
三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。
半年以上放置してしまっておりましたが、そろそろ、ぼちぼちと再開しようと思います。
一度始めたことは完結させなければ!
というわけで、近代化の波の中で破壊され、わずかにその姿をとどめる三原城の案外残ってる色々な痕跡をご紹介してきて、とうとう城の主要部に突入していきます!
なので、ここから先は今までのようにマニアックなものではなく、石垣を中心とした
わかりやすい痕跡を紹介できるかと思います(^^)
で、「
本丸中門跡」です。
でもこれ、「本丸」じゃないと思うんですよー。
石碑を否定して申し訳ないですけど。
じゃあ、いつものようにまず場所の確認からいきましょう!
コチラ!
三原駅からほど近いペアシティ西館の西側の出入り口のところです。
で、いつもの城絵図(幕末慶応期の絵図)でいえばコチラ!
ここで確認。二の丸はこの範囲です。
正保の城絵図でもホラ。
というわけなので、ここは
二の丸。本丸は、この正保の城絵図に記してあるように二の丸から高石垣で仕切られた内側になるので、場所で名前をつけるのなら「本丸中門」ではなく、
「二の丸中門」なのではないかと思います。
絵図を見ると門の形式は櫓門。こんな感じのイメージかな。
櫓門の例:広島城表御門
堅固な門で敵兵を足止めして、門の上の櫓の中からと狭間のついた塀や南側の一番櫓から一斉攻撃を仕掛けられたらひとたまりもないですね(^_^;)
で、現在のこの中門付近ですが、門自体は残っていませんが、門の北側の石垣が残されています。
石垣に使われている石が大きいのが特徴。
小早川隆景が築城した当時のものだといわれている天主台の西面の石垣と同じような雰囲気があります。
写真:堀底から見上げた天主台西面の石垣
このことについて、
広島県埋蔵文化財調査センター調査報告書第156集『三原城跡』(1997 財団法人広島県埋蔵文化財調査センター発行)
という資料に、『三原城跡の石垣について』という内容で広島大学大学院教授で寺社や城郭研究の専門家である三浦正幸先生が解説されているのですが、この中門の石垣については、
・特徴:南北一直線の石垣
・北半分…丸みの多い石材。天主台西面(→慶長元(1596)年)と共通。
→一部は慶長元年のものが現存しているが、後世の改造が著しく、石垣を積み足した痕跡(石垣の端部を示す目地)が明白に表れている。当時の石材を再利用した積み直し。
と指摘されています。
いつもここの石垣を見ていて、古そうな石垣なので築城時そのままが残ってるのかなと思っていたのですが、どうやらそのままではないようです。
が、積み直してはいるけれども、実は小早川隆景が築城したころの石が使われている貴重な三原城の遺構だということに間違いなさそうです。
ちなみに、南側の石垣は崩された後に新たな石材で築かれたもので、三浦先生の解説でも
近代的(明治以降)石積み。谷積み+間知積み。
とのことで、比べてみると一目瞭然。
ちなみに堀の幅も縮められていると思います。
そして、その南側の石垣の側には、
臨海一番櫓址の石碑が。
三原城の海に面した10基の櫓は、福島正則の時代に改築された可能性があるのだそうです。
今となっては陸地になっていますが、臨海の名の通り、当時はここから先は海だったんですねぇ。
イメージはこんな感じ?
次回も二の丸の痕跡を探していきます!
つづく
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三原城の痕跡を辿る | 日記
Posted at
2018/07/01 08:19:52