
三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。
今回も、
前回に引き続き、河原谷川の痕跡を追いかけてみたいと思います。
この河原谷川は、明治時代に三原城が廃城となってから、流路が変更されたようですが、それより以前は、三原城の西大手門の外側を流れており、西の外堀の役割を担っていたものと思われます。
まずは書物にはどのように書いてあるのか調べてみますと、1804年編纂の地誌
『三原志稿』には、以下のように紹介されていました。
河原谷川
水源一里計、八坂より流れ、駒ヶ原を経て西の浜東側にて海に入、水常ハかれかれ也、大潮にハ松林小路土橋の辺まて満込、小石川にて、川除あれとも埋つよし(三原志稿 巻之一・三原市史第四巻)
この川は堆積作用が強く、
水常ハかれかれ也=枯れているように見える川だったようですね。
だから、
小石川にて、川除あれども埋つよしとのこと。
川除(かわよけ)とは…
江戸時代、堤防を堅固にし、川底をさらい、河川の氾濫を防ぐ工事をすること。(歴史民俗用語辞典より引用)
写真は、現在の河原谷川…ではなく、その西を流れる恵下谷川。
今も昔も川浚いをしないと、洪水で生活が脅かされる危険があるということで、当時は重機なんてないから大変だったでしょうね。「
埋つよし」っていうくらいだから、川浚いをやってもやっても土砂が堆積するのでしょうからね。
おっと。話が逸れてました(^_^;)
「西の浜」とか
「松林小路」というキーワードを覚えておいてください!後で登場します(´∀`)
さてさて。今回のテーマは埋め立てられてしまった河原谷川の痕跡を探せ!ということですが、果たして見つけられるのかどうか。足を使って見てきた結果をご報告いたします!
ただし、全部、城絵図以外の資料に基づかない完全なる妄想ですけどね(´∀`)
まずは、幕末慶応期の城絵図で確認すると、河原谷川が西の外堀だったのがよくわかります。明らかに人為的に直角に流路が曲げられてますよね。しかも2回も。
それが、明治時代の廃城とともに埋め立てられ、流路が変更になったということを前回ご紹介いたしました。
Googlemapに昔の河原谷川の流路を書き込むとこんな感じで、あとはその場所で撮った写真と対比してみましょう。
スタート地点は前回同様、駒ヶ原から!
本町の暗渠(あんきょ)を出たところ。
ここで、まずは①の地点から。
【写真①】本町の丸金橋付近で流路が変えられている。その先のマンションの土地が道より一段低くなっているのが怪しい。これは、川の元々の流れを示す痕跡か…?
【写真①'】そのすぐ南西に段差が続く。果たして、これは川の痕跡なのか?
昔の城絵図ではこの辺りか…?
次に②の地点。
【写真②】①の地点から、さらに南西にある有料パーキング。その奥の空間が気にかかる。
【写真②'】有料パーキングの奥の段差。家屋の下のこの段差と空間。写真①'の場所からずっとこの段差は繋がっているようだ。これは川の痕跡?
昔の城絵図ではこの辺りか?絵図を見た感じでは、川縁には石垣が築かれている様子。
続いて③の地点へ。
【写真③】②の地点の有料パーキングからさらに南西へ。西大手門跡の石碑付近のラーメン屋「来々軒」がある小路を、南から北を向いて撮影。西浜変遷図を見ると、河原谷川はたぶん、この辺りで直角に流路が折れ曲がり、西に向けて続いていた模様。
【写真③'】西大手門石碑付近を東から西を向いて撮影。東西方向に伸びる高架下のこの道路は、先ほどの来々軒のある小路の辺りが微妙に高く、そこから西に向けてゆるやかに下っている。
昔の城絵図ではこの辺りか…?もしかして、この微妙な高低差は、橋が架かっていた名残…とか?
続いて、少し西へ移動し、④の地点へ。
【写真④】まっすぐ東西方向に伸びる高架下の道路と、南北方向に横切る
「松林小路」との交差点。河原谷川は、この交差点あたりで直角に流路が折れ曲がり、この写真でいえば、高架下をくぐって南西(左側)に向けて続いていた模様。ちなみに、先ほどの写真③'のゆるやかな下りはこの辺りで一番低くなっている。これは、この場所に川が流れていた痕跡ではないのか?!
ここで気になった人もおられるかもしれません。
写真の右手前にある「石組みの溝」は、一体、何なのでしょうか?
河原谷川の痕跡か?はたまた堀の跡か??
これについて取り上げると、どうやら1回分のネタになるっぽいので、次回取り上げることにします…(´∀`)
さてさて、ここは松林小路というキーワードのおかげで場所が断定しやすいので、昔の城絵図ではこの辺りでしょう。
そうそう。『三原志稿』の記述によれば、普段は枯れ枯れの川が、
大潮にハ松林小路土橋の辺まて満込…とのこと。
現在の風景を普段から見てますが、この辺りまで潮が満ちてくるなんて、なんだか想像がつきません。
お次は⑤の地点を少し遠くから見てみます。
【写真⑤】高架をくぐり、港町の「ワキ洋裁店」の脇の小路を撮影。
…って、なんだかダジャレみたいになってしまった(^_^;)
昔の城絵図ではこの辺りか…?
城絵図を見ると、この小路の西側(右側)に河原谷川が流れていて、東側(左側)は堀だったようです。現在はそんな面影なし。
そして、南下して河口付近の⑥の地点へ。
【写真⑥】今も残る
西濱(西浜)の地名が付いた大師堂。この辺りが河原谷川の河口付近だったはず。
【写真⑥'】恵下谷川と西野川の合流地点。河原谷川もこれに沿うように海に流れ出ていたはず。
昔の城絵図ではこの辺りかな、と。
というわけで、ここまで、埋め立てられた河原谷川の痕跡を辿ってみましたが、結論!
それらしき痕跡は、特に見当たりませんでした!!
こんなオチでスイマセン。。
でも、
松林小路の交差点脇の石組みの溝、あれは気になる!
ということで、次回はその溝について取り上げます!
つづく
Posted at 2017/02/08 19:34:02 | |
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