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2017年03月29日

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十 西浜編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十 西浜編】 三原城の痕跡を辿るこのシリーズも今回で二十回目を迎えます!

こんなに続くと思ってなかった(笑)

まだまだ出していないネタがありますので、よろしくお付き合いくださいませ♪

さて、今回はマニアックでわかりにくい痕跡を一つご紹介です!

と言うか、そもそもマニアックな痕跡の方が多い連載ですけどね(^_^;)

トップの画像にも載せておりますが、今回取り上げるのは、

その十八 河原谷川編② でもちょこっと登場したこのワキ洋裁店の脇の小路の…


その先の…


コレです!


小路に佇むこの石柱。

南側の面には敷石紀念碑と記されており、


北側の面には、明治29年2月成功と。下には人の名前が彫られています。


さて、これは一体何なのでしょうか?

付近には、説明板等もありませんが、こちらの本にちゃんと載っておりました!




西浜のもやい柱
敷石記念碑とあるこの石碑は明治時代、西浜港の雁木(がんぎ)を築いたときの寄付者名簿だ。船をつなぐもやい柱としても使われていたようだ。

もやい柱とは、漢字で舫い柱と書き、要するに港にあるコレのことらしいです!


あの石柱は、昔、西浜港がそこにあった痕跡だということです!

Google mapで確認してみるとここになります!


かつては、もやい柱の位置から左側は陸地、右側には雁木とその先に港があったんですね。


いつもの幕末慶応期の城絵図だとこの辺り。


今じゃ完全な陸地と化し、港の跡形もないですが、この小路は、


ここの名残りってことですね。


ま、幅はもっと広かったはずでしょうけどね。

ちなみに、この場所の変遷を城絵図で確認しましょう!

まずは1644(正保元)年の備後国之内三原城所絵図。


江戸時代前期の、築城の時期に最も近い絵図ですが、この時点では港町も未発達で、もやい柱のあの道もまだ途中までしかないようです。

お次は、1709(宝永6)年の紙本著色三原西町絵図。


埋め立てたのか、土地が南に向けて広くなり、港町が発展しているのがわかります。あの道はまだ途中まで。

そしてお次は、江戸時代後期の1840(天保11)年の紙本著色備後三原絵図。


土地の埋め立てはさらに進み、港町も道も、右隣の西築出(にしつきだし)よりも南側に突き出した地形に変化しています!

こんなふうにして、この場所は江戸時代265年の中で姿を変えてきたようです!

ちなみに、この西浜の港は、三原城の結構大事な役割を持った港だったようです。

三原城は、城郭と港が一体化した城ですが、以前ご紹介した東築出(ひがしつきだし)には、船問屋が立ち並ぶ港町だったようですが、『三原市史第三巻』によれば、西浜には広島藩の浦辺蔵所があり、年貢米の輸送が行われる拠点としての機能を有していたそうです。


浦辺蔵所とは、藩への年貢米を納入するための蔵なのですが、本来年貢米は、広島藩のエリアならば広島城下にある米蔵(御蔵所)に納めるのが正しい方法らしいのですが、それだと非常に不便なので、町村の便利のために備えられた蔵が浦辺蔵所ということらしいです。

ちなみに広島藩では、三原以外にも尾道、忠海、竹原、三津、三次にも浦辺蔵所が設けられていたそうです。

『三原市史』によれば、大事な役割を持つ西浜の港には、

船乗りたちの便宜を図るため、文化14(1817)年に西浜に髪結い床が、天保2(1831)年には雪隠(公衆トイレ)が設置された

といったような面白い記述もありました!

しかし、そんな西浜港にも弱点が。

三原浦に流れ込む沼田川が運んでくる堆積物のおかげで船入の水深が浅くなってしまい、しばしば掘り浚えが必要となり、これが当時の三原西町の人々にとって大変な負担だったということが、三原市史に記されていました。

良港の条件とは、①水深があり ②囲まれていて波が静かで ③荷物の輸送に便利で ④大都市に近い というのが、2月18日放送のブラタモリ(#64「神戸の港はなぜ、1300年も良港なのか?」)で紹介されておりました。


水深が深くなければ、入港できる船舶は限られてしまいます。

その点、江戸時代後期に造られた糸崎の松浜港は水深が深く、明治時代に入ると港としての重要性は松浜港、ひいては糸崎港へとシフトしていったのでしょう。


やがて鉄道も開通し、昭和に入ると西浜は港としての役目を終え、完全に埋め立てられて陸地となっていったようです。


西浜変遷図によれば、西浜の港はピンク色と黄色に塗られているので、徐々に埋め立てられていったのがわかります。


もしかすると、もやい柱の小路の横のピンク色の部分は、冒頭で触れた西浜の港に雁木が築かれたことを示してるのかな?明治29年だし。

明治31年測量の地図を見ると、もやい柱の小路に沿ってL型に埋め立てて人工的な入り江が造られており、西浜変遷図の情報とも合致します。


探してみると、三原市のホームページに、明治から昭和初期までの西浜港の写真もありました!

(三原市ホームページ→検索コーナー「組織で探す」→教育委員会教育部「文化課」→「三原市歴史民俗資料館」→「みはら情景」→新みはら情景「西浜港(第22回)」の順に辿っていけばみれます。)


ちなみに、最近何度も登場するこの西浜変遷図、実はもやい柱の小路に設置されているのです。


そしてこのもやい柱の小路を南に、国道を渡ってさらに進んでいくと、前回も少し紹介した西浜の名前がついた西濱中大師堂に辿り着きます。




これももしかすると…


ここにあった休堂の名残りだったりして!

ま、妄想ですけどね。

と、いうわけで今回は、完全に陸地と化した場所が実は昔は港だったというお話でした!

ちなみに、今回紹介した場所の現在の町名は「港町」。その由来はきっと今回ご紹介したようなことなのでしょう。



つづく
ブログ一覧 | 三原城の痕跡を辿る | 日記
Posted at 2017/03/29 19:31:48

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