
三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。
第四回目も、
前回と同じく城の東側の外堀の役割を果たした和久原川に施された水害対策についてご紹介します。
NHKで土曜日の19:30から放送されている『ブラタモリ』という番組がありますが、僕はこの番組が大好きで。
タモリさんが専門家の人から説明を受けながら街を歩く中で、昔の街の痕跡を見つけていく時によく登場する
高低差というキーワードがありますが、今回の三原城の痕跡はまさにそれで、ブラタモリファンとしては少しテンションが上がります!!
というわけで、早速いきましょう!
まずはおさらい。昔の絵図の和久原川はコチラ。
これは、1688(元禄元)年頃に描かれた
『紙本著色備後国三原城下絵図』(三原市指定重要文化財)という絵図です。
で、Google mapで見る現在の和久原川はコチラ。
そして、実際の和久原川はこんな感じ!
この写真は、和久原川に架かる大橋から川の上流(北の方角)を撮影したものです。
写真左側(西岸)が館町。右側(東岸)が東町です。
左右の岸の高低差がお分かりいただけるかと思います。
次は少し角度を変えてみましょう。
東町側から館町を見ると、こんな感じ。向こうの方が高いですね。
反対に、館町側から東町を見ると、向こうの方が低くなっています。
実は、これも三原城の水害対策の一つなのです。それを紹介している現地の説明板が三菱五雲寮の敷地内にあります。
説明板によれば、要するに、洪水の被害が館町側=城地(武家屋敷)に及ばないよう両岸の石垣に
高低差をつけて、低い東町側=町家の方に水を逃すように設計されたってことですね。
さらに、説明板には「更にその低い東岸の一ヶ所に、いざというときに切り崩して被害が岸全体に及ばないようにする箇所を設けました」とあります。
それがこの場所らしいので、対岸から見てみるとこんな感じ。
確かにこの場所は低くなっているようで、左側に向けて微妙に坂道になっていました。
写真がヘタで分かりづらいですが・・・(>_<)
ちなみに、この東町周辺の昔の様相は、説明板にもあるように田んぼが広がっていたようです。
先ほどの絵図の東町を拡大するとこんな感じ。
確かにザブ田(湿田)が広がっているようですけど、川沿いには家が建ってますよね。
これは、この仕組みを作った後でここに人が住み始めたんでしょうけど、大変だったでしょうね(^_^;)
にしても、川の水が溢れるのは常に東町側だなんて、武家社会だからとはいえなかなか理不尽な話だなぁ・・・。
ちなみに、今年2月28日にRCC中国放送で放映された
『知将が築いた海の城 浮城・三原城と小早川隆景』という番組の中でも、この川の両岸の高低差が紹介されていました。
アゼリアガイドの小森キヨミさんが、番組ナビゲーターの谷原章介さんに説明されていましたが、増水した川の水を東町に流したときに住民が脱出できるように船を用意していたとの事。
民衆に対して一定の配慮はされていたようです。
ということで、今回も三原城の水害対策をご紹介してきましたが、まさか外堀(川)の話だけで2回も記事が書けるとは(^_^;)
それにしても、普段毎日のように行き来している風景の中にも、調べてみると昔の城の痕跡って案外たくさん残っているものなんですねぇ。
高低差、気にかけてみるとおもしろいかもしれませんね!
つづく
Posted at 2016/03/20 19:41:47 | |
トラックバック(0) |
三原城の痕跡を辿る | 日記