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まっつん.のブログ一覧

2016年03月26日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その五 東築出堀(妄想)編①】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その五 東築出堀(妄想)編①】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

今回は、前々回ご紹介した和久原川の水刎を現地で確認する過程で発見した石垣について考えてみようと思います。

個人的には「これは多分、東築出堀(ひがしつきだしほり)という三原城の堀の石垣の一部なんじゃないかな・・・」と思うんです。

が、図書館に行って『三原市史』をめくってみても、三原城の遺構の記述の中で「東大手門南付近の石垣」という記載はあるんですが詳細は書かれていないんですよね。

それではっきりしないので、今回のタイトルは「東築出堀(妄想)編」とさせていただいております(^_^;)

さて、まずはいつものようにGoogle mapで場所の確認です。今回はココ!



拡大するとこんな感じ。



そう、コンビニの裏の溝です(笑)



これ、全然知らなかったんですけど、水刎の付近をウロウロしてたらたまたま見つけて。



なんとも雰囲気のある石垣が溝の奥にあるのがお分かり頂けると思います。



よく見ると矢穴もあるし♪

【矢穴】石垣に使う石を割るときに開ける穴。



溝の東側の石垣は南へ続いていく。西側のは比較的新しい石積みでしょう。



南側に回りこむと・・・



半分から上は新たに積み足されたものですが、半分から下は石垣の角が算木積みになっていて、見るからに古そう。

【算木積み】崩れやすい石垣の角の強度を高めるための石の積み方。直方体に加工した石を使って、石の長辺を石垣の角の両面に交互に出すように積む。



さて。この石垣は、和久原川の水刎の位置を参考にして昔の絵図で確認すると・・・ココか?



『三原市史』に記されているように、東大手門の南付近だし。



まぁ、形状が違うけど、Google mapと幕末の絵図じゃ正確性に差があって当然だし。

ちなみに、第二回目でご紹介した船入櫓跡で見つけた近年の三原の地図と三原城の絵図を重ね合わせた図によればこんな感じ!





・・・これ、せっかくのいい資料なのに、かなり色あせてるうえに地図が古く、今とはまた道路とか違うんで何とかして欲しいんですけどね(^_^;)

でもまぁ、こっちの方が堀と溝の形状が近いようには見えますけどね〜


というわけで、長々とお話ししてきましたが、今日の結論!

この溝の石垣は、「元々は東築出堀だったが、近代になって埋め立てられて幅が狭められ、それでも残った三原城の石垣」だと思いたい‼︎



という妄想でした(笑)






つづく
Posted at 2016/03/26 20:18:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2016年03月20日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その四 和久原川両岸の高低差編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その四 和久原川両岸の高低差編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

第四回目も、前回と同じく城の東側の外堀の役割を果たした和久原川に施された水害対策についてご紹介します。

NHKで土曜日の19:30から放送されている『ブラタモリ』という番組がありますが、僕はこの番組が大好きで。

タモリさんが専門家の人から説明を受けながら街を歩く中で、昔の街の痕跡を見つけていく時によく登場する高低差というキーワードがありますが、今回の三原城の痕跡はまさにそれで、ブラタモリファンとしては少しテンションが上がります!!

というわけで、早速いきましょう!

まずはおさらい。昔の絵図の和久原川はコチラ。



これは、1688(元禄元)年頃に描かれた『紙本著色備後国三原城下絵図』(三原市指定重要文化財)という絵図です。

で、Google mapで見る現在の和久原川はコチラ。



そして、実際の和久原川はこんな感じ!



この写真は、和久原川に架かる大橋から川の上流(北の方角)を撮影したものです。

写真左側(西岸)が館町。右側(東岸)が東町です。

左右の岸の高低差がお分かりいただけるかと思います。

次は少し角度を変えてみましょう。

東町側から館町を見ると、こんな感じ。向こうの方が高いですね。



反対に、館町側から東町を見ると、向こうの方が低くなっています。



実は、これも三原城の水害対策の一つなのです。それを紹介している現地の説明板が三菱五雲寮の敷地内にあります。







説明板によれば、要するに、洪水の被害が館町側=城地(武家屋敷)に及ばないよう両岸の石垣に高低差をつけて、低い東町側=町家の方に水を逃すように設計されたってことですね。

さらに、説明板には「更にその低い東岸の一ヶ所に、いざというときに切り崩して被害が岸全体に及ばないようにする箇所を設けました」とあります。

それがこの場所らしいので、対岸から見てみるとこんな感じ。



確かにこの場所は低くなっているようで、左側に向けて微妙に坂道になっていました。

写真がヘタで分かりづらいですが・・・(>_<)

ちなみに、この東町周辺の昔の様相は、説明板にもあるように田んぼが広がっていたようです。

先ほどの絵図の東町を拡大するとこんな感じ。



確かにザブ田(湿田)が広がっているようですけど、川沿いには家が建ってますよね。

これは、この仕組みを作った後でここに人が住み始めたんでしょうけど、大変だったでしょうね(^_^;)

にしても、川の水が溢れるのは常に東町側だなんて、武家社会だからとはいえなかなか理不尽な話だなぁ・・・。

ちなみに、今年2月28日にRCC中国放送で放映された『知将が築いた海の城 浮城・三原城と小早川隆景』という番組の中でも、この川の両岸の高低差が紹介されていました。





アゼリアガイドの小森キヨミさんが、番組ナビゲーターの谷原章介さんに説明されていましたが、増水した川の水を東町に流したときに住民が脱出できるように船を用意していたとの事。



民衆に対して一定の配慮はされていたようです。


ということで、今回も三原城の水害対策をご紹介してきましたが、まさか外堀(川)の話だけで2回も記事が書けるとは(^_^;)

それにしても、普段毎日のように行き来している風景の中にも、調べてみると昔の城の痕跡って案外たくさん残っているものなんですねぇ。

高低差、気にかけてみるとおもしろいかもしれませんね!


つづく
Posted at 2016/03/20 19:41:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2016年03月11日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その三 和久原川の水刎編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その三 和久原川の水刎編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

第三回目は、城の東側の外堀の役割も果たした和久原川に築かれた水刎(みずはね)をご紹介します!

これは、三原城の痕跡としては比較的よく知られているところかもしれません。

今回は、昔の絵図とGoogle mapを比較しながら痕跡を辿ってみたいと思います。

まず、水刎の位置は現在の地図でいえばここらへんになります。



拡大すると、川の西側がギザギザになっているのがお分かり頂けるかと。



で、昔の絵図だとここらへんです。

※この絵図は、幕末の慶応年間(1865年〜1868年)に描かれたという『備後国三原城繪図』という絵図で、ペアシティ西館の側にある本丸中門跡に設置されているパネルを撮影したものを加工して使っています。



拡大するとこんな感じ。やはり、ギザギザですね。



このギザギザは水刎(みずはね)といって、川の流れを緩やかにするために築かれた石垣なのだそうです。

では、現在の水刎の姿を見てみましょう!

大橋のすぐ北側の水刎は下部がコンクリートで補強してあります。



大橋のすぐ南脇の水刎。その奥にも三角形の水刎がいくつかありますね。



先ほどの拡大した昔の絵図にもある「藤井橋(今橋)」から見た水刎。



現地の説明板。



この中で、

「川の流れを弱める役と、流れの方向を変えて、三原城の「東築出」の用地を確保する為に作られた石積と考えられます。」

とあります。



なるほど。この「東築出」を築くために和久原川の流れを変えたんでしょうね。確かに、地図で見てても、大橋のすぐ南で川の流れ方が直角に近い感じで東に曲がってて不自然っちゃあ不自然ですもんね。



たぶん、川の流れを無理やり変えると、雨で水量が増した時なんかは、その部分に水が勢いよくぶつかることになる。水害対策のためにも、川の流れの勢いを緩和するための工夫が必要で、それがこの水刎だったんでしょうね〜。

さて、海城・三原城における水害対策の仕掛けは水刎以外にもあるようです。

というわけで、次回もまたこの近辺にある城の痕跡を辿ります‼︎


つづく
Posted at 2016/03/11 13:01:46 | コメント(1) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2016年03月04日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二 大島・小島編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二  大島・小島編】小早川隆景が築いた海城・三原城。

その痕跡を辿るシリーズ第二回目は、城のベースとなった大島小島の痕跡を辿ります!

三原城の歴史の出発点ですね。

そもそも、戦国時代中期頃までは、三原の地は三原浦と呼ばれていたそうです。

「浦」とは、goo辞書によれば、

1 海や湖が湾曲して陸地に入り込んだ所。入り江。
2 海辺。浜。

という意味です。つまり、三原の地は今でこそ埋め立てによって街が開けていますが、戦国時代には現在の三原駅の北側にそびえる桜山の麓までが海だったのだそうです。


桜山(奥)と三原城天主台(右端)

で、その三原浦には沼田川が流れ込み、その河口には大島小島という二つの島があったといい、三原城はそれらの島を繋ぎ合わせて築かれた砦・三原要害を整備拡張して築かれた城だと伝えられています。

なお、今の三原城天主台や三原駅の場所に大島が、そこから南東に位置する船入櫓跡の場所に小島があったということだそうです。

天主台は大島そのものってことになりますね。



さて、まずは大島に由来のある場所に行ってみましょう。

◯大島神社

三原市本町にある妙正寺というお寺の西側に大島神社という小さな神社があります。



この神社、実は三原浦に浮かんでいた大島に元々あった神社を移したものだと伝えられています。



元々大島に祀られていた社が築城後にも天主台にあり、江戸時代、福島正則が安芸・備後の二国を治めるようになってから、現在の本町の地に移された、ということのようです!


神社の本殿の背後には、さらに小さな神社がいくつもあり、この中にはもう一つの島・小島に祀られていた社も移されていると『三原誌稿』という書物に記されています(「本社の西にあり」との記述)。

しかし、正直どれなのか、書かれてないので分かりません(^_^;)







◯船入櫓跡

次に、大島の南東に位置した小島についてです。小島の痕跡は、三原市城町にある城町公園に隣接する「船入櫓跡」の石垣にあります。



この船入櫓跡については、また改めてご紹介するとして、この石垣の下部に岩礁が顔を覗かせています。



岩の上に石垣が築かれていますよね。これが小島がここにあった痕跡らしいです。

◯善教寺

そして、三原市東町にある善教寺です。こちらのお寺も三原の海に浮かんでいた小島にゆかりがあるそうです。



調べてみると、三原観光協会さんのサイト「三原観光navi」や、市民学芸員さんたちの活動報告「みはら玉手箱」の記事に小島と善教寺の由来が紹介されています。

三原観光navi 善教寺

みはら玉手箱 第13号

ざっくりまとめるとこんな感じ。

三原城築城前の沼田川河口の小島には、小島城という城があった。城主・小島摂津守祐直は1554年の小島城の戦いで小早川隆景に敗れ、討死。その子・小島若狭守は、柴田勝家の家臣となった。
小島若狭守の三男・行栄は得度して行円と号し、ゆかりのある三原の東町に善教寺を開いた。

この辺のことは、『三原市史 第四巻(三原誌稿)」にも近い内容が書かれていました。

でも、行円と小島若狭守の三男が同一人物かどうかは微妙なんだよなぁ。

ていうか、三原城築城以前の小島には城があったんだ。ふむふむ。



ちなみに、ゼンリンの地図を見てみると載っていたんですけど、善教寺のご住職の苗字は小島さんなのだそうです。

つながってますねぇ。

というわけで、ずいぶんと長い文章になってしまいましたが、現代でもこのような形で三原浦に浮かんでいた大島・小島の痕跡が残されていますよというお話でした!

三原に住んで9年になりますが、三原城に興味を持つまでは、こういうことは全然知りませんでした。

今回、いくつかその痕跡を辿りましたが、まだ他にもあるのかもしれません。

また引き続き調べてみようと思います!


つづく
Posted at 2016/03/04 21:16:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記

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何シテル?   06/03 19:04
まっつん.と申します。 野球が好きです。 広島カープが大好きです。 多分、石橋を叩いて渡るタイプです。 広島東洋カープ目指せ日本一!! ...
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