
三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。
このところ、館町エリアの痕跡を探索しておりますが、今回は東大手門跡をご紹介します!
ただし、今回は久々の妄想編です。
絵図を見てガッツリ妄想してるだけの内容ですので、事実とは異なる点も多いと思います(^_^;)
さてさて。
そもそも
大手門とは、
城の正門のことですが、三原城には
東西二つの大手門がありました。
三原城の場合は、湾に浮かぶ小島をベースに、元々海だった場所を埋め立てて築いた城であるという性質上、城下町を作るにあたっては十分な広さの平地の確保が難しく、結果、東町と西町の二つの城下町が形成されました。
その、東町側から三原城へ入城する際の正門が東大手門だったというわけです。
残念ながら、現在は東大手門跡と記された石碑が建つのみです。
和久原川に架かる大橋から東大手門跡を臨む
小橋が架かっていたであろう場所から東大手門跡を臨む
場所は、Google mapで確認するとこの辺り。
江戸時代前期の正保の城絵図だとコチラ。
拡大するとこんな感じ。
次に、江戸時代末期(慶応)の絵図だとコチラ。
拡大するとこんな感じ。
絵図を見た感じの特徴としては…
①枡形虎口(ますがたこぐち)
②櫓門(やぐらもん)
だったのかなというのが見て取れるかなと思いました。
◯枡形虎口とは
一言でいうなれば
「死の間」。
実に物騒ですねぇ…(^_^;)
土塁や石垣で枡(ます)のように四角く囲まれた空間であることから
枡形(ますがた)といいます。
宮崎県の飫肥城旧本丸の枡形虎口
虎口(こぐち)とは、城の曲輪(くるわ・郭)の出入口のことです。
この空間の入口と出口の位置はわざとずらしてあり、敵兵が直進できないように(勢いを緩めるように)しながら、正面からだけではなく、横方向からも攻撃できるように工夫されています。
入口と出口は直角に配置されていることが多いように思います。「まっすぐ進ませない」は、城のセオリーですね。
ここに敵兵を誘い込んで門を閉ざしてしまえば行き止まりとなり、立ち止まった敵兵は、石垣上に築かれた櫓の格子窓や塀に開いた穴=狭間(さま)から鉄砲や弓矢によって三方向から一斉に狙撃されるという世にも恐ろしいキルゾーンです((((;゚Д゚)))))))
その防御力の高さから、色々な近世城郭で採用されていますので、お城に立ち寄られた時にはご注意を(笑)
枡形虎口には手前に
高麗門、奥に
櫓門の二つの門を設けることで、四角い枡形の空間を作り出しています。
香川県の丸亀城大手枡形虎口
そのねらいは、狭い高麗門を通過させることで、枡形の空間に一度に入れる敵兵の人数を絞り、そのうえで一斉射撃を加えるというものです。
ところが、
三原城東大手門の枡形の場合は、門は
櫓門一つのみとなっています。
ただ、幅の狭い小橋を枡形の手前に設けることで、高麗門を設置するのと同じ効果を狙っているんじゃないかなと思いました。
まぁ、僕の妄想ですけど(^_^;)
◯櫓門とは
櫓門(やぐらもん)とは、
門の上に櫓(やぐら)という建物を重ねている門のこと。
以下に色々な城の櫓門の写真を掲載しますが、どれも規模が大きな城門です!大手門(正門)として色々な城で採用されていて、
城の大手門といえばコレ!的な存在です。
枡形と組み合わせてあることも多く、
城の防御の要といえるでしょう!
さて、櫓門にもタイプがあって、木造二階建ての
二重門タイプと
石垣を築いてその上に多聞櫓(たもんやぐら・長屋みたいな建物)
を乗せているタイプがあります。絵図を見ると三原城東大手門の場合は後者のタイプのようです。
例えば、青森県の弘前城の門は石垣を使わない木造二階建ての二重門タイプ。
福島県の白河小峰城の前御門は石垣の上に多聞櫓を乗せたタイプ。三原城のはこっちのタイプかなと。
さらに、色んな城の櫓門を見ていると、石垣の上に多聞櫓を乗せている櫓門にもタイプがあって、
石垣上の全面を使って多聞櫓を建てているタイプと、
多聞櫓と塀を組み合わせているタイプがあるように思います。
例えば、我が広島県の福山城の筋鉄御門は石垣の全面を使って多聞櫓を建てているタイプ。石垣の端と多聞櫓の端がピッタリ合ってます。ちなみに、名前の通り門扉には鉄板が貼り付けてあります。
一方、広島城の表御門は、多聞櫓と塀を組み合わせているタイプ。櫓は石垣の全面を使わずに建てられていて、残りの部分には塀が設けられています。ちなみに門扉は木製。
裏側に回り込むとよくわかります。多聞櫓の端から石垣上にはかなり空間が残されていて、そこに塀が設けられています。
もちろん塀には穴=狭間(さま)が設けられているのが写真でお分かりになるかと思います。兵士があの塀に潜んで敵兵を狙撃するわけです。絵図を見る限り、三原城の東大手門もこんな感じだったのかな…と思いました。
絵図しか手掛かりがないのですが、櫓門に関するその他の外観上の特徴として、まず、屋根について考えてみました。
正保絵図を見る感じだと、三原城東大手門のこの多聞櫓は
入母屋造(いりもやづくり)っぽいので、屋根は広島城の表御門に近い感じかなぁと思いました。屋根の先端が跳ね上がってる感じとか。

※入母屋屋根の図
コトバンクより引用
あと、屋根以外の櫓の外装に関しては絵図を見る感じでは、
下見板張りの黒い壁に
漆喰塗籠の白い格子窓があるように見えるので、色合いは白河小峰城の前御門みたいな感じかなぁ…と思いました。
というわけで、絵図くらいしか資料がないので、三原城の東大手門はどんな感じだったんだろうかと、全国各地の城に行って撮ってきた写真とにらめっこしながらひたすら妄想してきました。
城の顔ってやっぱり天守なのでしょうけど、個人的には櫓門の威圧感とか重厚な感じが好きですね。立ち塞がってる感といいますか。
あーあ、三原城にも大手門が復元されたりしないかなぁ…(^_^;)
つづく
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三原城の痕跡を辿る | 日記
Posted at
2016/07/24 17:30:28