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まっつん.のブログ一覧

2017年02月10日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十九 浮世川堀編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十九 浮世川堀編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

前回は、三原城の西側の外堀であった、以前の河原谷川の痕跡を辿りました。

今回は、その過程で気になっていた石組みの溝について考えてみました!

というか、三原城のことを調べ始めるよりも前から、仕事でその近くを通るたびに気になっていて、城の痕跡なんじゃないかな〜と妄想してました。

さて、それはどこなのかといいますと、地図でいえばコチラ!


幕末慶応期の城絵図だとコチラ!


そして現地の写真はコチラ!


そうです、この溝が気になるのです!


ご覧ください、このいい感じに古そうなこの石積みを!


左右、もしくは上下で石の積み方が違っていたりして。


今は駐車場になってますが、以前は、この溝がある場所、家が建っていて、その家が倒されたと思ったらこの溝が出現しました。


僕にはこれが「堀の跡」に思えて仕方がないのです。

というのも、最近よく登場するこの図。


ここに注目すると…


この斜め左に上がっている道路の上下が緑色に塗られていますが、これは元々の水路や堀を埋め立てられたことを記しています。


と、いうことは…


この写真は、上の図の○印の地点を東から西を向いて撮影したものですが、この中央の斜めの道が昔からの道なんじゃないかな…と思うのです。で、もしそれが正しければ、元の河原谷川は右の家が建っている場所の辺りを流れていたはずで、道の左に接するこの溝の位置には…


浮世川堀があったはず!

以前にも、元々は三原城の堀だった場所が現在も一部分が残されて水路として利用されている(と思われる)例をご紹介しましたが、今回のコレもそうなんじゃないかと思ったんです。

西浜変遷図を見る限り、浮世川堀の跡説はいい線いってるんじゃないか…?(笑)


ただし、この石組みが当時から現存するものかどうかは別の話。仮にそうであっても、それはあくまで一部分でしょう。

あと、慶応期の城絵図や西浜変遷図を見て分かるように、堀の縁(へり)の形状がそのまま残されているならば、溝の西端は北から南へ折れ曲がっていなければならないはずですが、この溝の西端の形状は…


南から北へと折れ曲がっています。

逆方向に折れ曲がる形に改変されているようですね。

この石の積み方、なかなか古そうな印象を受けますが、実際のところ、いつ積まれたものかまでは僕には判別できません。。

あと、この溝の両方の先は暗渠(あんきょ)になってますが、どこに、どんなふうに繋がっているのだろう?

北側は、宗光寺方面か…?

南側の地下の水路は、地上からは見えないけど、浮世川堀の跡を利用して整備されてたりして。

まだまだ気になることが多いです!

この溝のことは、これからも継続して調べてみようと思っています!



つづく
Posted at 2017/02/10 19:26:03 | コメント(1) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2017年02月08日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十八 河原谷川編②】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十八 河原谷川編②】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

今回も、前回に引き続き、河原谷川の痕跡を追いかけてみたいと思います。

この河原谷川は、明治時代に三原城が廃城となってから、流路が変更されたようですが、それより以前は、三原城の西大手門の外側を流れており、西の外堀の役割を担っていたものと思われます。

まずは書物にはどのように書いてあるのか調べてみますと、1804年編纂の地誌『三原志稿』には、以下のように紹介されていました。

河原谷川
水源一里計、八坂より流れ、駒ヶ原を経て西の浜東側にて海に入、水常ハかれかれ也、大潮にハ松林小路土橋の辺まて満込、小石川にて、川除あれとも埋つよし(三原志稿 巻之一・三原市史第四巻)


この川は堆積作用が強く、水常ハかれかれ也=枯れているように見える川だったようですね。

だから、小石川にて、川除あれども埋つよしとのこと。

川除(かわよけ)とは…
江戸時代、堤防を堅固にし、川底をさらい、河川の氾濫を防ぐ工事をすること。(歴史民俗用語辞典より引用)



写真は、現在の河原谷川…ではなく、その西を流れる恵下谷川。

今も昔も川浚いをしないと、洪水で生活が脅かされる危険があるということで、当時は重機なんてないから大変だったでしょうね。「埋つよし」っていうくらいだから、川浚いをやってもやっても土砂が堆積するのでしょうからね。

おっと。話が逸れてました(^_^;)

「西の浜」とか「松林小路」というキーワードを覚えておいてください!後で登場します(´∀`)

さてさて。今回のテーマは埋め立てられてしまった河原谷川の痕跡を探せ!ということですが、果たして見つけられるのかどうか。足を使って見てきた結果をご報告いたします!

ただし、全部、城絵図以外の資料に基づかない完全なる妄想ですけどね(´∀`)

まずは、幕末慶応期の城絵図で確認すると、河原谷川が西の外堀だったのがよくわかります。明らかに人為的に直角に流路が曲げられてますよね。しかも2回も。


それが、明治時代の廃城とともに埋め立てられ、流路が変更になったということを前回ご紹介いたしました。


Googlemapに昔の河原谷川の流路を書き込むとこんな感じで、あとはその場所で撮った写真と対比してみましょう。


スタート地点は前回同様、駒ヶ原から!


本町の暗渠(あんきょ)を出たところ。


ここで、まずは①の地点から。


【写真①】本町の丸金橋付近で流路が変えられている。その先のマンションの土地が道より一段低くなっているのが怪しい。これは、川の元々の流れを示す痕跡か…?


【写真①'】そのすぐ南西に段差が続く。果たして、これは川の痕跡なのか?


昔の城絵図ではこの辺りか…?


次に②の地点。


【写真②】①の地点から、さらに南西にある有料パーキング。その奥の空間が気にかかる。


【写真②'】有料パーキングの奥の段差。家屋の下のこの段差と空間。写真①'の場所からずっとこの段差は繋がっているようだ。これは川の痕跡?


昔の城絵図ではこの辺りか?絵図を見た感じでは、川縁には石垣が築かれている様子。


続いて③の地点へ。


【写真③】②の地点の有料パーキングからさらに南西へ。西大手門跡の石碑付近のラーメン屋「来々軒」がある小路を、南から北を向いて撮影。西浜変遷図を見ると、河原谷川はたぶん、この辺りで直角に流路が折れ曲がり、西に向けて続いていた模様。



【写真③'】西大手門石碑付近を東から西を向いて撮影。東西方向に伸びる高架下のこの道路は、先ほどの来々軒のある小路の辺りが微妙に高く、そこから西に向けてゆるやかに下っている。


昔の城絵図ではこの辺りか…?もしかして、この微妙な高低差は、橋が架かっていた名残…とか?


続いて、少し西へ移動し、④の地点へ。


【写真④】まっすぐ東西方向に伸びる高架下の道路と、南北方向に横切る「松林小路」との交差点。河原谷川は、この交差点あたりで直角に流路が折れ曲がり、この写真でいえば、高架下をくぐって南西(左側)に向けて続いていた模様。ちなみに、先ほどの写真③'のゆるやかな下りはこの辺りで一番低くなっている。これは、この場所に川が流れていた痕跡ではないのか?!


ここで気になった人もおられるかもしれません。
写真の右手前にある「石組みの溝」は、一体、何なのでしょうか?
河原谷川の痕跡か?はたまた堀の跡か??
これについて取り上げると、どうやら1回分のネタになるっぽいので、次回取り上げることにします…(´∀`)

さてさて、ここは松林小路というキーワードのおかげで場所が断定しやすいので、昔の城絵図ではこの辺りでしょう。


そうそう。『三原志稿』の記述によれば、普段は枯れ枯れの川が、大潮にハ松林小路土橋の辺まて満込…とのこと。
現在の風景を普段から見てますが、この辺りまで潮が満ちてくるなんて、なんだか想像がつきません。


お次は⑤の地点を少し遠くから見てみます。


【写真⑤】高架をくぐり、港町の「ワキ洋裁店」の脇の小路を撮影。
…って、なんだかダジャレみたいになってしまった(^_^;)


昔の城絵図ではこの辺りか…?


城絵図を見ると、この小路の西側(右側)に河原谷川が流れていて、東側(左側)は堀だったようです。現在はそんな面影なし。


そして、南下して河口付近の⑥の地点へ。


【写真⑥】今も残る西濱(西浜)の地名が付いた大師堂。この辺りが河原谷川の河口付近だったはず。


【写真⑥'】恵下谷川と西野川の合流地点。河原谷川もこれに沿うように海に流れ出ていたはず。


昔の城絵図ではこの辺りかな、と。


というわけで、ここまで、埋め立てられた河原谷川の痕跡を辿ってみましたが、結論!

それらしき痕跡は、特に見当たりませんでした!!

こんなオチでスイマセン。。


でも、松林小路の交差点脇の石組みの溝、あれは気になる!

ということで、次回はその溝について取り上げます!




つづく
Posted at 2017/02/08 19:34:02 | コメント(1) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2017年01月23日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十七 河原谷川編①】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十七 河原谷川編①】三原城の痕跡を辿るこのシリーズも、ずいぶん更新頻度が低下しております(^_^;)

いやいや、今年こそが三原築城450年の年ですからね!まだまだネタはありますから、今年も頑張って妄想全開の不定期連載を続けていきます!

さて、三原城シリーズ第十七弾の今回取り上げるのは、河原谷川という川についてです。

今回、このテーマでいこうと思ったきっかけは、いつもこのシリーズを更新するときに資料にしている『三原市史』の記述に、今も残る三原城の石垣として、

東大手門南付近の石垣、これに続く東大手曲輪(東築出)堀西側の網打場の石垣(南半分はもとトスコ三原工場内)、蓮堀西側の石垣(河原谷川堤防)などがあり、西大手曲輪(西築出)東側の石垣は帝人通り西側歩道と道路の境の下にある。(三原市史第三巻)

とあったからです。

次に、この蓮堀西側の石垣(河原谷川堤防)がどこのことを指すのか探してみるにあたって、まずは河原谷川を辿ってみようと思い調べを進める中で、こんな記事を見つけました。

みはら玉手箱 第5号 みはらおもしろクイズ「消えた河原谷川の下流」


詳しくは、リンク先のみはら玉手箱の記事をご覧いただければなんですが、そこに詳しく、この川の歴史が書かれていました!

というわけで、最初に結論を言っちゃいますが、今回の記事は、このみはら玉手箱に書かれている内容に従ってこの川の現在の姿を、自分の足を使って歩きつつ、蓮堀西側の石垣(河原谷川堤防)を探してみたという内容です!

さて、まずは河原谷川を辿って写真を撮ってきましたのでご覧ください!

(写真を撮影した日はバラバラですけど)


まずは駒ヶ原から南に向けてスタート。


本町の暗渠(あんきょ)の入り口。元々は橋だったんですね。


暗渠の上。この道の下を川が流れている。この辺りの平地は、この川の扇状地かな?


一旦、暗渠が終わって川が姿を見せる。


本町の丸金橋から川を撮影。


桜橋の南から撮影。川はさらに南に向けて流れる。


再び暗渠に突入。


三原駅の西側ガード下。この溝蓋の下を川が流れているのかな?



さらに南下。港町の帝人通りも暗渠になっているそうです。この下を川が流れていき…


最終的に三原港の西側に流れ出て海に至る。

そんなわけで、この川、今も変わらず三原の街を流れる川なのですが、昔と今とではずいぶん流路が変更されているようです!

港町1丁目に設置されている「西浜変遷図」の説明板にそのことが記されていました!


これは明治時代以降の旧三原城西側の埋め立ての歴史を図示したものです。河原谷川のことを示す部分に注目すると…


明治時代中期に川が埋め立てられ、流路が変更になったことがわかりますね。

ごちゃごちゃしてるので、Google mapに書き込むとこんな感じで。青い点線部分は暗渠。上でたくさん写真載せたのは、この点線部分に沿って歩いてきたわけです。


それで…です。

ここまでで、今回のメインがどれなのか、お気付きになりましたか?

今回、三原城関係ないじゃん!って思われたそこのアナタ!

今回注目するのはコチラです!


はい、川の縁(へり)のこの石垣が気になるって話です!

実に回りくどいですねぇ〜(*´ー`*)

で、地図上でどこなのかを記したのが、以下の赤い丸で囲んだ部分です!


「蓮堀だった部分」と書いていますが、河原谷川は蓮堀に接続するように流路を変更されたということのようです。

ちなみに、いつもの江戸時代末期の慶応の城絵図にある河原谷川と蓮堀はコチラ。


そこから妄想した結果が以下の通り。



要するに、絵図を見た感じの位置関係とこの川のこのカーブ具合からして、ここの石垣って蓮堀の石垣なんじゃないか?!って思ったという話です。

あと、気になるのは石垣の石の積み方。

ここの石垣は、打ち込み接ぎ(石と石の接合部を加工して、隙間を少なく積み、空いた隙間に石を詰める積み方)の布積み(横目地が通る積み方)っぽいのですが、明治時代の石垣には、下の写真みたいな「谷積み」という積み方がよく用いられたそうです。

谷積みの例


谷積みとは…
石をナナメに落とし込んで積み上げる方法で、落とし積みとも言われる。コンクリート製の護岸ブロックの積み方なんかは谷積みのわかりやすい例かと。

明治時代に谷積み以外のやり方が全く用いられなかったというわけではないのでしょうが、それでも、当時のポピュラーな方法は谷積みだったはずなので。


さて、そんなわけでここまで話を進めてきましたが、

・河原谷川は明治時代に流路が変わり、蓮堀に接続された…ということは、蓮堀は現在の河原谷川。

・そこの堤防が三原城の石垣遺構ということならば、あの桜橋周辺のカーブしている石垣がそれっぽい。

・石の積み方も、近代になってよく用いられる「谷積み」じゃないし。

ということで、あのカーブしている河原谷川の石垣は、蓮堀の石垣の名残りだ!!

…っていうやつなんですけどね。

現場からは以上です!


次回は後編として、埋め立てられた元々の河原谷川の痕跡を辿ってみようと思います!


つづく
Posted at 2017/01/23 19:45:10 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2016年11月27日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十六 西大手門(妄想)編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十六 西大手門(妄想)編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズも第十六回目でございます。

今回は三原城の二つ目の大手門である西大手門をご紹介です。

東大手門編でも触れましたが大手門とは、城の正門のことですが、三原城には東西二つの大手門があったようです。

三原城の城下町は城の東西に二つ存在し、小早川隆景時代(1567年頃〜1597年頃)に先に成立していた城下町が東町。

一方、関ヶ原の合戦後の1601(慶長6)年〜1619(元和5)年まで、三原を含む安芸・備後の二か国を統治した福島正則の時代に成立したのが西町(現在の本町と西町)。

その、西町側から三原城へ入城する際の正門が西大手門です。

残念ながら、東大手門同様、現在は西大手門跡と記された石碑が建つのみです。

三原城本丸天主台跡から西大手門跡を臨む


西大手門跡から天主台石垣を臨む


場所は、Google mapで確認するとこの辺り。


江戸時代前期の正保の城絵図だとコチラ。


拡大するとこんな感じ。


次に、江戸時代末期の慶応絵図だとコチラ。


拡大するとこんな感じ。


慶応絵図を見た感じの特徴としては、どうやら東大手門と同じように、石垣の上に入母屋造(いりもやづくり)の多聞櫓(たもんやぐら)を渡した櫓門(やぐらもん)の形式だったようです。

櫓門の例:高知城追手門


あとは、東大手門とは違って、石垣と塀に囲まれた枡形(ますがた)の空間にはなっていないようです。


この西大手門で敵を迎え撃つ側からすれば、敵兵にはこんな感じで銃撃したり矢を放つのかな…とか、そのためのあの侍屋敷の配置なんだろうな…とか、ここの櫓から横矢を掛けられるかもな…などと想像しました。



あと、さらりとスルーしましたけど(笑)、気になったことが一つ。

江戸時代前期の正保の城絵図と江戸時代末期の慶応絵図を比べて見ると、門の形式が違うような気も…。


上が江戸時代前期の正保の城絵図、下が幕末の慶応絵図。

下のは櫓門だなと思うんですが、上のは少々シンプルな気も…。

ちなみに、正保の城絵図での東大手門後東門はこのように描かれています。


東大手門はちゃんと櫓門として描かれていますよね。でも、この絵図での西大手門は後東門と同じに見える。

正保の城絵図での西大手門


ここで、別の絵図でも確認してみました。

これは、1710(宝永6)年に描かれた西町の絵図『紙本著色 三原西町絵図』です。これは正保の城絵図(1644年作成)から66年後に描かれたものですが、この絵図の端っこに西大手門が描かれています。


できる限り拡大してみると…


『三原市の文化財』という資料集に載ってた絵図をスマホのカメラで撮って拡大したものなので、画像が粗くてわかりにくいですけど、肉眼で見るとそう見えるんですよ!

いやー、これはやはり櫓門なんじゃないかな〜!

城の大手門ともあろう門が、薬医門や高麗門だと簡単に突破されてしまう気がするんですよね〜。

薬医門の例:久留米城水の手御門 (現 寿本寺山門)


高麗門の例:松本城黒門枡形の高麗門


ここで豆知識。

江戸時代250年の間に建て替えたのではないかと思われるかもしれませんが、その可能性は低いと思われます。

当時は、幕府が定めた武家諸法度という法令が出されており、城に関連することとしては、以下のような内容が定められています。

一、新規ノ城郭構営ハ堅クコレヲ禁止ス。居城ノ隍塁・石壁以下敗壊ノ時ハ、奉行所二達シ、其ノ旨ヲ受クベキナリ。櫓・塀・門等ノ分ハ、先規ノゴトク修補スベキ事
訳:新たに築城することは厳禁する。居城の堀、土塁、石塁などが壊れたときは、奉行所に申し出て指示を受けること。櫓、塀、門などは元通りに修理すること。(Wikipediaより引用)


「櫓、塀、門などは、元通りに修理しなければならない」とあるので、門を元の形式から変更するなんてことはまず考えられないと思います。

西町を整備した福島正則も、武家諸法度のこの条項に違反して広島城を無断改修したとして咎められ、減封・改易処分となっています。

幕府から咎められた時に福島正則が崩させたと伝わる広島城の石垣



そういうわけなので、やっぱり、西大手門は最初から櫓門だったんじゃないかなーと思うわけです。

正保の城絵図を描いた人が省略したのか間違えたのか、的な。



というわけで、今回も、絵図と全国各地の城門の写真とにらめっこしながら、西大手門ってどんなんだったんじゃろうかと妄想してまいりました。

城攻めをし始めてから、櫓門とか枡形虎口のファンになってしまったので、三原城にも大手門が復元されたらいいのになぁ…と思う今日この頃。

(資料も建てる場所もないけど…)



つづく
Posted at 2016/11/27 07:41:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2016年11月14日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十五 通り丁堀編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十五 通り丁堀編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

15回目の今回ご紹介するのは、館町・本町にある通り丁堀です!

これは、前回ご紹介した後東門石垣に接している堀です。

去る10月1日、この堀の清掃作業に参加して、滅多に見れない堀の内部を見てきましたので、それをレポートしたいと思います!

さて、通り丁堀ですが、まずは恒例の場所確認から!

おなじみGoogle mapで確認するとこのあたりです!


一方、幕末の慶応絵図ではコチラ!


後東門石垣や三原城の天主台に接する、今も現存している堀です。

堀の両岸の石垣がほぼ現存していることからも、堀幅は当時のままなのでしょう。


今も昔もこの堀は水堀ですが、当時は堀の水は海水でした。三原城は海を埋め立てて築かれたため、堀が海と繋がっていましたからね。


さて、清掃に際して、堀の水は抜かれていたので下まで降りることができました!

まずは、後東門石垣の東側。右手前の低い石垣の石は比較的新しそうです。これは、芸予地震のときに積み直したためらしいです。


後東門石垣の西側角。普段水の底になっていて見えない一番下の根石が見れるのは貴重です。角部は算木積みになっています。


後藤門石垣の西側に続く堀の石垣。割った石と石の間に小さな石を詰めた打ち込みはぎという積み方。


石を割る際に開けられた矢穴がたくさん見受けられます。


矢穴だけではなく、石には刻印も。堀の清掃のときに教育委員会の職員さんの解説をお聞きしましたが、この石垣を築くときには複数の石工集団が携わったそうで、この刻印はそれら石工職人さんたちがよその石工職人さんの担当したものと区別をするために刻んだものなのだそうです。


続きまして、これは道(西国街道)がカクッと曲がって南に向けて続く部分の石垣。こちらにも矢穴や刻印が見受けられます。


一方、この写真は対岸の天主台西側の石垣。


この天主台の西側の石垣は、小早川隆景が築城した当時のものと伝えられますが、こちらの石には、矢穴(石を割った形跡)も刻印も見受けられません。つまりは、通り丁堀と天主台西側とでは石垣を築く方法が異なっているということ。

そのようなことから、通り丁堀の石垣は、小早川隆景の時代よりも後(福島氏の頃?)に築かれたものなのではなかろうか…という話も、教育委員会の職員さんが解説されていました。

三原城は、いつ、誰が、どこを、どのようにして築いたのか、はっきりと記された資料がないのでわからない部分が多いのですが、このように堀の石垣の様子を自分の目で確かめることができて大変参考になりました!

またこんな機会があれば参加してみたいものです(о´∀`о)




つづく
Posted at 2016/11/14 20:13:10 | コメント(1) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記

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「かつて三原城内にあったという現存する移築門4棟、ついにコンプリート!(*´-`)
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何シテル?   06/03 19:04
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