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2016年08月15日 イイね!

シリーズ【nanoblock築城記 その一・真田左衛門佐編】

シリーズ【nanoblock築城記 その一・真田左衛門佐編】城好きが高じて、夏休みの工作でお城でも築城してみることにしました!

ってことで、夏休み短期集中連載やります!

良かったら、お付き合いくださいませ〜

さて、そんなこんなで築城したいな〜と思ってネットで探していたら、ナノブロックの上田城櫓門を発見!

わたくし、大河ドラマ『真田丸』は毎週欠かさず見てますし、今年つくるならコレでしょう!ってことで、上田城櫓門をつくることにしてみましたー!


とはいえ、ものすごい本格的で複雑なんで、いきなり櫓門に取り掛かるまえにまずは準備運動を。

ってなわけで、上田城櫓門と合わせてこのお方も購入!


真田幸村こと、『真田丸』の主人公・真田源次郎信繁様〜♪

おっと!今は左衛門佐(さえもんのすけ)様とお呼びせねばなりませんでしたね(^^)

というわけで、まずは左衛門佐様を作ってみました!

ナノブロックなので、一つひとつのパーツが小さく、なくさないように注意!


小さなパーツを地道〜に組み立てていくと…


脚と胴体、頭の三つが出来上がり…


左衛門佐様、完成〜♪


僕はナノブロック初体験だったこともあり、左衛門佐様をつくるのに30〜40分くらいかかりました!

「真田の赤備え」といわれた朱塗りの武具を纏う姿はなんとも可愛らしい(о´∀`о)

大河ドラマ『真田丸』では、現在、関ヶ原の合戦に向けて五大老筆頭の徳川家康と五奉行の石田三成が火花バチバチ飛ばしてましたね〜

西軍・石田三成方についた左衛門佐様は、関ヶ原の本戦ではなく上田城で東軍の徳川の大軍を迎え撃つことになるわけですが、この戦いが彼の人生の大きな分岐点となっていきます。

詳しくは、大河ドラマをお楽しみに〜

というわけで、準備運動はおしまい!

次回は、上田城櫓門の築城に着手します!
Posted at 2016/08/15 21:34:59 | コメント(1) | トラックバック(0) | nanoblock築城記 | 日記
2016年07月24日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十三 東大手門(妄想)編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十三 東大手門(妄想)編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

このところ、館町エリアの痕跡を探索しておりますが、今回は東大手門跡をご紹介します!

ただし、今回は久々の妄想編です。

絵図を見てガッツリ妄想してるだけの内容ですので、事実とは異なる点も多いと思います(^_^;)

さてさて。

そもそも大手門とは、城の正門のことですが、三原城には東西二つの大手門がありました。

三原城の場合は、湾に浮かぶ小島をベースに、元々海だった場所を埋め立てて築いた城であるという性質上、城下町を作るにあたっては十分な広さの平地の確保が難しく、結果、東町と西町の二つの城下町が形成されました。

その、東町側から三原城へ入城する際の正門が東大手門だったというわけです。

残念ながら、現在は東大手門跡と記された石碑が建つのみです。

和久原川に架かる大橋から東大手門跡を臨む


小橋が架かっていたであろう場所から東大手門跡を臨む


場所は、Google mapで確認するとこの辺り。


江戸時代前期の正保の城絵図だとコチラ。


拡大するとこんな感じ。



次に、江戸時代末期(慶応)の絵図だとコチラ。



拡大するとこんな感じ。


絵図を見た感じの特徴としては…

①枡形虎口(ますがたこぐち)

②櫓門(やぐらもん)

だったのかなというのが見て取れるかなと思いました。



◯枡形虎口とは

一言でいうなれば「死の間」

実に物騒ですねぇ…(^_^;)

土塁や石垣で枡(ます)のように四角く囲まれた空間であることから枡形(ますがた)といいます。

宮崎県の飫肥城旧本丸の枡形虎口


虎口(こぐち)とは、城の曲輪(くるわ・郭)の出入口のことです。

この空間の入口と出口の位置はわざとずらしてあり、敵兵が直進できないように(勢いを緩めるように)しながら、正面からだけではなく、横方向からも攻撃できるように工夫されています。

入口と出口は直角に配置されていることが多いように思います。「まっすぐ進ませない」は、城のセオリーですね。

ここに敵兵を誘い込んで門を閉ざしてしまえば行き止まりとなり、立ち止まった敵兵は、石垣上に築かれた櫓の格子窓や塀に開いた穴=狭間(さま)から鉄砲や弓矢によって三方向から一斉に狙撃されるという世にも恐ろしいキルゾーンです((((;゚Д゚)))))))

その防御力の高さから、色々な近世城郭で採用されていますので、お城に立ち寄られた時にはご注意を(笑)

枡形虎口には手前に高麗門、奥に櫓門の二つの門を設けることで、四角い枡形の空間を作り出しています。

香川県の丸亀城大手枡形虎口




そのねらいは、狭い高麗門を通過させることで、枡形の空間に一度に入れる敵兵の人数を絞り、そのうえで一斉射撃を加えるというものです。

ところが、三原城東大手門の枡形の場合は、門は櫓門一つのみとなっています。

ただ、幅の狭い小橋を枡形の手前に設けることで、高麗門を設置するのと同じ効果を狙っているんじゃないかなと思いました。


まぁ、僕の妄想ですけど(^_^;)



◯櫓門とは

櫓門(やぐらもん)とは、門の上に櫓(やぐら)という建物を重ねている門のこと。

以下に色々な城の櫓門の写真を掲載しますが、どれも規模が大きな城門です!大手門(正門)として色々な城で採用されていて、城の大手門といえばコレ!的な存在です。

枡形と組み合わせてあることも多く、城の防御の要といえるでしょう!

さて、櫓門にもタイプがあって、木造二階建ての二重門タイプ石垣を築いてその上に多聞櫓(たもんやぐら・長屋みたいな建物)を乗せているタイプがあります。絵図を見ると三原城東大手門の場合は後者のタイプのようです。

例えば、青森県の弘前城の門は石垣を使わない木造二階建ての二重門タイプ。


福島県の白河小峰城の前御門は石垣の上に多聞櫓を乗せたタイプ。三原城のはこっちのタイプかなと。


さらに、色んな城の櫓門を見ていると、石垣の上に多聞櫓を乗せている櫓門にもタイプがあって、石垣上の全面を使って多聞櫓を建てているタイプと、多聞櫓と塀を組み合わせているタイプがあるように思います。

例えば、我が広島県の福山城の筋鉄御門は石垣の全面を使って多聞櫓を建てているタイプ。石垣の端と多聞櫓の端がピッタリ合ってます。ちなみに、名前の通り門扉には鉄板が貼り付けてあります。



一方、広島城の表御門は、多聞櫓と塀を組み合わせているタイプ。櫓は石垣の全面を使わずに建てられていて、残りの部分には塀が設けられています。ちなみに門扉は木製。



裏側に回り込むとよくわかります。多聞櫓の端から石垣上にはかなり空間が残されていて、そこに塀が設けられています。


もちろん塀には穴=狭間(さま)が設けられているのが写真でお分かりになるかと思います。兵士があの塀に潜んで敵兵を狙撃するわけです。絵図を見る限り、三原城の東大手門もこんな感じだったのかな…と思いました。

絵図しか手掛かりがないのですが、櫓門に関するその他の外観上の特徴として、まず、屋根について考えてみました。

正保絵図を見る感じだと、三原城東大手門のこの多聞櫓は入母屋造(いりもやづくり)っぽいので、屋根は広島城の表御門に近い感じかなぁと思いました。屋根の先端が跳ね上がってる感じとか。

※入母屋屋根の図 コトバンクより引用

あと、屋根以外の櫓の外装に関しては絵図を見る感じでは、下見板張りの黒い壁漆喰塗籠の白い格子窓があるように見えるので、色合いは白河小峰城の前御門みたいな感じかなぁ…と思いました。




というわけで、絵図くらいしか資料がないので、三原城の東大手門はどんな感じだったんだろうかと、全国各地の城に行って撮ってきた写真とにらめっこしながらひたすら妄想してきました。

城の顔ってやっぱり天守なのでしょうけど、個人的には櫓門の威圧感とか重厚な感じが好きですね。立ち塞がってる感といいますか。

あーあ、三原城にも大手門が復元されたりしないかなぁ…(^_^;)



つづく
Posted at 2016/07/24 17:30:28 | コメント(1) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2016年07月19日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る ・その十二 泰雲寺丁編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る ・その十二 泰雲寺丁編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

前々回は町奉行屋敷西隣の生駒氏邸門(糸碕神社神門)、

前回は町奉行屋敷の門(極楽寺山門)といった具合に、

現在の三原市館町エリアに関係する遺構をご紹介してきましたので、その流れでしばらく館町エリアについて取り上げていってみようかと思います!

まずはこの画像をご覧ください。



いつもの幕末の絵図を拡大したものですが、泰雲寺丁(たいうんじちょう)と書いてあります。

この痕跡、実は今でも残っています!

こちらの写真をご覧ください。



消化器NO.7の下方に泰雲寺町内会って記されていますよね。

○○町△丁目みたいな地名が増えた昨今、泰雲寺丁も例外ではなく館町2丁目という地名になっていますが、ここの町内会の名称としては江戸時代からの呼称が現存しているということですね〜

これもお城だった頃の立派な痕跡です(^^)

さて、場所を確認するとこんな感じです。

いつもの江戸時代末期(慶応)の絵図


Google mapの現代の地図


では、ここはどんな場所だったのか。二つの絵図を見てみましょう。

まずは、江戸時代前期の正保年間(1645年〜1648年)に描かれた城絵図。


泰雲寺丁を拡大すると…


侍町と記されています。武士の居住区ですね。

北側と東側に堀を設け、さらに、東側には櫓(やぐら)が一基設置されています。この櫓は、すぐ目の前を通る道を監視するための物見の役割なのかな?

次に、1873(明治5)年の絵図です。


泰雲寺丁を拡大すると…


武家地と記されています。

どうやら、江戸時代を通じて武士の居住区だったようですね。

ちなみに。


三原市史第二巻によれば、1688(元禄元)年に描かれたこの絵図上で泰雲寺丁には侍屋敷が11軒描かれているみたいです。

数えてみると確かに11軒。

この泰雲寺丁と城の天主台の北側のエリア(前回ご紹介した町奉行屋敷のあった辺り)、そして三の丸辺りは全部武士の居住区=武士の館があった場所だったことから、現在の館町という地名が付けられたんでしょうね。

あと、この地区、お寺はないのに泰雲寺丁と呼ばれているのはなぜ・・・?

小早川隆景が三原城を築城した頃(安土桃山時代)、この地には正法寺というお寺があったそうですが、そのあとの福島正則が広島藩主の頃(江戸時代初期)に戦略的な観点から侍屋敷を増やすために寺を移転させたそうです。(ちなみに現在の正法寺は本町にあります)

ではなぜ泰雲寺なのか。調べてみましたが、小早川隆景の法名から泰雲寺という名前になったお寺が山口県にあるそうで、小早川隆景と何らかの関係があるんじゃないかなぁ…と思いますがはっきりとはわかりませんでした。

山口県(周防・長門の二国)は、関ヶ原の合戦で負けた毛利氏の移封先で、小早川隆景の奥様(問田大方)も大部分の小早川家臣もそちらに移っています。


さて、泰雲寺丁の名前が今なお残っているというのも立派な痕跡ではあるんですが、やっぱりそれだけじゃあ物足りない!

何らかの特徴が現地にないものかと探してみたところ、気になるポイントを一つ見つけました!

それが、このL型の路地です!


慶応の絵図にも描かれていました!


明治の絵図にも。こちらにはL型の先の道も描かれています。


このL型の路地が本当に当時の痕跡ならば…ということで、L型の路地を基準にして妄想てみた結果はこうなりました!


泰雲寺丁のメインの道路だった道は、現在だと黄緑色で記した道かな?

たぶん道幅は変わっているだろうけど。

ということは、泰雲寺丁の北と東にあった堀はこんな感じか??

みたいな。


さて、まずは、黄緑色で記した道を、北から南に向かって歩いてみました。

スタート地点。堀と道の境はこの辺りか?と思われる場所を背にして南側を向いて撮影。


途中で道幅が狭くなる。


古い長屋も残っていたり。


ここで広大附属小学校の石垣とぶつかり道の向きが変わる。本来ならこの道はもうしばらくまっすぐ続いていたようですが。何にせよ、この道には特に痕跡らしいものはありませんでした。



次に、L型の路地に行ってみましょう。スタート地点に一旦戻る。写真右手の建設中の家の脇に路地があります。


で、行ってみてびっくり!えっ?こんなに細い路地なの?Σ(゚д゚lll)


L字に曲がっているところ。明治の絵図のとおり、道はこの先も奥で突き当たって左側に続いてましたが、そこのお家の人しか通らないであろうというような道だったので、これ以上の探索はやめときました(^_^;)


うーん、当時を偲ばせるようなものは見当たらないですねぇ…。


最後に再びスタート地点に戻り、今度は堀があったであろう場所を探索。

北側はこの辺りかなぁ。何の痕跡もみあたりません。


東側はこんな感じ。撮影した位置はきっと当時は堀の中。左側の高い壁の向こう側には和久原川。


これは、以前にご紹介した和久原川が氾濫したときに水を東町の町屋側に流すために高く築かれた堤防の名残りでしょう。

堀幅は、写真左側のコンクリートの壁の辺りからこの路地くらいまでかな。この路地も以前紹介した小川が流れていた場所ですが、元を辿れば堀の一部だったのではないでしょうか?


というわけで、泰雲寺丁の痕跡を足を使って見て参りました!

結局、当時を思い起こさせるような遺構を見つけることはできませんでしたが…。

それにしても、長い文章になってしまいました。

本当は、「町の名前が現存してますよ」っていうだけの小ネタで終らすはずだったのですが…(^_^;)

次回も館町エリアの痕跡を辿ります!



つづく

Posted at 2016/07/19 08:30:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2016年07月06日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十一 現存建造物②極楽寺山門】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十一 現存建造物②極楽寺山門】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

前回は、今なお現存する貴重な遺構である生駒氏邸門(糸碕神社神門)をご紹介しました。

その過程で、生駒氏邸は町奉行屋敷の西隣にあったということに触れたわけですが、そういえば、その町奉行屋敷の門が現存しているということを思い出しました!

なので、今回も前回に引き続き貴重な現存建造物シリーズ第二弾として極楽寺山門をご紹介します。

実は、この門は変わった経歴の持ち主なんですよ。

最初、この門は、小早川隆景が三原城に移る前に築城していた新高山城の城門だったのだそうです。(1552(天文21)年築城)

新高山城跡遠景(三原市本郷町)


それから門は三原城に移築され、町奉行屋敷の門として第2の人生を送ることとなりました。

移築の時期としては、1595(文禄4)年、三原城の修築にあたり、新高山城の石垣を運んで使ったとかいう話があるので、もしかしたらその頃かなぁ…と想像してみたり。



ちなみに、町奉行とは、城下町の行政・司法(訴訟の受理・決裁)・警察はたまた防災なども含めて手広く担当した役所で、寺社奉行(寺社関係の訴訟の受理・決裁)と兼務されるところも多かったそうで、『三原市史』第一巻によれば、三原の場合にも寺社町奉行として兼務されていたのだそう。

担当地域は、東町と西町(現在の本町と西町)、茅町で、知行100石以上の家臣が任用され、その下に帖元一人と下代二人が配属されて実務を分担したとのこと。

何にせよ、市役所に裁判所と警察・消防が一緒になったようなところに奉行と部下三人で職務に当たるだなんて無茶苦茶忙しかっただろうなぁ(^_^;)


閑話休題。

さて、それから250年以上の時が流れ、明治維新を迎えると、町奉行屋敷は小学校の校舎として使われることとなりました。1873(明治6)年のことです。

「亦楽舎(えきらくしゃ)」と名付けられたそうですが、今の三原小学校の前身ということらしいです。

こうして、この門は亦楽舎の門として第3の人生をスタートさせました。

町奉行屋敷(亦楽舎)があった場所はこのあたりか?(三原市館町)




それから5年後の1878(明治11)年に現在の場所(三原市東町)に移築され、極楽寺の山門という形で第4の人生を送っています!

そのあたりのことが現地の説明板にも触れられていますし、元々は安土桃山時代に作られていたものなので、特徴として当時の建築様式がみられるようです!

現地の説明板


でもやっぱり前回同様、僕には建築の知識がなく語ることができないので、せめて細部の意匠はこんな感じだというのを写真でお届けしたいと思います。

下からのアングル。漆喰で塗り固めた白い冠木が特徴的。


横からのアングル。左右の本柱の前後にそれぞれ支柱を付け加え四脚門になっている。


門扉


懸魚


山門の鯱


垂木。反りが特徴らしいですが、よく分からない(^_^;)


蛙股の鳳凰の彫刻


蛙股の唐獅子の彫刻


ということで、極楽寺山門について写真多めでご紹介してきました。

この門は安土桃山時代から現代に至るまで何百年も三原の地にあり続けています。

これからも三原の街の移り変わりをずっと見守っていてほしいですね。


つづく
Posted at 2016/07/06 16:11:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2016年06月28日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十 現存建造物①糸碕神社神門】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十 現存建造物①糸碕神社神門】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

ここまで、三原城の東側のエリアを重点的に調べて参りました!

が、今まで取り上げてきた場所は、城の痕跡だとはわかりにくかったり、はたまた僕の妄想であったりとマニアックな内容が多かったので、ここらでたまには目で見てわかりやすい痕跡というか遺構をご紹介しようと思います!

というわけで、今回取り上げるのは、糸碕神社神門です!

この門は、三原城内にあった侍屋敷の門(生駒氏邸門)を糸碕神社に移築した=一度解体してリサイクルした門なのです!



この門の傍にはその由来が刻まれた石碑が建っています。



糸碕神社神門は、三原城内にあった侍屋敷門の一つで、明治8年(1875)生駒氏により当社に寄進され、現在の位置に移築されたものである。
三原城に関る当時の建造物のうち、現存するものは非常に少なく、貴重な遺構である。
構造及び形式は、二脚門で桁行5.75メートル、軒高3.67メートルの切妻造りである。
三原城関係の遺構は、このほか順勝寺山門(西町)、鐘撞堂(本町)、安楽寺山門(鷺浦町)などがある。


生駒氏について調べてみると、広島藩を統治していた浅野家の奉行を務めたお家柄との事で、江戸時代の三原の寺社町奉行を務めた人のリストに生駒市郎兵衛(1655年就任)の名前が挙がっておりました!(『三原市史』第二巻)

とはいえ、門を寄進された生駒さんとこのお奉行様がどこまで関係あるのかないのかは正直よくわかんないですけどね(^_^;)

ちなみにネットで検索していると、門を寄進された生駒さんちは町奉行所の西隣だったとかいう情報も。いつもの三原城の絵図を見ると「町奉行屋敷」はこの位置なので、その隣の屋敷にこの門があったのかな?



【追記】
絵図を拡大してみたら、町奉行屋敷の西隣の屋敷のとこに薄くて読みにくいですがちゃんと「生駒○○」って書いてあるのを見つけました!(○○の部分は何て書いてあるのか読めない)




そんな情報を頭に入れてから門を見てみると、改めて風格のある立派な門だなぁと感じます(^^)

横からのアングル


最後に。

僕には建築に関する知識がないのでうまく解説できませんが、門の細かい部分の意匠はこんな感じで。

懸魚


門扉


垂木とか母屋とか桁とか梁とか


蟇股


というわけで、現存建造物シリーズ第一弾でした!

城内にあった門は三原市内にあと三棟あります!

また取り上げますのでお楽しみに〜(о´∀`о)
Posted at 2016/07/24 17:15:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記

プロフィール

「かつて三原城内にあったという現存する移築門4棟、ついにコンプリート!(*´-`)
#糸崎神社神門(生駒氏邸門)
#順勝寺山門(作事奉行所門)
#安楽寺山門(御成御門)
#極楽寺山門(町奉行所門)
#三原城の痕跡を辿る
何シテル?   06/03 19:04
まっつん.と申します。 野球が好きです。 広島カープが大好きです。 多分、石橋を叩いて渡るタイプです。 広島東洋カープ目指せ日本一!! ...
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