖に浮かぶ大島と小島を繋ぎ合わせて築かれたという三原城の小島だった場所がこの船入櫓だと言われています。

この石垣の下から覗いている岩礁がその証拠。

それにしても、よく考えてみると岩礁を根石に海から直接石垣を立ち上げるだなんて、すごいことしてるなぁ…。

それでは、この石垣について色々と検証していきましょう!

○特徴

まずは、船入櫓跡の石垣について、前回の記事にも登場した

広島県埋蔵文化財調査センター調査報告書第156集『三原城跡』(1997 財団法人広島県埋蔵文化財調査センター発行)

という資料にて『三原城跡の石垣について』という内容で広島大学大学院教授で寺社や城郭研究の専門家である三浦正幸先生が解説されていて、大体、以下のようなことでした。

・横矢掛りのために細かく屈曲
→石垣が屈曲せず一直線な天主台より軍学的に進んだ手法。福島時代の縄張り。慶長6(1601)年~慶長14(1609)年頃のもの。
・石材…大きさの揃った割石を用いた打ち込みはぎ。横目地の通らない乱積み。
・隅部は算木積み。
→福島時代に新設された石垣と推定するが、海に面する厳しい立地条件からすると、浅野時代に積み直しを含む修復が加えられた可能性あり。


とのこと。

確かにいくつも石垣に屈曲が見られます。横矢掛かりとは、以前にもご紹介しましたが攻めてきた敵兵を正面からだけではなく側面からも攻撃するための工夫です。


そして、確かに隅石は形の整った石を使った算木積み。


使われている石も同じような大きさで、かつ、目地の通らない乱積みという手法になっています。


こうした特徴から、どうやらここの石垣は、関ヶ原の戦いの後に芸備二国の領主となった福島正則の時代に築かれたもののようです!

あと、石垣が修復されたらしき痕跡も。


これは1708(宝永5)年に幕府へ石垣修復の申請をした際の絵図なのだそうですが、船入櫓付近を拡大すると、


修復箇所がこのように記されています。

どうやら、船入櫓の石垣には福島氏、浅野氏の技術が入っていそうです。

ただ、このあたりの石垣、スカスカになってしまっていて、いつか崩れてしまうんじゃないかといつも心配なんですよね。。




石垣を直すのも相当なお金がかかるので、簡単には修復できないんでしょうが、すぐ隣が子どもたちが遊ぶ公園ですし、危ないので何とかして欲しいです。。

○形状

次に、この石垣の形がそのまんま残っているということを検証です!

とりあえず絵図に番号を振ってみました。絵図と現場の写真を対比しながら見ていきます。


まずは城町公園の西側出入口にある①の石垣の角。一回折れて、さらにその先に石垣が続いているのがお分かりいただけるかと。


お次は②の角。この最南端の角の上に船入櫓(ふないりやぐら)と呼ばれた二重櫓が建っていた模様。




イメージはやはりこんな感じ?


③は先ほどご紹介した岩礁が顔を覗かせる石垣。その奥が④の出っ張った石垣。堀はかなり狭められ、辛うじて残っている感じ。


広島銀行三原支店の裏に石垣と細い堀は続く。


④の北西方向には⑤、そして⑥の石垣が続く。


そして、この⑦の石垣。




おそらく、この⑦の石垣は、東札門があった場所の石垣が残っているのだと思います。


こうして歩いてみると、三原城の石垣って結構残ってるじゃん!って思います(^^)

○実際に登ってみた

さて。

このように、三原城の船入櫓の石垣って結構そのまんま残っているよねってことがお分かりいただけたかと思います。

そうそう、忘れちゃいけない。船入櫓に実際に登ってみたのをレポートせねばなりません。

行き方は、三原駅の南口から南東方向、整形外科の松下クリニックの近くに石碑が建っていて、そこが入り口になります。


道なりに進んで行くと…


質素な門が拵えてありますが、本来はどうだったのかは不明です。


パッと見、石垣の上は特に何もありません(笑)


でもよく見ると小さな建物があり、その中には…


井戸がありました。


残念なのは、ここの絵図!雨ざらしで色が落ちまくっています!現在の三原と城絵図を重ねたとても良い資料なのにこれじゃあわかりにくいので何とかしてほしい!


と思っていたら、築城450年事業で新しくなっていました!よかった!


そして、船入櫓の石垣から南を眺めるとこんな景色。今でこそ埋め立てられて街になっていますが、築城から明治の初め頃まではここから見える景色は海だったのです。


さて、そんなわけで、近代化の過程で破壊されてきた三原城の中でも貴重な遺構である船入櫓の石垣をご紹介してまいりました!


皆さまもお時間があれば、実際に行って歴史に触れてみてください(^^)




つづく

Posted at 2018/08/15 18:35:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2018年07月01日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十八 二の丸編④中門跡と臨海一番櫓跡】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十八 二の丸編④中門跡と臨海一番櫓跡】 三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

半年以上放置してしまっておりましたが、そろそろ、ぼちぼちと再開しようと思います。

一度始めたことは完結させなければ!

というわけで、近代化の波の中で破壊され、わずかにその姿をとどめる三原城の案外残ってる色々な痕跡をご紹介してきて、とうとう城の主要部に突入していきます!

なので、ここから先は今までのようにマニアックなものではなく、石垣を中心としたわかりやすい痕跡を紹介できるかと思います(^^)

で、「本丸中門跡」です。


でもこれ、「本丸」じゃないと思うんですよー。

石碑を否定して申し訳ないですけど。

じゃあ、いつものようにまず場所の確認からいきましょう!

コチラ!




三原駅からほど近いペアシティ西館の西側の出入り口のところです。

で、いつもの城絵図(幕末慶応期の絵図)でいえばコチラ!


ここで確認。二の丸はこの範囲です。


正保の城絵図でもホラ。


というわけなので、ここは二の丸。本丸は、この正保の城絵図に記してあるように二の丸から高石垣で仕切られた内側になるので、場所で名前をつけるのなら「本丸中門」ではなく、「二の丸中門」なのではないかと思います。


絵図を見ると門の形式は櫓門。こんな感じのイメージかな。

櫓門の例:広島城表御門


堅固な門で敵兵を足止めして、門の上の櫓の中からと狭間のついた塀や南側の一番櫓から一斉攻撃を仕掛けられたらひとたまりもないですね(^_^;)


で、現在のこの中門付近ですが、門自体は残っていませんが、門の北側の石垣が残されています。




石垣に使われている石が大きいのが特徴。

小早川隆景が築城した当時のものだといわれている天主台の西面の石垣と同じような雰囲気があります。

写真:堀底から見上げた天主台西面の石垣


このことについて、

広島県埋蔵文化財調査センター調査報告書第156集『三原城跡』(1997 財団法人広島県埋蔵文化財調査センター発行)

という資料に、『三原城跡の石垣について』という内容で広島大学大学院教授で寺社や城郭研究の専門家である三浦正幸先生が解説されているのですが、この中門の石垣については、

・特徴:南北一直線の石垣
・北半分…丸みの多い石材。天主台西面(→慶長元(1596)年)と共通。
→一部は慶長元年のものが現存しているが、後世の改造が著しく、石垣を積み足した痕跡(石垣の端部を示す目地)が明白に表れている。当時の石材を再利用した積み直し。


と指摘されています。

いつもここの石垣を見ていて、古そうな石垣なので築城時そのままが残ってるのかなと思っていたのですが、どうやらそのままではないようです。

が、積み直してはいるけれども、実は小早川隆景が築城したころの石が使われている貴重な三原城の遺構だということに間違いなさそうです。


ちなみに、南側の石垣は崩された後に新たな石材で築かれたもので、三浦先生の解説でも

近代的(明治以降)石積み。谷積み+間知積み。

とのことで、比べてみると一目瞭然。


ちなみに堀の幅も縮められていると思います。

そして、その南側の石垣の側には、臨海一番櫓址の石碑が。




三原城の海に面した10基の櫓は、福島正則の時代に改築された可能性があるのだそうです。


今となっては陸地になっていますが、臨海の名の通り、当時はここから先は海だったんですねぇ。


イメージはこんな感じ?




次回も二の丸の痕跡を探していきます!



つづく
Posted at 2018/07/01 08:19:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2017年10月28日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十七 二の丸編③明善堂跡】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十七 二の丸編③明善堂跡】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

これまで、ただでさえ知らない人の方が多い三原城の、しかもマニアックな痕跡ばかりを辿って参りましたこのシリーズ。

前々回から、ようやく城の主要部の二の丸に攻め入っております!

さぁ、今回はどんな痕跡を確認するのでしょうか。

早速参りましょう!コチラです!


二の丸の中でも飛び出しているこの部分の…


ココです!前回ご紹介した西札門を入ってすぐです!

その痕跡が、トップ画像にも載せたコチラの写真!


旧藩校明善堂址と記された石碑が、駅前の帝人通りに佇んでいます。




現在の地図ではここになります。


明善堂の石碑には藩校と記されています。

正確には、おそらく広島藩が設置したものではなく、三原浅野氏が私的に設置したものなので藩校ではないと思うのですが…

要するに明善堂とは、武士の子弟の教育機関です。

明善堂について、『三原市史』にはこんな記述がありました。

文政2(1819)年三原城二の丸に創設。
漢学が中心で、四書の素読を終えて五経もしくは『唐詩選』『三体詩』『文選』等の素読をし、次に四書や『蒙求』等の講義を授け、かたわら輪読をさせ、史書の講義も授けた。とくに学力優秀な者に自習させて教授に質問させ、他の書物を読ませるなど、ほとんど朝陽館同様の教育であった。


※朝陽館…三原浅野氏が広島の屋敷内に設置した構学所。

授業時間も五つ時から九つ時で、生徒は6~9歳の間に入学し、21、2に至って退学した。生徒は200人で、学校経費は1ヶ月に現米300石があてられた。なお、明善堂は学堂と称され、文政9(1826)年町奉行所が石井豊洲に依頼して、月1~3回、東西両町の町医・町役人とその倅までを対象に学堂で教導講釈を行わせたことは注目される。教育内容は論語・小学の講釈であったが、督促にもかかわらず出席は芳しくなかったようである。明善堂は維新後廃止されている。

※石井豊洲(いしいほうしゅう)…竹原出身で三原浅野氏に仕えた儒学者。頼春水(らいしゅんすい)に師事し、その息子の頼山陽(らいさんよう)とも親交を持った。

特徴としては、明善堂で教えていた内容は、江戸時代に各藩にあった藩校の標準的なもののようです。

あと、武士だけでなく、町医や町役人とその子どもたちにまで対象範囲を広げているところは身分制社会である江戸時代にあってなかなかおもしろい試みではありますが、残念ながらあまりはやらなかったようですね(^_^;)

武士の子弟の皆さんはここで座学を受けて、西築出の吾往館で武術を学んでいたのでしょうか。

というわけで、今回は三原城にあった教育機関についてご紹介いたしました!

次回も二の丸の痕跡を辿ります!



つづく
Posted at 2017/10/28 18:01:51 | コメント(1) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2017年09月24日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十六 二の丸編②西札門跡】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十六 二の丸編②西札門跡】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

長い時間をかけて、ようやく城の主要な部分をご紹介していくわけなのですが、前回は、二の丸の概要に少しだけ触れました!

今回からは、城の中枢である二の丸があった場所を実際に歩きながらその痕跡を探していこうと思います!

さて、今回ご紹介するのは、三原城二の丸の西側の正門だった西札門(にしふだもん)です!




現在、西札門跡付近には説明板が設置されています。






説明板の図をもとにしてみると、実際にはこの辺りだったのかな、と。帝人通りのカーブしてるところがこのへんなので。






見る限り、それらしき痕跡は何一つ残っていないようです。

で、説明板にも書いてあるように、この門を通過するためには入城許可の札(ふだ)を見せなければならなかったので、札門(ふだもん)と呼ばれたようです。まさに、城に入るための正門であり関所であるというわけです。


西札門の形式は、東西の大手門と同じ櫓門だったことが絵図から読み取れます。


櫓門の例:広島城表御門


さすがは城の二の丸の正門です。入城許可札なしで突撃しても、こんな櫓門があったのでは返り討ちにされておしまいです。


また、折れ横矢掛かりの仕掛けもバッチリです。

門(虎口)の手前で道を直角に折れ曲がらせることによって敵兵の勢いを削ぎつつ、櫓門で敵兵を足止めし、櫓門と横の塀から正面・側面の同時攻撃を加えて一網打尽にしてしまおうという意図があると思います。

さらに、前回少しご紹介したように、このエリアは馬出(うまだし)としての機能が備えられていると思われる
ので、敵兵からすれば、二方向からの攻撃に怯んだときに、この大きな門の扉が開くと相手の兵士が一気に飛び出してきて蹴散らされる…というそれは恐ろしい仕掛け。

このように、二重三重にも防御の仕掛けが施されていることからも、まさに城の正門として重要なポイントであったことがわかります。

残念ながら、その遺構は現在全く残っていませんが、ここには三原城に入るための正門があったんだなぁ…なんてことに思いを馳せながら帝人通りを歩いてみるのはいかがでしょうか(^^)




つづく
Posted at 2017/09/24 19:00:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2017年09月10日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十五 二の丸編①縄張りについて】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十五 二の丸編①縄張りについて】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

この不定期連載を始めて1年半。

マニアックな痕跡をチマチマと追いかけて参りましたが、いよいよ城の主要部である二の丸の痕跡を探していきます!

まずは、

三原城の二の丸ってどの部分なの?

ってところからです。

本当は今回のこの記事を書くつもりはなかったんですが、二の丸の痕跡の記事を書いていくうちに、最初に触れとかないと文章がいちいち長くなってしまいそうなので書いておくことにしました(^_^;)

さて、本題に戻ります。

三原城の二の丸ですが、いつもの幕末慶応期の三原城絵図で示すと、この部分になります。


結構範囲が広いんです。

そもそも、三原城の縄張りについて少しだけ触れておかねばなりません。

◯分類
三原城は元々海だった場所にあった二つの小島をベースに、付近の海を埋め立てて造った平地にあるお城なので、平城に分類されます。

ちなみに、ざっくり言うと、山の上なら山城、平地とそこにある低い山や丘を利用していれば平山城といった具合です。

平城の例:広島城


平山城の例:姫路城


山城の例:備中松山城


◯縄張り
次に縄張りですが、城の主要な曲輪=郭(くるわ)の配置がどのようになっているかを見ていきます。三原城の場合は、本丸を角に配置し、それを二の丸、三の丸が三方向を包むようにして配置されています。

このような特徴を持つ郭の配置は、梯郭式(ていかくしき)といいます。


縄張の基本のかたち(枻出版『再入門 オトナのための城』p116より引用)

連郭式


梯郭式


輪郭式


梯郭式の説明の中で背後に自然地形を応用するとありますが、三原城の場合は本丸の背後に位置する桜山詰の丸として整備し、背後の備えとしています。

本丸天主台と桜山の位置関係


詰の城
一つの城の中で最終拠点となる地域,または曲輪(くるわ)。本丸一帯をさす場合と,本丸よりもさらに重要な曲輪を設けてそれをさす場合とがある。(三省堂大辞林より抜粋)

◯馬出(うまだし)
実はこの三原城の二の丸のこの部分、広島城の二の丸と作りが良く似ていると思うんです。


安芸国広島城所絵図(城の主要部を拡大したもの)


広島城二の丸


広島城二の丸は、馬出(うまだし)という構造になっていて、その狙いは、敵が攻め寄せて来たときにこの郭の虎口(門)の内側に自軍の兵士を待機させておき、そこで敵を迎撃することもできるし、一気に出撃させることもできるというところがポイントです!

馬出は、戦国時代に東日本の城郭でよく用いられ、豊臣秀吉も京都の聚楽第(じゅらくてい)にこの仕掛けを用いたようです。毛利輝元が築城した広島城は聚楽第を模して作られたといいますから、毛利家家臣で豊臣政権の重鎮でもあった小早川隆景がその影響を受けて三原城にも取り入れたんじゃないかな〜と想像します。

なお、馬出は慶長期(1596年〜1615年)に築城された近世城郭に取り入れられているものもあり、例えば、江戸幕府が天下普請で築城した名古屋城なんかにも馬出が存在しています。

◯主要な家臣の屋敷
江戸時代の初期を除けば、明治時代に至るまで浅野氏が三原城を治めました。三原城主となったのは、本家である広島藩浅野家の家老であった三原浅野氏ですが、実は、幕末になるまでは城主といえども主家の家老ですから、広島藩の藩政に参加するために広島の屋敷で生活をしていました。

なので、三原城には年に数回来る程度。代わりに、城代として三原城を預かっていたのは、三原浅野氏の重臣・戸田氏でした。

彼らのような城代クラスの重臣たちの屋敷が二の丸には並んでいました。ちなみに、城代を務めた戸田氏の屋敷はコチラ!


二の丸南東部にある船入櫓(ふないりやぐら)の付け根のような場所に位置していたようです。

ちなみに。三原城代の戸田氏歴代のお墓が三原市中之町に存在します。

写真はコチラ!


草ボーボーです(^_^;)

場所は、上でも少し触れた桜山の北側を通る大目木峠に位置しています。元々ここには戸田氏の菩提寺であった正法寺があったので、ここにたくさんのお墓が存在しているとのこと。なお、現在の正法寺は三原市本町に移転しています。




しかしながら、維持をするのも大変なのでしょう。この場所に足を運んだのは今年の8月初旬でしたが、三原築城450年事業の力で何とかしてあげられないものなのでしょうか。。


さて、三原城の二の丸に関する予備知識はこのへんにして、次回からはいよいよ三原城の二の丸の痕跡を探っていきます!!



つづく
Posted at 2017/09/10 20:23:50 | コメント(1) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記

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「かつて三原城内にあったという現存する移築門4棟、ついにコンプリート!(*´-`)
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何シテル?   06/03 19:04
まっつん.と申します。 野球が好きです。 広島カープが大好きです。 多分、石橋を叩いて渡るタイプです。 広島東洋カープ目指せ日本一!! ...
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