
三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。
だんだんと城郭には直接関係ない痕跡ばかり取り上げるようになったこのシリーズ(^_^;)
前回の西浜なんかはまだギリギリ城の外郭あたりのお話でしたが、今回のコレなんてもはや直接的な城の設備ですらございません。
そんな第21回目のテーマは、
水尾(みお)!
いわゆる
導流堤というやつです。
導流堤とは…
流水の方向や速度を一定に保つために設けられた堤。多く、土砂の堆積を防ぎ流路を維持する目的で、河口や合流・分流地点に設けられる。(
コトバンクより引用)
このシリーズで、
三原の川は土砂の堆積作用が強く、河口の港も土砂で水深が浅くなってしまうため、たびたび浚渫(しゅんせつ)=掘り浚えをしなければならず大変だったということに触れました。恐らく、今回取り上げる水尾はその痕跡だと思われます。
まずは幕末の慶応期の城絵図で確認。
恵下谷川と西野川の河口にバッチリ描かれておりますね。
現在の姿をGoogle mapの航空写真と現地で撮った写真で確認するとこんな感じ。
恵下谷川と西野川が交わるところに2本の水尾(導流堤)が確認できます。
手前が恵下谷川、奥が西野川。
コンクリートで補修されてます。
さて。ここで、もう一つ絵図で確認。
上の幕末慶応期の城絵図から遡ることおよそ20年前に描かれた
紙本著色備後三原絵図(1840年)を確認。
水尾(導流堤)に関しては、城の設備じゃなく城下町の設備なので、この絵図のほうが正確に描かれているだろうと思われますが、川の河口に3本の水尾(導流堤)が描かれているのが確認できます。
そのうち、恐らく下(南側)の2本が今も残っている水尾(導流堤)なんだろうと思います。
一番下(南側)の水尾(導流堤)については、
『みはら雑学王』にこんな記述を見つけました!
西野川のヘビ石
西野川の運んでくる土砂が宮沖干拓地の排水口を塞ぐのを防いでいる。
確かに。西野川の流れが宮沖新開(干拓地)の排水口に近づけないよう水尾(導流堤)で遮ってあることがわかります。
で、真ん中の恵下谷川河口の水尾(導流堤)は、恵下谷川自体の流路の確保と、もう一つは、やはり西野川からの土砂が西浜港へ流入するのを防ぐ目的があったのだろうと思います。
その辺りに関することを探ってみたところ、
『三原市史』の第二巻に以下のような記述がありました。
慶安2(1649)年、西浜に藩の米蔵が置かれて、年貢米の納入や搬出の基地となった。
(中略)
元禄期(1688~1704)以降に西船屋敷が設置され、ついで安永年中(1772~81)に新土手築調に取りかかり、天明元年(1781)に西浜新地(土手)が完成した。
(中略)
西浜は、西野川の土砂流入によって航路が埋没するという問題を常に抱えていたので、航路の保全には多額の費用が必要であった。明和8年(1771)、西町の町人は建て替えた水尾の浚渫費を回収するため、入港船から徴収する上げ荷賃を100石につき米1斗から、1石につき銀3厘に改め、問屋に徴収させている。
西浜は、広島藩の米蔵がある重要な港。常に船が出入りできる状態を保つために、多大な費用と人手をかけてそれを維持してきたことが伺えます。
この公共事業をするのに藩にもお金がなかったから、三原西町の町人から借金をしたということかな?
さらには、宮沖新開も元々は海だった場所を埋め立てた土地。戦国時代のように、戦争をして領地を拡大できない江戸時代にあって、三原を治めた浅野の殿様と西町の町人にとって、いかにして土地を確保し、そこから生産性を高めて、少しでも人々が豊かに生活できるようにしていくかというのは本当に重要なことだったのだろうと思います。
そういったことを維持するために必要な浚渫(川浚え)の作業は大変なので、少しでも負担が減るように、この水尾(導流堤)が築かれた、ということなのでしょう。
今まで、「この石は何なのだろう?」とは思っていましたが、色々調べた上で「水尾(導流堤)なのだ」という意識で同じものを眺めたときに、先人たちの苦労と努力というものが垣間見えて、同じ風景なのに一味違った印象を持つようになった、という今回の取材でした。
つづく
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Posted at
2017/05/16 19:12:40