
三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。
この不定期連載を始めて1年半。
マニアックな痕跡をチマチマと追いかけて参りましたが、いよいよ城の主要部である
二の丸の痕跡を探していきます!
まずは、
三原城の二の丸ってどの部分なの?
ってところからです。
本当は今回のこの記事を書くつもりはなかったんですが、二の丸の痕跡の記事を書いていくうちに、最初に触れとかないと文章がいちいち長くなってしまいそうなので書いておくことにしました(^_^;)
さて、本題に戻ります。
三原城の二の丸ですが、いつもの幕末慶応期の三原城絵図で示すと、この部分になります。
結構範囲が広いんです。
そもそも、三原城の縄張りについて少しだけ触れておかねばなりません。
◯分類
三原城は元々海だった場所にあった二つの小島をベースに、付近の海を埋め立てて造った平地にあるお城なので、
平城に分類されます。
ちなみに、ざっくり言うと、山の上なら山城、平地とそこにある低い山や丘を利用していれば平山城といった具合です。
平城の例:広島城
平山城の例:姫路城
山城の例:備中松山城
◯縄張り
次に縄張りですが、城の主要な曲輪=郭(くるわ)の配置がどのようになっているかを見ていきます。三原城の場合は、本丸を角に配置し、それを二の丸、三の丸が三方向を包むようにして配置されています。
このような特徴を持つ郭の配置は、
梯郭式(ていかくしき)といいます。
縄張の基本のかたち(枻出版『再入門 オトナのための城』p116より引用)
連郭式
梯郭式
輪郭式
梯郭式の説明の中で
背後に自然地形を応用するとありますが、三原城の場合は本丸の背後に位置する
桜山を
詰の丸として整備し、背後の備えとしています。
本丸天主台と桜山の位置関係
詰の城
一つの城の中で最終拠点となる地域,または曲輪(くるわ)。本丸一帯をさす場合と,本丸よりもさらに重要な曲輪を設けてそれをさす場合とがある。(三省堂大辞林より抜粋)
◯馬出(うまだし)
実はこの三原城の二の丸のこの部分、
広島城の二の丸と作りが良く似ていると思うんです。
安芸国広島城所絵図(城の主要部を拡大したもの)
広島城二の丸
広島城二の丸は、
馬出(うまだし)という構造になっていて、その狙いは、敵が攻め寄せて来たときにこの郭の虎口(門)の内側に自軍の兵士を待機させておき、そこで敵を迎撃することもできるし、一気に出撃させることもできるというところがポイントです!
馬出は、戦国時代に東日本の城郭でよく用いられ、豊臣秀吉も京都の聚楽第(じゅらくてい)にこの仕掛けを用いたようです。毛利輝元が築城した広島城は聚楽第を模して作られたといいますから、毛利家家臣で豊臣政権の重鎮でもあった小早川隆景がその影響を受けて三原城にも取り入れたんじゃないかな〜と想像します。
なお、馬出は慶長期(1596年〜1615年)に築城された近世城郭に取り入れられているものもあり、例えば、江戸幕府が天下普請で築城した名古屋城なんかにも馬出が存在しています。
◯主要な家臣の屋敷
江戸時代の初期を除けば、明治時代に至るまで
浅野氏が三原城を治めました。三原城主となったのは、本家である
広島藩浅野家の家老であった
三原浅野氏ですが、実は、幕末になるまでは城主といえども主家の家老ですから、広島藩の藩政に参加するために
広島の屋敷で生活をしていました。
なので、三原城には年に数回来る程度。代わりに、
城代として三原城を預かっていたのは、三原浅野氏の重臣・
戸田氏でした。
彼らのような城代クラスの
重臣たちの屋敷が二の丸には並んでいました。ちなみに、城代を務めた
戸田氏の屋敷はコチラ!
二の丸南東部にある船入櫓(ふないりやぐら)の付け根のような場所に位置していたようです。
ちなみに。三原城代の
戸田氏歴代のお墓が三原市中之町に存在します。
写真はコチラ!
草ボーボーです(^_^;)
場所は、上でも少し触れた桜山の北側を通る
大目木峠に位置しています。元々ここには戸田氏の菩提寺であった
正法寺があったので、ここにたくさんのお墓が存在しているとのこと。なお、現在の正法寺は三原市本町に移転しています。
しかしながら、維持をするのも大変なのでしょう。この場所に足を運んだのは今年の8月初旬でしたが、三原築城450年事業の力で何とかしてあげられないものなのでしょうか。。
さて、三原城の二の丸に関する予備知識はこのへんにして、次回からはいよいよ三原城の二の丸の痕跡を探っていきます!!
つづく
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Posted at
2017/09/10 20:23:50