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2016年09月15日 イイね!

関ヶ原の戦い「本当の裏切り者」は誰なのか?

関ヶ原の戦い「本当の裏切り者」は誰なのか?関ヶ原の戦い「本当の裏切り者」は誰なのか?
教科書が教えない「小早川秀秋」以外の真犯人
山岸 良二 :歴史家・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師・昭和女子大学講師

http://toyokeizai.net/articles/-/135173


416年前の本日9月15日は、あの「関ヶ原の戦い」が行われた日だ(ただし旧暦)。戦いに勝利した徳川家康は、ついに幕府開設へと突き進むことになる。文字どおり、関ヶ原は「天下分け目の戦い」だった。
この戦いで、当初「勝利は間違いない」と見られていた石田三成率いる西軍は、わずか1日で敗北した。
一般的には「小早川秀秋による裏切りによって勝敗が決まった」とされているが、その裏切りを後押しした「真の裏切り者」の存在はあまり知られていない。「その戦国武将」は、いったい誰なのか。
「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計15万部のベストセラーになっている。本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、関ヶ原の戦いの「本当の裏切り者」を解説する。


■関ヶ原の東軍勝利を決めた「一族」とは? 

 「関ヶ原の戦いは、小早川秀秋の裏切りによって石田三成率いる西軍が敗れ、徳川家康の東軍が勝利した」

 一般の人が「関ヶ原の戦い」について知っているのは、こうした見方ではないでしょうか。

 たしかに、石田三成率いる西軍が当初優勢という見方も強かったこと、また徳川家康の東軍が小早川秀秋の「裏切り」によって勝利を収めたこと、それらは紛れもない史実です。

 しかし、その分水嶺となった「小早川秀秋の裏切り」を誘発した「本当の裏切り者」が存在したことは、あまり知られていません。

 小早川秀秋自身、「裏切り」の決断を最後まで迷い続けていました。その小早川秀秋に「裏切り」を最終的に決断させるきっかけをつくった「ある戦国武将」がいたのです。

 今回は、関ヶ原の戦いの「本当の裏切り者」について、勝敗のカギを握った「毛利一族」のエピソードを中心にお話しします。


まずは「関ヶ原の戦い」のおさらい

 今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

■関ヶ原の戦いは「日本史上最大の野戦」

 Q1. 関ヶ原の戦いはいつ行われたのですか? 

 1600(慶長5)年9月15日です。ただし、この日付は「旧暦」で、いまの「西暦」に直すと10月21日のことでした。

 1598年の豊臣秀吉の死後、台頭する徳川家康に対し、石田三成は密かに家康の排除を目論みます。

 ちょうどこのとき、会津の上杉景勝の謀反が報じられ、家康は討伐のため大坂城から出陣していました。石田三成はこの家康の不在を狙って蹶起(けっき)し、全国の大名に参加を呼びかけます。

 これが後の「天下分け目の戦い」へと発展します。ちなみに関ヶ原の戦いは、現在に至るまで「日本史上最大の野戦」といわれています。

 Q2. 関ヶ原はどんな場所ですか? 

 現在も東海道新幹線や名神高速道路などが走るこの地は、岐阜と滋賀の県境に近く、古くから北国街道、中山道、伊勢街道など主要街道が交わるため関所が置かれ、交通の要衝でした。

 ただ、周囲を大小の山に囲まれた盆地に小さな集落と田畑や荒野が広がる、のどかな場所でした。

 Q3. 戦いには誰が参加したのですか? 

 「徳川家康率いる東軍」は、主に東国の大名を中心に、豊臣秀吉の子飼い福島正則や黒田長政なども含む総勢7万4000。

 一方の「石田三成率いる西軍」は、西国の大名が中心で、宇喜多秀家、小西行長、小早川秀秋など総勢8万2000。ちなみに、西軍の「名目上」の総大将は、三成ではなく毛利輝元です。

 「剣豪の宮本武蔵が、西軍の宇喜多秀家勢の一兵士として戦った」という逸話も伝わっていますが、これは史実かどうか疑わしいエピソードです。

 Q4. どのような戦いが繰り広げられたのですか? 

 三成による巧妙な采配により、合戦当日は西軍が有利に布陣します。これにより、家康ら東軍は西軍に周囲を囲まれる苦しい戦いを余儀なくされます。

 しかし、西軍には家康に内応して戦闘に加わらない大名も多く、やがてよく知られる小早川秀秋の「裏切り」によって均衡が破られると、わずか1日で東軍の勝利に終わります。 


小早川秀秋は「なぜ」西軍を裏切った?

 Q5.「西軍を裏切った小早川秀秋」はどんな人物ですか? 

 豊臣秀吉の妻である「お禰(おね)」の兄、木下家定の五男です。

 幼時に子どもに恵まれなかった秀吉の養子となり、一時は周囲から後継者とも見られていました。

 しかし、秀吉に実子、秀頼が誕生したため、毛利家と同族関係にある名門、小早川家の養子となり、その家督を継ぎました。関ヶ原の戦い当時、彼はまだ19歳の青年でした。

■たしかに小早川秀秋は裏切ったが…

 Q6. 小早川秀秋は「なぜ」裏切ったのですか? 

 小早川秀秋は「家康にも恩があった」からです。

 小早川家の当主となった秀秋は、秀吉の晩年、筑前・筑後(福岡県)33万石から越前(福井県)12万石へと転封されて失意に暮れます。これを救ったのが家康でした。秀吉の死後、家康のとりなしによって彼は再び筑前・筑後の旧領を取り戻したのです。

 その「恩」があったために、小早川秀秋の心は当初から「東軍」にあったといわれます。しかし、彼はギリギリまで裏切りを「躊躇」します。

 Q7. なぜ「西軍への裏切り」を躊躇したのですか? 

 「石田三成が提示した好条件に心が揺れ動いた」からです。

 当時、豊臣秀頼はまだ幼く、石田三成は彼が成長するまでの期間、小早川秀秋に「関白」就任を約束しました。豊臣秀吉の縁者でありながら、秀頼の誕生後は不遇だった秀秋には、「非常に魅力的な条件」に感じられたことでしょう。

 Q8. では「最終的に裏切りを決断した理由」は? 

 「戦いの趨勢が東軍に有利と見た」からでしょう。

 家康は戦いの途中、自らの本陣をより前線に近い場所へと前進させます。これを見た小早川秀秋が、戦局は「東軍優勢」と判断し、「西軍への裏切り」を決断したものと考えられます。

 躊躇する小早川秀秋の裏切りを促すために、家康が鉄砲を打ち込んだという「家康の聞き鉄砲」はあくまで俗説です。

 ところで、この「東軍優勢」の状況をつくるのに重要な働きをした人物がいました。ある意味では、「真の裏切り者」ともいえる人物です。


西軍を敗北に追い込んだ「真犯人」は?

 Q9.「真の裏切り者」ともいえる人物は誰ですか? 

 毛利輝元(もうり てるもと)の家臣「吉川広家(きっかわ ひろいえ)」です。

 彼の父、吉川元春は毛利元就(もとなり)の次男で、吉川家の養子となり家督を継いだため、両家は同族関係にありました。吉川広家は一族の中で年長かつ実力者でもあったため、当時「実質的」に毛利家を取りまとめる「中心人物」でした。

■知られざる「吉川広家の3つの動き」

 Q10.吉川広家は、関ヶ原の戦場で、具体的にどんな働きをしたのですか? 

 「不利な布陣に苦戦する東軍」を傍観しながらも、これを攻撃しようとする西軍の行動を阻止しました。

 家康の背後にあたる高地(南宮山)には、西軍約2万9000が布陣しており、家康はつねに後方を脅かされる形で戦わなくてはなりませんでした。その絶好の位置で戦いの様子をじっと見守り続けていたひとりが、吉川広家でした。

 広家は東軍の苦戦を目の当たりにしながらも、このチャンスに軍を動かすことなく、高地にいた同じ西軍の動きを完全に封じてしまったのです。

 三成は合戦の途中で何度も広家に「督戦」を促す使者を派遣しますが、「いま弁当の準備をしている」と言ったという「吉川の空弁当」のエピソードも残っています。

 この結果が家康本陣のさらなる「前進」につながり、ついには「東軍有利!」と思った小早川秀秋に「裏切り」を決断させたわけです。

 ほかにも広家は、西軍の総大将にかつがれていた毛利輝元を関ヶ原に出陣させずに大坂城に留め置くなど、「明らかな西軍への妨害工作」も行いました。

 Q11.つまり、吉川広家が、裏切りを誘発した「真犯人」ともいえると? 

 そういうことです。吉川広家の働きをまとめると、以下の3つになります。

①西軍の総大将・毛利輝元とその軍勢を大坂城に留め置き、関ヶ原に出陣させなかった
②関ヶ原で家康の背後の西軍2万9000の軍勢を「ブロック」して、東軍を優勢に導いた
③東軍優勢の状況をつくり出したことで、結果として小早川秀秋の裏切りを誘発させた

 吉川広家の工作によって、最も西軍に頼りとされた3万とも言われる毛利輝元本隊の軍勢は決戦に来援することなく、輝元の子・毛利秀元(1万6000)も家康の背後という絶好の位置に布陣しながらも広家に進軍を阻まれ、傍観を余儀なくされました。

 こうした一連の動向は、同族である小早川秀秋(1万6000)の裏切りを決断させた要因となったことはまず間違いありません。

 Q12.では、吉川広家は「なぜ」裏切ったのですか? 

 それには「こんな事情」があります。


「もし」西軍が勝っていたら、いまの日本は?

 そもそも吉川広家の西軍参加は、自らの意思でなく「行きがかり上、仕方なく」でした。

 当初、彼は家康の「上杉討伐」に合流しようと出陣するところでした。ところが、石田三成が突如挙兵し、本家の毛利輝元が総大将に担がれたため、同族の吉川広家も仕方なく西軍の一員となったのです。

 しかし、「西軍に勝ち目はない」とみていた広家は、親しかった東軍の武将、黒田長政を通じて家康に内応、それと引き換えに「毛利家の存続」を家康に約束させていました。この黒田長政は、小早川秀秋にもたびたび内応の約束を促していました。

■関ヶ原の裏切りが「明治維新」につながった

 明治時代初期、陸軍大学校の教官に招かれて来日したドイツの軍人メッケル少佐は、関ヶ原での両軍の布陣を見るや、「西軍の勝ち」と即座に答えたそうです。

 関ヶ原開戦までの石田三成による采配は見事で、戦いが彼の予定どおりに、つまり小早川秀秋の裏切りがなければ、関ヶ原ではほぼ間違いなく西軍の勝利となっていたでしょう。

 もし歴史が「西軍の勝利」になっていれば、大坂で豊臣秀頼を中心とした政治が行われたか、はたまた再び戦乱の世に逆戻りしたことも考えられます。

 いずれにしても、家康による1603年の「江戸幕府」開府はなかったことでしょう。「現在の東京を中心とした日本の繁栄は、関ヶ原に始まった」ともいえるかもしれません。

 現実の歴史では、関ヶ原の敗戦後、毛利家は120万余石から36万9000石という大幅な減封処分を受けて屈辱を強いられるものの、長州藩として家名は保ちました。毛利家ではこの屈辱を代々伝えて決して忘れず、その執念が250年の時を経て、倒幕の中心となって日本の歴史を大きく動かす原動力になります。

 いわば、関ヶ原の戦いでの吉川広家の「裏切り」が、「明治維新」という実を結んだともいえるのです。

 関ヶ原の勝敗が東京の繁栄に結びつき、吉川広家の裏切りが明治維新のエネルギーになる──歴史はこうして現代につながっています。そう、歴史を学ぶことは、現代を学ぶことにほかならないのです。

 それと同時に、関ヶ原の戦いで「誰がなぜ、どう裏切ったのか」を見ることは、たんに歴史を学ぶ以上に、「人間心理」を勉強する格好の材料になると私は思います。

 日本史には、ビジネスパーソンが避けて通れない「出世」や「社内抗争」の参考になる教訓の数々が詰まっています。ぜひ日本史を学び直すことで、「知識や教養」に加えて「社会人としての処世術」もあわせて習得してください。

 人間の本質は、時代を経ても、そう大きく変わるものではないからです。

山岸 良二
Posted at 2016/12/09 01:19:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | ふつうの日記 | 日記
2016年08月28日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十四 後東門石垣編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十四 後東門石垣編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

このところ、館町エリア編が続いておりますが、今回も引き続き館町にある痕跡をご紹介します!

今回は、今までご紹介してきたものとはちと違う「復元された」遺構です!

三原市にお住まいの方なら気になっていたという方もいらっしゃるかもしれませんが、現在、三原城天主台をめぐる堀周辺は史跡公園化の整備中です。

今回ご紹介する後東門の石垣は、瀬戸内三原築城450年事業の公園整備の一環で復元されました。

わたくし、その過程をずっと見ていて、その都度写真を撮っておりましたので、今回はその後東門石垣の復元過程を写真で追いかけていきましょう!

その前に、まずは場所の確認から。


この三原城天主台の北側にある出っ張りが後東門石垣です。

江戸時代の絵図だとこんな感じ。

正保の城絵図


幕末(慶応)の城絵図


では、復元過程を写真で追いかけていきましょう。

2015(平成27)年8月。


写真中央下部の出っ張った石垣がそれです。まだ、この時点では復元工事前です。

2016(平成28)年1月27日。着工直後。


2015年2月17日。


古い石積みと新しく積み足された部分の色が違います。

2016(平成28)年2月19日。


石垣の内部。


石垣を積み上げる際には、内部にはこんなふうに栗石という石を敷き詰めます(10〜30cm程度の割石)。こうすることで、排水がしやすくなり、石垣の崩壊を防ぐ効果があるのだそうです。

2016(平成28)年2月25日。


階段状に石が積まれている。


2016(平成28)年2月27日。


完成まであとわずか?!

2016(平成28)年3月12日。


これで石の積み足しはほぼ完了かな?

2016(平成28)年8月4日。


久しぶりに動きあり。石垣北側のコンクリート部分に石っぽいパネルが貼り付けられていて…。


2016(平成28)年8月28日。


どうやらパネル貼り付けは完了したようですが…。

う〜ん、石垣を復元するなら、こっち側もちゃんと石垣にして欲しかったなぁ( ´Д`)



○折れと横矢

さてさて。

後東門の石垣は、絵図をご覧のとおり、道を遮るようにして築かれているため、本丸目指して進みたければ折れ曲がった道を進むことになります。


前回の東大手門の枡形虎口を紹介した際にも申し上げたとおり、「まっすぐ進ませない」は城のセオリーです。

この後東門においては、道を意図的に折り曲げることによって、敵兵の勢いを削ぎつつ、そこに配置されている武家屋敷から正面・側面の二方向の攻撃を加えられるような工夫が施されているように思います。

こういった工夫を横矢掛かり(よこやがかり)と言うそうです。


枡形虎口は、この横矢掛かりを進化させた形だと言えるでしょう。


○石の積み方について

この後東門石垣は、石と石の接合部を多く取るために角を叩いたりしてある程度形を整えた石を積み上げ、さらに石と石の間に小石を打ち込んで積み上げられています。このような積み方を打ち込みハギといいます。


また、石の形が様々で横目地が通っていません。このような積み方を乱積みといいます。

石の積み方のタイプについては、船入櫓や天主台の石垣を紹介する際に詳しく書いてみようと思います!


○後東門について

本来この石垣には後東門という門が隣接して建っていました。

門の形式は、絵図を見る限り東大手門のような櫓門(やぐらもん)ではなさそうです。

左:東大手門 右:後東門


ではどんな門だったのか。

門にも色んな形式があるので、絵図だけでは後東門がどんな門だったのかまではよくわかりません…。

ちなみに。

城門として用いられる門には以下のような形式があります。

・冠木門(かぶきもん)

笠木(冠木)を柱の上方に渡した屋根のない門。

福山城 冠木門(模擬)


・棟門(むなもん)

二本の柱の上部に冠木(かぶき)を渡し、その上に切妻屋根を乗せた門。

岡山県 備中松山城 本丸東御門



・薬医門(やくいもん)


本柱とともに後方の控え柱でも屋根を支えている門。

福岡県 久留米城 水の手御門 (現 寿本寺山門)


・高麗門(こうらいもん)

門内側の控え柱に屋根を架けて開門したときに扉が雨で濡れないようにしてある門。

兵庫県 姫路城 ろノ門


香川県 丸亀城 大手二の門


・櫓門(やぐらもん)

前回もご紹介した通り、門の上に櫓(やぐら)を設けている門。城の大手門といえばコレ的な存在。

高知県 高知城 追手門




絵図で見る限り、後東門は冠木門や櫓門ではなさそうです。

とはいえ、横矢掛かりのような防御の工夫がなされている場所の門が棟門ではあまりに頼りない感じがします(^_^;)

高麗門は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年〜1598年)の頃から用いられ始めたと何かで読んだ気がします。

小早川隆景が亡くなる前に三原城の修築をしたのは1595年頃なので、それだと高麗門を採用するには、時期的にちと早いような気がして…。

よって、後東門の形式は薬医門だったのでしょう!

…というのは、シロウトの乱暴な推理ですので聞き流しておいてください(^_^;)

この門を築いたのは、小早川隆景の後に三原を統治した福島氏なのかもしれませんし。


さて、石垣に触れるだけのつもりが門のことにまで話が飛んでしまい、めちゃくちゃ長くなってしまいました。

館町シリーズはまだまだ続く…?




つづく





【平成29年2月17日 追記】
平成29年2月4日 三原城の天主台堀周辺が歴史公園として完成したようです。


公園内の後東門石垣にも説明板が設置されていました。




案内板によれば、復元された後東門石垣は、実際にはもう少し高さがあり、さらに北側は現在の歩道あたりまで延びていたのだそうです。


完全に復元しようにも歩道があるためにできなかった結果が、コンクリートの壁にパネル貼り付け仕上げということだったのですね。納得(^_^;)


さらに説明板の中に、上述した後東門の復元図が描かれておりました!


これを見る限り、やはり上で妄想している通り、門の形式は、冠木門や櫓門ではなく、薬医門高麗門であったようですね!

この復元図を見たときにすぐ思い出したのが、姫路城の「いの門」


石垣に挟まれてる感じとか、復元図に似てると思います。ちなみにこの門は高麗門。

果たして、後東門の本当の姿はどんなものだったのか。これからも調べを進めていきたいと思います!
Posted at 2016/08/28 16:45:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2016年08月20日 イイね!

シリーズ【nanoblock築城記 その四・完結編】

シリーズ【nanoblock築城記 その四・完結編】夏休みの工作をしようと思い立ってはじめてみたナノブロック築城記。

実際には夏休みなんて無いんですが(泣)

毎日、仕事終わりに小さなブロックを地道にチマチマと積み上げ続けてきましたが、今回でついに完結編でございます!

今回はラストスパートの模様をお届けいたします!

前回から、石垣の上に櫓を築いているわけなんですが、前回までで櫓門自体はほとんどできあがっていたので、その後すぐに出来上がりました(^^)


残すは、両サイドの二重櫓を二基!

二階建てなので、細かい作業が必要な屋根の部分が連続で押し寄せてきました…。


さすがに結構しんどかったです(^_^;)


しかし。



負けることなく…



地道〜な作業を繰り返し…



ついに…!!


ジャジャ〜ン♪

ナノブロック上田城櫓門、完成〜!!!

櫓門に先行してつくった真田左衛門佐信繁様とご一緒に〜♪

ドローンを飛ばさずともナナメ上からのアングルが撮れる!


櫓門を裏側から!いや〜改めて細かいつくりだと思う!!


二重櫓!とにかくパーツが多かった!!


ちなみに、実際の上田城にはまだ行ったことないので写真が無いのですが、似たような門として広島城二の丸の表御門の写真と比べてみます!

広島城 二の丸表御門




あんな小さなブロックの集合体ですけど、なかなかいい感じに雰囲気出てます(^^)

ちなみに組み立ての説明書はこんな感じでした。


1ページに上下二つの作業が掲載されていますが、一つの作業をするのに小一時間掛かってましたよ、特にこのページのあたりは(^_^;)

あ、そうそう。全部で22ページあります!



というわけで、夏休みの工作無事終了〜!

ホントに根気強さが必要な作業でしたが、つくるのが他でもないお城なので、毎日楽しかったです!

満足満足(о´∀`о)

また築城したくなったら、別のお城にチャレンジしてみようと思います!

大河ドラマ『真田丸』でも関ヶ原の合戦が近づいてきてますが、真田の関ヶ原である第二次上田合戦の舞台として上田城が登場するはずですから、そちらの方もお楽しみに〜。

さて、ここまで読んで頂いた皆さま、ヒマ人のヒマ潰しにお付き合いくださり、ありがとうございました!!


あとは実際の上田城を城攻めするのみ!!




おわり
Posted at 2016/08/20 20:56:01 | コメント(2) | トラックバック(0) | nanoblock築城記 | 日記
2016年08月18日 イイね!

シリーズ【nanoblock築城記 その三・櫓編】

シリーズ【nanoblock築城記 その三・櫓編】夏休みの工作ということで、ナノブロックで築城を目指すこのシリーズ。

第三回目は、いよいよ石垣の上に櫓(やぐら)を築いていきます!

これがもう細か〜い作業の連続!

しかし、好きでやってることだとすごいもんで、集中力が途切れないんですよね〜

そんなこんなで今回も築城の経過をお伝えしていきます!

さて。

今回からの作業は、前回できあがった石垣と門の上に茶色いナノブロックを積み上げていきます!


ご覧ください!この細かいチマチマした作業を!


門の上の多聞櫓の部分も同じく細かい作業。白いパーツで、漆喰塗籠の格子窓を表現しています。これ考えた人すげーなー。


屋根もご覧ください!この細かさ!気が遠くなりそうでした(>_<)


小さいパーツを地道〜に積み上げることで、木造建築物の感じを表現しています。


両サイドの二重櫓は一階部分の屋根まで、門の上の多聞櫓は完成まであと少し!!


ホント、細かいばっかりの作業をチマチマ続けてようやくここまで辿り着きました!

完成まであとわずか…のように見えて、櫓の一階部分だけで2日とかかかってるんで、まだまだ楽しめそうですよ(^^)

早く完成形を見たい!!


つづく
Posted at 2016/08/18 23:29:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | nanoblock築城記 | 日記
2016年08月16日 イイね!

シリーズ【nanoblock築城記 その二・石垣編】

シリーズ【nanoblock築城記 その二・石垣編】ナノブロックで夏休みの工作をしよう!

ってことでナノブロックで築城していくこのシリーズ。

第二回目の今回は、いよいよ上田城櫓門を築いていきます!

ワクワクします!

箱の完成写真を見ていると、上田城櫓門の雰囲気をナノブロックでよくここまで再現しているなぁと感心してしまいます!

早速、箱からパーツを取り出してみますと…


ドッサリ(笑)

左衛門佐様の比じゃない(>_<)

なんだこのナノブロックの量はッ…!!

相当、作りごたえがありそうです!!

さて、まずは土台となる石垣の部分を構築していきます♪


門の部分はつくりが細かい!


少しずつ、しかし確実に積み上げていく。


門の作業は細かい!あ、気付けば階段ができてる!


だんだんと高くなっていく石垣。石垣用のブロックも、長かったり短かったり、色が違ったりするパーツを交互に組み合わせて、石垣の感じを出してます!


全体的な形もかなり複雑〜(^_^;)


石垣&門の部分完成〜♪


さぁ、あとはこの石垣と門の上に櫓を築くのみです!

…って言っても相当細かい作業の連続になるでしょう。

でも、完成した姿を早く見たいので、引き続き楽しみながらがんばります!


つづく
Posted at 2016/08/16 23:18:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | nanoblock築城記 | 日記

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